礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

福沢諭吉の異色作『かたわ娘』

2012-06-09 05:15:09 | 日記

◎福沢諭吉の異色作『かたわ娘』

 福沢諭吉が偉大な啓蒙思想家であることは、誰もこれを否定しない。しかし、思想家・文筆家としての福沢のユニークさを、原典にあたって確認した経験がないという人は、意外に多いのではないだろうか。そのような人にお奨めなのが、初期の異色作『かたわ娘』(一八七二年=明治五年)である。
 当時の福沢は、民衆の知的レベルを効果的に向上させようという戦略を持っており、その戦略に従って、『西洋事情』(一八六六)、『学問のすゝめ』(一八七二)などの啓蒙書を発表し、普及させていった。
 そうした中で、『かたわ娘』(『寓言かたわ娘』とすべきか)は、これまで、あまり注目されたことはない。これには、タイトルに「差別語」が使われているという事情も関わっていると思われる。しかしこれは、実に巧みに書かれた戯文であり、またかなり過激な(ラジカルな)啓蒙書でもある。
 文章としては、きわめて短い。現物を手にとったことはないが、「半紙判仮嚢綴〈カリフクロトジ〉」、本文わずか五丁(一〇ページ)の小冊子だという。ここで福沢は、「身体加工」の旧習、具体的には、成人女子の間でおこなわれていた眉毛を剃り、歯を黒く染める習慣を批判の対象にした。
 ちなみに、入墨・抜歯・断指のように、身体に元に戻せない変工を加えることを「身体変工」というが、眉毛を剃る、歯を黒く染めるなど、元に戻せるような範囲での加工は、「身体加工」というらしい。
 福沢は、この冊子において、眉毛を剃ったり歯を黒くしたりすることは、遅れて野蛮な風習だというふうな、ダイレクトな批判はしない。そのように、頭から決めつけるのではなく、意外な切り口から、これらがいかに不合理な風習であるかを説いたのである。
 福沢は、「旧習」に拘泥する民衆の心意というものをよく理解していたと思う。だからこそ、「寓話」という形を借りて、民衆の心に直接語りかけようとしたのである。
 ある金持ちの家に、「かたわ」の女の子が生まれた。生まれつき眉毛がなく、歯が黒かった。子どものうちは後ろ指を指されることもあったが、成人後は、誰からも後ろ指を指されなくなった。眉を剃ったり歯を黒くしたりする手間がかからないので、むしろ本人も喜んでいる。ザッと説明すれば、こんな話である。明治以降も根強く残存していた「身体加工」の風習に対し、福沢はこういう形で批判の矢を放ったのである。それにしても、何とも強烈な「喩え話」ではないか。
 その語り口がまた巧みである。福沢の語り口の巧みさについては、是非、原文で確認していただきたい。原文は、明日のコラムで。

今日の名言 2012・6・9

◎ことばをテーマとする学問は、あまり多くの知識は必要でない

 言語学者の田中克彦さんの言葉。言語学において大切なのは、知識よりも「すじみち」だという。そう言われると、少し言語学を齧ってみようかという誘惑に駆られる。この言葉は、『差別語からはいる言語学入門』(ちくま学芸文庫、2012)の「ちくま学芸文庫版へのあとがき」にある。ちくま学芸文庫版は、6月6日発売。なお、同書の元版は、2001年に明石書店から出版された。

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