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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

佐々木喜善「偽汽車の話」(1923)

2015-10-26 04:29:51 | コラムと名言

◎佐々木喜善「偽汽車の話」(1923)

 本日も、雑誌『土の鈴』の第一九輯(一九二三年六月)から。この第一九輯には、佐々木喜善の文章が、ふたつも収められている。ひとつは、昨日、紹介した「大岡裁判の話」であり、もうひとつは、本日、紹介する「偽汽車の話」である。
「偽汽車の話」は、その後、一九二六年(大正一五)に、坂本書店の「閑話叢書」の第三篇、佐々木喜善著『東奥異聞』に収められた。
 今回は、『土の鈴』収録の初出と、『東奥異聞』収録のものとを対照することは、できなかった。ただし、平凡社の世界教養全集第三四巻(一九六一)所収の『東奥異聞』は、参照している。ちなみに、『東奥異聞』の坂本書店版は、どういうわけか、国立国会図書館に蔵本がない。

 偽汽車の話  佐々木喜善
 かなり古い時代から幽霊船の方が吾々の間に認められて居たらしい。ただし此の偽汽車〈ニセキシャ〉だけは極く新しい最近に出来た話である。ずつと古いところで明治十二三年から廿年前後のものであろう。其れにしては分布の範囲は鉄路の伸びるに連れて長く広い。克明に資料を集めて見たら、奥は樺太蝦夷が島の果てから、南は阿里台南の極みまで走つて居るかも知れない。自分は資料を多く集める機会をもつて居らぬが、誰でもこの話はどつかで一度は聞いたことがあるだらう。そこで自分の方の話から初めにして、次ぎに諸君から聴き度いと思ふのである。
 よくは訊いて見ぬが奥州の曠原に汽車のかゝつたのは何でも明治廿二三年頃のことであらう。当時俚人〈リジン〉は陸蒸気〈オカジョウキ〉だと言つて魂消た〈タマゲタ〉。岩手県二戸〈ニノヘ〉郡大野村などでは、大野中程に陸蒸気出来た、お前船頭でわし乗るべ――と云ふやな俗謡まで出来た程である。其大野にもあり、それから四十里ばかりも離れて居ようか、上つて陸中和賀郡の小正月の晩、狐のお作立〈オサクタテ〉や当年の吉凶予報の野外劇で有名な後藤野【ごとうの】にもあり、仙台に入れば小午田【こもた】の広里にもあり、栃木の那須野ケ原にもあつたと言ふのはこの偽汽車の話である。此の話は皆さんは名を聞いただけで直ぐにあの話かとうなづかれるだらうが、自分は念の為めに諸国何所〈ドコ〉でも同じだらうと思はれる其の梗概を一つお話しする。例は自分の所から二十里程の後藤野の話。
――何でも此の野に汽車がかゝつてから程近い時分のことであらう。いつもの夜行の時で汽車が野原を走つてゐると、時でもない列車か向ふからも火を吐き笛を吹いてぱつぱつやつて来る。機関士は狼狽して汽車を止めるとむかふも止まる走ればやつぱり走り出すと言つたやうな按配式で、野中に思はぬ時間をとり、其の為めに飛んでもない故障や過ちが出来〈シュッタイ〉して始末に了へなかつた。そんなことが屡々あると、どうも奇怪な節々が多いので、或夜機関士が思ひ切つていつものやうに向ふから非常な勢ひ込んで驀然と走つて来た汽車に、こちらから乗込んで往くと鳥渡〈チョット〉真に呆気なく手応へが無さすぎる。其れで相手の汽車は他愛なく消滅したので翌朝検べて〈シラベテ〉見ると、其所〈ソコ〉には大きな古狐が数頭無惨な轍死をして居つたと言ふのである。何処も此の筋で行つて居るやうだ。多分大差がなからうと思はれる。其の好例だと思ふのに、大正十年〔一九二一〕十月廿一日の万朝報〈ヨロズチョウホウ〉に次ぎのやうな記事が載つてあつた。面白い記事であるから、その全文を採録する。曰く――
