◎ウェーバー研究者・安藤英治の自伝的あとがき
昨日、安藤英治の『ウェーバー歴史社会学の出立』(未來社、一九九二)の「あとがき」を紹介した。そこで安藤は、前著『マックス・ウェーバー研究』の「あとがき」に言及していた。本日は、その「あとがき」を紹介してみたい。
前著『マックス・ウェーバー研究』というのは、一九六五年一一月に「未来社」(当時は、この字を使っていた)から刊行された安藤英治の単著のことである。
この本には、二八ページに及ぶ長い「あとがき」が付されている。これをすべて紹介するわけにいかないので、本日は、その一部を紹介させていただこう。
あ と が き
【前略】
したがって、私は自己の研究動機を対象化して記録し、後書きに替えようと思う。自伝を書くのではない。あの戦争期を生き抜いてきた昭和庶民史の一コマを記録するのである。
自覚する限りにおいて、私の研究動機を直接規定したものは二つあった。一つは戦争に関するもろもろの体験であり、一つはマルキシズムをめぐる諸問題であった。そしてキリスト教の問題が三番目にくるが、この問題はむしろ今後に向っての問題である。
満州事変が満州国建国という形でおわった昭和七年〔一九三二〕の三月に、私は小学校を卒業した。中学(巣鴨商業学校)に入学早々の〔一九三二年〕五月には五・一五、四年生の〔一九三六年〕二月に二・二六、五年生になると六月に〔一九三七年七月に〕支那事変、専門学校(巣鴨高等商業学校)に進むと三年生の〔一九四一年〕一二月八日に真珠湾攻撃、直ちに繰上げ卒業。そして大学生活〔慶應義塾大学〕一年半という三年生で臨時徴兵検査によるいわゆる学徒動員。軍役服務中に卒業。したがって敗戦―軍隊解体で市民生活に復帰した時には自動的に失業者。私の世代の精神史は、戦争との関わり合い方によって根本的に規定されているように感じられる。しかし私個人の問題としていうならば、いわゆる戦中派論義のようになまの体験談に止まっていては、体験を異にする別の世代に、われわれの持った体験の意味を生産的に伝えることは難かしいと思った。もとより私自身にも、なまのままで人に語りたい強烈な体験はいくらでもあった。出撃直前の特攻隊の友人に別れを告げた時のことは、それが他人のことであっただけにかえって深い感動をうけた。或いは長崎の原爆患者と原爆投下当日以後数日間、諌早〈イサハヤ〉の海軍病院で同室、同居した時の強烈なショックは、私にとってはむしろ現在の問題ですらある。だが、それにも拘らず、そういう体験をなまのままで語ることを私は極力抑制した。問題は、そういう状況が私に迫って来たところに内在した問題性、およびそこに含まれた意味というものを普遍化することにあると思った。こういう状況の対象化が、私ウェーバー研究の根底に潜む動機に含まれていることを否定しようとは思わない。【以下、次回】