礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

安藤英治による大塚久雄批判

2015-10-02 02:16:30 | コラムと名言

◎安藤英治による大塚久雄批判

 昨日のコラムで触れた安藤英治著『ウェーバー歴史社会学の出立』(未來社、一九九二)という本について、少し、紹介してみたい。
 同書の巻末には、「附論」というものが付いている。大塚久雄という泰斗に対する厳しい批判を含んでいる。安藤は、まだ、大塚が存命のうちに、この批判をおこなっている。アカデミズムの世界においては、これは、かなり重大な事件だったに違いない。
 本日は、その「附論」の冒頭部分(五二一~五二二ページ)を紹介してみたい。

附 論
 梶山力訳「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は抹消されて然るべきか?

 私は全くそう思わない。主たる理由は二つある。
 一つは、難解の聞え高いこういう古典の、しかも名訳〔有斐閣、一九三八〕の聞え高かりし初訳者の名前は、訳者名として永久に残されるべきものである、と私は考えるからであり、
 二つには、今回の「大塚新訳」〔岩波書店、一九八八:岩波文庫、一九八九〕なるものには――今回比較検討を余儀なくされたのは原文にしてわずか二四頁にすぎないにもかかわらず――さまざまな意味で問題になることがらがあまりにも多く、梶山が訳し残した多数の註を補完した功績は絶大であるにせよ、梶山訳を吸収、止揚したものなどとはとうてい言えないと思われるからである。こういう二つの理由により、「まえがき」に表明した研究史に立つ私は、
 三、梶山力訳(一九三八年)を復活させ、欠落した註は私の責任において補完し、『梶山力訳、安藤英治編』として、再生させる考えでいることをここに明記する。
 一、と三、については、立入った説明の必要はあるまい。しかし二、については、自分の判断の客観的根拠を最少限度述べる必要がある。けだし、大塚ほどの先達の訳業に徹底的な異を説えるからには、それなりの論拠を示すことが後学たる私の義務でもあろうから。すでに本書第二部の「予定説正統論再考」を大塚訳とほぼ同時に発表したとき、大塚近辺の学友から、「今回の大塚先生の新しい御訳業を一体どうお考えになりますか」という詰問を受け、すでにそれ以前から梶山・大塚訳(梶山訳の大塚による改訂補充版)〔岩波文庫、一九五五・一九六二〕に対していくつもの批判を公表していた私には、今回の大塚新訳なるものに対する私の見解を公表すべき義務が客観的に課せられたことをも実感した。論文の中で引用訳文に対する微細な批判まで記述したのはそのためである。同時にそれは、梶山訳復活を宣言する〔一九九二年に実現、未來社〕ことの根拠を示すことにもなろう。全文を検討してはいないから、以下、こういう観点から、〔大塚新訳の〕巻末に付された「訳者解説」に対する一、二の感想を述べ、さらに、訳者の“翻訳に対する姿勢”について一言したいとおもう。詳細は、予定復活版に譲る。

 

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