 中央線松本と篠の井〈シノノイ〉との間の潮沢〈ウシオザワ〉の大地辻り〈オオジスベリ〉の区域は昔から鉄道当局が少からず悩まされたところで、今も霖〈ナガアメ〉の後には幾分づゝ地辷りを繰返し、俗に地獄鉄道と呼ばれてゐる。一体信州の鉄道には大小の地辷り場所が外〈ホカ〉にもあるが、潮沢は一方が深い谷、一方は粘土の山で、其の中腹を這はせてある。線路が一夜の間に谷底に消えたことも、又列車が地辷りに乗つて転がり落ちた例もある。夫〈ソレ〉は別として此山中で今でもよく人々が語るRomansを紹介する。隣家へ何町、臼の借貸しも山坂が急で危いという此山間に、お半婆さんと言ふのが居た。ある朝新〈アラタ〉に誰かが作つた道を辿つてゐると、遥か向ふから真黒な怪物が大きな眼鏡をかけ、太い煙管でもくもくとタバコをふかしたがら近づいて来た。婆さんは驚いて腰を抜かした。近づいた怪物は大きな息をして、何かどえらい声を出したが婆さんは逃げる気力が無かつた。是は汽車であつた。機関士は頻りに非常汽笛を鳴らしたが婆さんは動かぬので進行を止め、下りて行つて婆さんを線路から引張り出した。其後婆さんは幾度も汽車を見慣れたが、先頭の機関車だけはどうしても生物〈イキモノ〉だと主張してゐた。話変つて、雨のそぼ降る六月の朧月夜〈オボロヅキヨ〉であつた。潮沢山中の白坂トンネル附近に進んだ列車の機関士が、前方からくる一列車を認めた。非常汽笛を鳴らすと同じく向ふでも鳴らした。止まると向ふも止まつた。鏡に映るやうに此方の真似をする。機関士は思ひ切つて驀進に〈マッシグラニ〉進行を始めた。衝突と思う刹那に列車は影を消した。其後も二三度出あつた。いつも月の朧な夜であつたが、やがて線路に一頭の古狐が轢死した後は其事も絶えた。附近に今でも其狐の祠〈ホコラ〉があるとか、怪しい列車は狐の化けたものとして土地の人は信じてゐる。月朧〈ツキオボロ〉の山間には機関士の錯覚を誘ふ樹木石角の陰影もあらうが、鉄道開設時代の獣類に関する之に似た話は各地にもある。
 斯う〈コウ〉言つてゐる。先づ大凡〈オオヨソ〉這麼〈コンナ〉話である。此の話が其麼〔ママ〕辺まで進展して往くか分からぬが、後には屹度一つの纏つた口碑にならうと思はれる。船幽霊の伝説は立派な花葉を飾り持つて居る。そして神秘な海洋といふ背景が許さぬから彼話をば今以ていよいよ不可思議なものにして居る。併し偽汽車の語では其結末が何れもあつらへたやうに多少のユーモアを交へた狐狸の仕業に帰してゐる。此れは広いと言つたとて高が知れた限りのある草原の話だからであらふ。話者も前話では何処までも深重な表情で語の余韻をばミスチカル〔mystical〕にしようとするが、此話では屹度語り了つてから破顔一笑するのが其の型である。此れ位に両話の機縁が違つてゐる。
 併し此話は先にも言つた通りに極く新しい口碑である。其れだけ未だ充分に完備した強固たる根生〔ママ〕と同情とを持つていぬのも致方〈イタシカタ〉ない話である。例へば自分の最〈モットモ〉近き斯話の発生地だと言ひ伝はつて居る村に行つて訊くと、きまつて土地の人は其んなことはあるものですか、知らぬと言ふ。否そんな筈がないがと言つたつて、本場で知らぬ物はどうも出来ぬ。そこで土地の人から反語的に斯う云ふ案内を受けるのである。それは俺が所の話ではないが、関東の那須野が原にあつた話ださうなと。此話をそれでは民間には全く不信用のものとして、仮りに鉄道当局の記録課(若しさう云ふ所があつたなら)へ持ち込んだとしたなら、此れも必ず否〈イナ〉と言はれるであらう。此れでは此の新しい興味ある口碑は単なる偽〈ウソ〉となつて立ち消えねばならぬ果敢ない〈ハカナイ〉運命のものであらねばならぬのである。
 ところが事実は全く正反対の結果である。現に北海道で、樺太で、と日本人の往く新領地へはどんどん伸びて行つている。何もそんな遠方の話でなくとも十里二十里へ往く山間の軽便鉄道にまでその悪戯〈イタズラ〉が何日〈イツ〉あつたと噂されるやうになつて居る。併しそれはどうも朧月夜の出来事である。真偽如何、樹木石角の幻影やは井上〔円了〕博士の妖怪学講義でも見たら直ぐ片がつくことだらうが、たゞ其れだけでは片付かぬのは、いつも言ふ所の其噂の流布的信仰の点である。どうして其麼〈ソンナ〉話が斯く広く多く広まつたであらう。此事に就いては諸君には屹度其れはと言ふ好き〔な〕御考へがあるだらうから、それは私は正直に教示して頂きいただき度いとして、然らば私はどう考えてゐるかと言ふと、やつぱり今の所では此れだけのことしか言はれぬやうに思ふのである。其れは斯うである。
「どうも‥‥‥」      (四月廿一日)

