礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ゲッベルス宣伝相とディートリヒ新聞長官

2015-10-31 04:45:25 | コラムと名言

◎ゲッベルス宣伝相とディートリヒ新聞長官

 ゲッベルス宣伝相つながりで、本日は、ナチス・ドイツの「新聞弾圧」について紹介したい。以下は、日本ジャーナリスト連盟編『言論弾圧史』(銀杏書房、一九四九)の最終章「第一・第二大戦と新聞ジャーナリズム」からの引用。この章を執筆しているのは、反骨のジャーナリストとして知られた鈴木東民〈トウミン〉である。

 第二次大戦におけるナチスの新聞弾圧
 策二次大戦においては、戦争準備としての新聞政策が両陣営とも組繊的に行われたのであつた。この場命、世界的に優秀かつ有力な通信網をもつている英米が有利な立場にあつたことはいうまでもない。両陣営の宣伝戦は特にトルコを含むバルカン諸邦、中南米においてはげしく展開された。
 第一次大戦における新聞政策の失敗にもかかわらす、またヒトラア自身がその著「マイン・カムプ」(わが闘争)の中で第一次大戦当時のドイツ政府の新聞政策、すなわち新聞の報道、評論の自由を政府が奪つたことに対し鋭い攻撃を加えているにかかわらす、ナチ政府は典型的な新聞弾圧をやつた。この新聞統制(Gleichschaltung der Presse)がファシズム諸国の陣営において極めて完全に組織的に行われたことは第二次大戦における特徴的な点である。ナチ政府は戦争準備としての新聞統制をすでに政権を獲得したその年すなわち一九三三年二月の末から着手した。この年の二月二七日、ドイツでは国会議事堂の放火事件が起り、これを口実に共産党が解散されつづいて間もなく社会民主党も同様の運命を辿つたのであるが、こうした政党統制と同時に新聞統制も行われた。反ファシズムの新聞やユダヤ人経営の新聞は暴力でナチスに占領された。その他の新聞でナチスが欲しいと思つたものは、買収という名目で乗つ取りをやつた。
 ナチスの新聞政策のため一九〇以上の社会民主党の機関紙と七〇以上の共産党機関紙とが廃刊となつた。宣伝相ゲッベルスと新聞長官ディートリヒとによつて新聞の編集と経営とに対する統制が徹底的に遂行された。反動的な新聞、例えばフーゲンベルグ・コンツェルンの諸新聞はその存続を許されたが、しかしその編集は政府の厳重な統制下におかれた。フーゲンベルグは第一次大戦当時クルップ軍需工場の総支配人をしていた経歴をもち、後に政界に転じてドイツ国権党の首領としてドイツ・ファシズム運動の指導的地位を占めていた。かれはヒトラア、シャハト、ゼルテらと共にハルツブルグ戦線とよばれたファシズム統一戦線を組織したのであるが、ヒトラアが政権を獲得した後はヒトラアのために政治の圏外に追われてしまつた。かれの失脚後はその新聞コンツェルンも完全にヒトラアの支配下におかれたのである。この徹底したファシズム的新聞統制の結果、自由主義的なジャーナリストは失業、投獄または亡命の憂目〈ウキメ〉を見たのである。

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