 文中、「其麼〔ママ〕辺」としたところがあるが、これは、「何麼辺」の誤植である可能性があると思ったからである。平凡社の世界教養全集所収の『東奥異聞』では、当該箇所は、「どの辺」という表記になっている。

*このブログの人気記事 2015・9・26(9位にかなり珍しいものが入っています)

 

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佐々木喜善「大岡裁判の話」(1923)

2015-10-25 04:10:32 | コラムと名言

◎佐々木喜善「大岡裁判の話」(1923)

 本日も、雑誌『土の鈴』の第一九輯(一九二三年六月)から。佐々木喜善〈キゼン〉の「大岡裁判の話」という記事の紹介。佐々木喜善は、遠野の人で、柳田國男に『遠野物語』の素材を提供したことで知られている。ここでは、「大岡裁判」に関わって、仕入れたばかりの貴重な昔話を提供している。

 大岡裁判の話  佐々木喜善
 宮武省三氏が十八輯に話された大岡越前守の裁判の話に就て、自分も極〈ゴク〉最近当地(陸中遠野)の昔話蒐集の時に其の資料を一つ得て居るから左に報告する。勿論氏の話は古く南方熊楠先生が人類学雑誌(三百号、明治四十四年三月)に「西暦九世紀の支那書に戴せたるシンダラ物語」と題されて広く世界各国の類似古語の比較研究を御発表なされたことを記臆してゐる。
 扨て〈サテ〉自分の方の話は、或所で嫁姑一度に産をして生児を同じ器で洗ひ上げたところ、どつちが自分の子であるかゞ解らなくなつた。其れは男女の子等〈コラ〉であつたので、嫁姑は何れも男の子の方が己れ〈オレ〉のだと言ひ張るとごても埒〈ラチ〉が明かぬので、大岡様に持ち込んだ。大岡殿も之には殆ど困つて如何〈ドウ〉することも出来ぬ。所が或日川狩に行くと、川原に子供達が三人遊んで居て、何か頻りに口論してゐる。近寄つて聴くと稍〈ヤヤ〉大きい童〈ワラワ〉が大岡になり、あとの二人は訴人になって、斯麼〈コンナ〉事を問答して居る。其れは一ツから十迄算へて行くうち、只十にだけツが無いが之は如何言ふ訳かと問ふ。子供の大岡殿は、其れは五ツにツが二つ重つてあるから、其の一ツを千に持つて行けば無難ぢやど謂ふ。
 次には近頃有名な近所の嫁姑の子争ひの裁判となる。二人の子供達はお産の真似をし、産児を器に混交して洗上げ、之は男と女の子ぢやが己〈オレ〉の子は男の子ぢやがと言ひ争ふ。主張は何れも極めて剛強である。大岡殿は熟々〈ツラツラ〉考へた上、両婦の乳汁を同型の椀に盛り、秤り比べて観て、刊其重量のある方が男の子の実母であると言つて斯くする。すると姑の方の乳汁が嫁のゝ倍になる。其所で此の裁判は姑の勝、嫁の負けになつて終る。其を薮の中で見てゐた真物〈シンブツ〉の大岡殿はいたく驚服する。さうして其の子供達の行末〈ユクスエ〉を見届け度い〈タイ〉と思つて、後をつけて行けば、遠い山へ往く山の奥に一軒の家があつて子供等は其処に入る。大岡も続いて入つて見ると、今入つたばかりの子供達も見えず、全く無人の家である。不思議に思つて四辺を見廻すと、其の家には真中にたつた一本の柱のみ立つて居る。即ち一本柱の家である。呼べども更に答へないから家に還つて直ちに懸合ひの訴家に行き、さきの子供の裁判した通りにして子供の区別を着けた〈ツケタ〉と謂ふのだ。それから後日大岡は、其の山奥で見た一本柱の家から工風して、今の傘と謂ふものを造り出したと謂ふ。(村の六十七歳になる辷石谷江〈ハネイシ・タニエ〉と云ふ老媼の話。大正十二年三月四日聴く。)
 自分の話は之れだけである。谷江婆様は附加へて、其の子供達は神様達であつたと云ふてゐる。傘の始まりなども自分は知らぬが立派に文献に載つてあることだらう。大岡様に傘を発明させたのも奇であるが、諸々の此の類似話の中で神童に暗示されて名裁判をしたと謂ふ筋も珍しいと思ふ。但し此の話には其の主調であるらしい子供の引張合ひの段がない。之れは両婦の生児がとにかく立派に生存して居た為めか、又は婆様は永い歳月の間に忘れ落したものか、聴いた時直ぐ自分は他所では子供の引張合ひがあると言つて見たが、其れは更に婆様の記臆になささうであつた。此の婆様が十二三の時に祖母から聴いたものだとのことである。自分の報告は之れで終りである。 (四月廿七日)
 附 記  二婦の乳汁を秤り此ぶる事バートンの千一夜譚補遺に出づる由前項南方氏の記事に見ゆ、参照(桂〔本山桂川〕)

*このブログの人気記事 2015・10・25

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大正期の大阪、夏の夕方におでん屋の売り声

2015-10-24 03:47:28 | コラムと名言

◎大正期の大阪、夏の夕方におでん屋の売り声

 十年ほど前、雑誌『土の鈴』を何冊か入手した。一昨日は、その第一八輯から、「女泣石と女形石」という文章を紹介した。本日は、その第一九輯(一九二三年六月)から、「大阪おでんやの売り声」という資料を紹介する。報告者は、郷土玩具画家として知られる川崎巨泉(一八七七~一九四二)である。
 ここで、「おでん」というのは、いわゆる「関東だき」(煮込みおでん)のことで、その素材は、たぶん、こんにゃくであろう。「中山」が、どこを指すかは不明。
 それにしても、大正期の大阪では、夏に「あつあつ」のおでんを食べていたことに驚いた。

大阪おでんやの売り声
 コオレコオレ新玉【しんだも】おでんさんお前さん出処【でしよう】は
どこじやいな、わたしの出処は、こーれより東
常陸の国は水戸さんの領分、中山そだち、国の
中山出る時は、わらのべゝ着て縄の帯して、鳥
も通はぬ遠江灘を小舟に乗せられ辛難苦労をい
たしまして、落ちつく先は大阪江戸堀三丁目、
はりまやのテントサンのお内で、永らくお世話
になりまして、別嬪さんのおでんさんにならふ
とて、朝から晩まで湯にいつて、湯からあがつ
て化粧してやつして櫛さいて、堂島ヱラまち竹
屋の向ひのあまいおむしのべゝを着て、柚に生
が、ごまにとんがらし青のりさんしよをチヨイ
トかけてうまい事な、おでんあつあつ。
―――――――――――――――――――――
 夏向きになると夕方から屋台店を曳いて島の内〈シマノウチ〉辺から難波新地〈ナンバシンチ〉の色町の方へ廻る田楽屋の売声、是れが存外長たらしい、此爺さん歯が抜けてゐるので声が少々漏れる気味があるが却て面白く聞える。丁度私の宅の前へ車を下す事になつてゐるので或る夏に鉛筆と首つぴきで覚え込んだのを皆様に御披露いたします。友人の話では大阪全市を廻つて居るさうです。 ―川崎巨泉―

◎昨日の問題(ぴよぴよ大学)の解答

 ロ   イ   イ  4 イ   ロ
 ハ   ハ   ハ   イ  10 イ

追記(2022・6・22) 上の記事の一部に、訂正の必要があることに気づいた。〝「おでん」というのは、いわゆる「関東だき」(煮込みおでん)のことで、〟という部分は、〝「おでん」というのは、いわゆる「田楽」のことで、〟と訂正しなければならない。この訂正については、当ブログの記事〝大正期における大阪の田楽屋と「おでん」について〟(2022・6・22)で、理由などを説明したので、ご参照をお願いしたい。

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旭化成提供、河井坊茶の「ぴよぴよ大学」

2015-10-23 04:00:14 | コラムと名言

◎旭化成提供、河井坊茶の「ぴよぴよ大学」

 一昨日の鵜崎巨石氏のブログによれば、氏は、その少年時代に、ラジオ番組「ぴよぴよ大学」の公開収録(茗荷谷ホール)に立ち会われたという。そのとき氏は、カイゼル髭に丸メガネ、総長帽をかぶり、ガウンを羽織った「チキン総長」こと河井坊茶〈カワイ・ボッチャ〉の姿を、実見されたことになる。
 本日は、『クイズ年鑑 1955年(前期)』から、その「ぴよぴよ大学」の解説および問題、ついでに、河井坊茶のエッセイを紹介してみたい。問題の解答は、次回。

ピョピョ大学〔ママ〕
  旭化成提供
 解 説
「ピヨピヨ大学」などというと、いかにも子供向のクイズのような感じがするが、これはまた相当に高い知識を要求されるクイズで、問題の選定、検討の入念なことで定評がある。
 演出は、一つの課題に対し、正誤とりまぜて三つの解答が用意され、その中から解答者が正しいものを選ぶ、という形ですすめられるのだがその三つの異った答は「おんどり博士」「めんどり博土」「ちゃぼ博士」の三者から提出される。
 解答者は親子連れで出演し、親子が夫々〈ソレゾレ〉で正しいと思う答を採って答えるのだが、親子意見を異にして、別々に答をとり、親が誤まり子供が正解をして、「お父さん、駄目じゃないか」と子に叱られ、親が子に謝まって満湯の爆笑を誘うことも多く、内容の固さを、うまい演出で柔らげ立派なファンを保持している。
 放送局名 北海道放送、ラジオ東京、中部日本放送、ラジオ北陸、ラジオ北日本、福井放送、朝日放送、ラジオ九州
 出演者への謝礼 親子共正解二千円、どちらか一人正解の時五百円
 出題者への謝礼 採用分一問千円
 出題及び出演申込先 (ラジオ東京―東京都中央局区内 旭化成ラジオ係)(朝日放送・中部日本放送―大阪中央局区内 旭化成ラジオ係)(ラジオ九州―福岡市天神町、旭化成ラジオ係)(北海道放送―札幌市、北海道放送局気付ぴよびよ大学係)
 プロデューサー 大垣三郎、野田裕
 司会(チキン総長) 河井坊茶
 問 題
 魚は焼いたものと、煮たものと、生のとではどれが一番消化しやすいでしょう。
 イ 焼いた魚
 ロ 生の魚
 ハ 煮た魚
 (出題者・佐賀県 中山享)
 人によって、でべその人がいますが、どうしてでべそになるでしょう。
 イ 赤ん坊のとき腸がおへそに出て来たため
 ロ 遺伝のため
 ハ 子供のとき、おへそをいじりすぎたため
 (出題者・三重県 高尾正忠)
 漫画でよくタコが歩いている絵をみますが、タコは歩くことかできますか。
 イ 漫画とそっくり足を立てて面白いかっこうで歩く
 ロ 海中にいる時だけ水の浮力で歩ける
 ハ 歩くことは出来ない
 (出題者・岡山県 岡本文治)
 頭髪をのばすように、眉毛をのばしているのを見ませんが、なぜでしょう。
 イ 余り長くならないうちに生え変わるから
 ロ 伸びるようでもある程度で止まるから
 ハ 顔を洗うから、すりへってしまう
 (出題者・名古屋市 川地正智)
 パンを作るとき、イーストを使いますが、ふくらむのは何がふくらむのでしょうか。
 イ イースト菌自身がふくれる
 ロ 炭酸ガス
 ハ 水素
 (出題者・東京都 鈴木繁)
 蝶々はどこで味を感じるのでしょう。
 イ 口の中
 ロ 触角
 ハ あしで感じる
 (出題者・広島県 瀬尾岩三)
 暖流と寒流とがぶつかると、どうなるでしょうか。
 イ 暖流が寒流の下をくぐる.
 ロ 一緒にまざる
 ハ 寒流が暖流の下をくぐる
 (出題者・群馬県 横田幸次)
 ヘビやカエルは冬眠をしますが、熱帯地方に住むヘビやカエルは眠るでしょうか。
 イ 眠る
 ロ 最も暑いとき、冬眠のように水や土の中に眠る
 ハ 最も涼しい期間に眠る
 (出題者・岡山県 役重利通)
 アリが遠くまでいっても、迷わずに帰ってくるのはどうしてでしょう。
 イ 薄い臭いを出して歩くので迷わない
 ロ 太陽の位置でわかる
 ハ 地面の温度と風向きによってわかる
 (出題者・鹿児島県 児玉義一)
10 ひじを強く打ったとき、ビリビリと電気がつたわったように感じるのはなぜでしょう。
 イ 神経が浅いところにあり、その後に骨が来ているから
 ロ 骨と筋肉かまさつして、まさつ電気が起ったから
 ハ 神経でなくリンパ管が刺げきされたから
 (出題者・東京都 小沢義宜)【以下略】
    *    *    *
 総 長 放 言  河合坊茶 (芸能人)
 私の大学総長ぶりは、会場へ来られた人以外には知る人もすくないのですが、堂々たるもんですよ。本当に大学総長をやったことかあるかも知れぬと思われるくらいのものです。
 ところがラジオの前では、まことに残念なことに声だけです。いくら総長と紹介されても、私の不幸は声に威厳がすこしかけていることです。名が体をあらわさぬ例外がここにあるということを知ってもらいたいのです。
 吾が「ぴよぴよ大学」の名声は、その知名度において、東大、早大、慶大の次ぎくらい、全国に老若を別たず知られています。従って総長のいでたちも、それと同格。威風あたりをはらい、口のあたり、ひげがそれらしく生えています。
「馬子にも衣裳」といいますが、週一回この衣裳を着る私は、大満足です。総長帽を頭に戴いているうちに、そっと中味もそれらしくなってくれたらいいんですがねえ……

*このブログの人気記事 2015・10・23

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信夫郡松川村石合の女泣石(1923)

2015-10-22 05:35:09 | コラムと名言

◎信夫郡松川村石合の女泣石(1923)

 本年七月八日の当ブログに、「松川事件と『女泣石』」というコラムを書いた。松川事件の現場に、「女泣石」〈メナキイシ〉という奇石が存在するのは、偶然ではないということを述べた。事件の首謀者が、犯行場所を選定する際、あるいは、関係のメンバーにその場所を伝達する際、この奇石が目印とされたという見方を示したのである。
 その後、『土の鈴』第一八輯(一九二三年四月)に、「女泣石と女形石」という文章が載っていることに気づいた。本日は、これを紹介したい。筆者は、俳人の富士崎放江(一八七四~一九三〇)である。
 なお、『土の鈴』は、民俗学者の本山桂川(一八八八~一九七四)が、長崎市で編集・発行していた雑誌で、非売品。

 女泣石と女形石  放江庵主人
 東北本線の上り列車が福島駅を発車しまして十五分、金谷川駅を通過してから約一哩〈マイル〉も走つた頃、視線を左側の窓前に放つて居りますと、千頃〈センケイ〉の桑圃が水田に尽きて小丘を為して居ります。その土崩れした崖の根元から、突兀〈トツコツ〉として一大巨石が天に朝すと申せばチト大袈裟ですが、怪偉な雄姿を聳やかして居るのを見るのであります。長さは六尺しかありませんが―発掘したら余程長いものでせう―楕円型より少し長目で、周りは二タ抱〈フタカカエ〉慥に〈タシカニ〉あります、そしてその尖端に亀裂がありまして、全容は驚大な男根の亀頭に酷似して居るのであります。
 この石のある地域は、福島県信夫郡〈シノブグン〉松川村字石合〈アザ・イシアイ〉で、字名もこの石のある所から命名されたものらしいのであります。自然の悪戯〈イタズラ〉とは云へ、聊か〈イササカ〉ならず滑稽に感ぜられるのでありますが、土地人に依つて、遠い音から一種の霊異と崇信が伝へられてあります。それは原人以来、已に〈スデニ〉陳腐に申し伝へられて居る性器崇拝なのでありますが、その信仰を更に露骨に表現せしむべく、懐胎を念求する婦人は自分の肌をこの石の一部に抱着せしめて、その体温で石の肌が徴温を呈するまで念々抱擁を続ければ、必ずこれに霊感して受胎するといふのであります。併し灯台下暗しのい故か、土地人の信仰はそれ程でもありませんが、隣郡から聞き伝へて、時折参詣イヤ祈願してゐる婦人を見受けるそうです。何しろ桑畑と水田の間にありますので、白昼之を抱擁する程熱烈な信仰者もありますまいが、たゞ祈念だけしてゆくものは月に五六人位見受けると、そこの桑畑に枯枝を束ねて居る耕夫が話して呉れました。が幸に祈願が成就して、玉の如〈ヨウ〉なのが生れたからとて、お礼参りに来てもお供物も捧げられないし、マサカ鳥居も建てられないのですから、閭人はたゞ壟圃〈ロウホ〉中の一大頑石としか見て居らんのであります。併し不思議なことにはこの石の在る所へ通ずる田の畔〈アゼ〉よりか稍〈ヤヤ〉広い道が、西と南に二筋、しかも坦々と踏みつけられてあるのを見ますと、窃か〈ヒソカ〉にお百度位踏んで居る熱心な信者が屹度〈キット〉あることを証明されるのであります。
 話は異ひ〈チガイ〉ますが、あのスキーで近頃有名になつた隣県〔山形県〕の五色〈ゴシキ〉温泉は、あかん坊の出来る温泉といふて昔から名高いのでありますが、これは浴槽の中に抱石〈ダキイシ〉ご云ふ一と抱え〈イトカカエ〉位の滑々〈スベスベ〉した石があるのであります。温泉の中にあるので、これに裸のまゝ抱付いて居たとて一向差支〈サシツカエ〉ありませんけれども、松川の女泣石は四方空澗な田園の中に在るのですから甚だ抱付きにくいのであります。でありますから僅か三里しか隔てゝ居らぬ福島の市民にもこの石の所在すら知つて居る者は稀なのであります。
 女沈石どいふ名称は、婦人が泣いて祈願するといふ意であると土老が申して居りますけれども、宮居〈ミヤイ〉さへない露出の崇拝神でありますから縁起も由緒も昔からな〔か〕つたのでありませう。
【一行アキ】
 この男性神に対立して、福島市を距る〈ヘダツル〉東約一里の地点(信夫郡岡山村大字山口字女形〈アザ・オナガタ〉)――県道の坂みちを開鑿〈カイサク〉した傍側を、約三尺程深く削込んだ所に安置してある「女形石〈オナガタイシ〉」の現存してるは何といふ奇因縁でせう。この石は三四年前までは、スグこの道の下の鈴木半四郎さんの屋敷前に転がつて居たのですが、通行の男女が恰度〈チョウド〉腰を掛けるによいので、疲れを休めたりなどして居りました。不思議にもこれに腰をかけたものは屹度怪我をするとか、下〈シモ〉の病に罹つたり〈カカッタリ〉しますので、これは字名〈アザナ〉の根元たる名石であるのに、腰をかけたりなどするから罰〈バチ〉が当るのであらう今に石神の怒〈イカリ〉が強くなつて大罰の当らぬうちに他の所へ奉祀しようではないかと相談があつて、村の青年団有志も手伝ひ、現在の所へ舁ぎ上げて安置したのださうです。石の高さは約二尺位で、幅は二尺七八寸の横広がりです。そしてその形状は桃の実の断面を見るやうに頂点から一尺二寸ほど割れがありまして、石肌の荒らい花崗質の苔石であります。併し松川村の陽石の如〈ゴトク〉に、その形状が真に迫つて居りませんが、裂割したあたりに苔が生え蒸して凹面を掩うて居るさまは、聊かながら髣髴させて居ります。それを一昨年の旧十一月十五日同村の老神職山口道智翁(七十五歳)が御魂鎮めをしましてから、毎年この日を祭日と定め奉祀することになつたのであります。そして此の石に何神の御霊を鎮魂したかと聞けば天宇受〔売〕命〈アマノウズメノミコト〉だと道智翁が真面目に答へられたのには、勿体ないことですが噴飯さず〈フクダサズ〉には居られなかつたのであります。いかに陰石だとて数ある女神の中から特に天宇受売命を択抜して鎮魂したのは道智翁一代の御手柄であらうと村の人々も言囃して居ります。爾来女の病気なら何んでも祈念して平癒せぬと云ふことなく、現に慢性の子宮病が立所〈タチドコロ〉に快癒して愛児を挙げた霊験が同村にも二三いやちこ〔灼然〕がられて居ると道智翁の御託宣であります。
信夫一国誌といふ古い本に、山の形が恰度ホドに似て居るから山口村女形といふと書いてあるさうですから、可なり古くからこの石の存在が認められて居たらしいのであります。
 附記 本稿の骨子は昨年四月報知新聞福島版に連載された「信仰ロマンス」の材料で、同記事の筆者有馬暁鼓君の快諾を得て抄録したのであります。写真も同君が撮影されたのを頂きました。

 このあとも、『土の鈴』の記事の紹介を続けたいと思っていますが、明日に限っては、『クイズ年鑑 1955年(前期)』に話を戻します。

*このブログの人気記事 2015・10・22(10位にきわめて珍しいものが入っています)

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