礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「授権法」はヴァイマール憲法の改定か

2015-10-10 04:00:55 | コラムと名言

◎「授権法」はヴァイマール憲法の改定か

 昨日に続き、青木茂雄さんのヴァイマール憲法論を紹介します。

ヴァイマール憲法は「改定」されたのか「破棄」されたのか?  (4)
 ─ケルロイター『ナチス・ドイツ憲法論』を読む─  青木茂雄

【「授権法」はヴァイマール憲法の改定か】
 前回カール・シュミットが「ワイマル憲法第76条の規定により、憲法改正法の形で、これに必要な3分の2の多数をもって可決された」と書いたことを述べた。それは次の条文である。
「第76条  憲法は、立法によりこれを改正することができる。ただし、憲法改正のためのライヒ議会の議決は、法律の定める議員定数の3分の2以上の議員が出席し、少なくとも3分の2以上がこれに同意する場合に成立する。憲法改正のためのライヒ参議院の議決も投票総数の3分の2以上の多数を必要とする。人民請求にもとづき、人民投票をもって憲法改正を決定する場合には、有権者の過半数の同意がなければならない。」(カール・シュミット『憲法論』みすず書房版の巻末資料による)
 まず、条文にある「立法によりこれを改正する」ということの意味がいまひとつ不明確である。憲法の条文そのものを変更するのか、それとも憲法の例外規定を法律が定め得るというのか(原文と照らし合わせていないので現在の私には判定不能である)。
 ところで、同様な「授権法」を制定したのはヒトラーが最初ではない。シュミットの『大統領の独裁』(田中浩・原田武雄訳未来社版)の田中浩による巻末の解説「大統領の独裁とワイマール共和国の崩壊」(田中浩『カール・シュミット』1992年未来社、にも採録)によると、授権法(Ermächtingsgesetz )は、1919年4月17日の法律「戦時経済から平時経済への移行規制のための緊急必要な命令」、1920年の8月3日の法律、1922年2月6日の法律などがそれにあたり、また、憲法改正手続きを経て制定された1923年10月13日(シュトレーゼマン内閣)、及び12月8日(マルクス内閣)の「授権法」などがそれにあたる。当然、議会内では社会民主党の閣内協力拒否などの猛烈な反対があったが、内閣は議会に数の力で強行させた。
 この「授権法」はいずれも時限立法であったようである。とすると76条の規定のもとに行った「憲法改正」というのは憲法の明文改定ではなくして、憲法の例外規定を法律で定めた、と推測される(日本語の研究文献も見つからず、私としては「推測」するのみである)。田中の上記論文は本文の注として次の文のように書いている。
「(F.M.Watkins, “The Failure of Constitutional Emergency Power under the German Republic,1939” p85)しかし、これらの臨時的立法措置は、議会の法律で厳重に時間を限って制限されていたので、緊急措置の必要がなくなったのち、長期間にわたって、政府がこの権限を執行することはできなかった。だが、この特殊な経験の成功は、近代立憲統治における緊急権の源泉としての授権法としての価値を確固たるものにしたのである。」
 しかしながら、ヒトラーが議会内外で強権的手段を駆使して成立させた1933年3月24日の「国民及び国家の艱難を除去するための法律」はそれ以前の「授権法」をはるかにしのぐものであり、文字通り「全権委任法」にほかならなかった。それは以下の条文である。

「第1条 ドイツ国法律は、ドイツ国憲法に定める手続きによるほか、ドイツ国政府によってもこれを議決することができる。このことは、ドイツ国憲法第85条第2項および第87条に明示された法律(予算の執行等に関する条項、引用者注、以下同様)についても適用される。
 第2条 ドイツ国政府が議決したドイツ国議会およびドイツ国参議院の議事対象とならない限り、ドイツ国憲法に背反することが許される。ドイツ国大統領の権利は従来の通りとし、変更されない。
 第3条 ドイツ国政府が議決したドイツ国法律は、総理大臣(ヒトラーのこと)がこれに手を加えて完全ならしめた上、ドイツ国法律公報をもって公布する。他に別段の定めの無い限り、このドイツ国法律は公布の翌日施行される。ドイツ国憲法第68条以下第77条(議会の権限が明記されている条項)までは、ドイツ国政府の議決する法律には適用されない。
 第4条 ドイツ国が外国との間に締結する条約のうち、ドイツ国の立法対象となるものは、本法が効力を有する間は、立法に関与する団体の同意を要しない。右の条約を施行するために必要な法規は、ドイツ国政府がこれを公布する。
 第5条 本法は公布の日をもってこれを施行する。本法は1937年4月1日をもってその効力を失うものとし、さらに現ドイツ国政府が辞職して、他の政府がこれに代わる場合にも、本法は効力を失うものとする。」
(ワルター・ホーファー『ナチス・ドキュメント1933~1945年』救仁郷繁訳p77) 

 これは、第2条に「ドイツ国憲法に背反することが許される」とあるように、明らかな法律による憲法の機能停止であり、7年後も延長されることによってヴァイマル憲法は実質的に破棄された、と言わざるをえない。
 カール・シュミットが「事実上この全権授与法は新ドイツ国の暫定憲法」と言い、ケルロイターが「憲法が民族的及び国家的必要の中から有機的に生成し」と書いたのは、やがて新しい憲法が生成していくであろうことを「憲法学者」として予期しかつ願望していたのであろうが、しかし、「指導者」の意志によって時々刻々と変化していくものからどうして「原則」が生まれ得ようか。「原則」のないところに「憲法」など生成するはずがないのである。
 およそ、Gesetz(原則、法則、法令)はsetzen(措定)されたものの累積というイメージであり、措定され確定されていったものの時間的経過を必ず内に含んでいる。これに対し、“時々刻々と変化していくもの”の中からは、確定されたものつまりGesetzは決して生まれようがないのである。Gesetzのないものが独裁であり、それはしばしば独裁者が体現していると標榜している「国民意志」の“時々刻々たる変化”そのものとして現れる。
 およそ憲法であるかぎり、最低限に要求されるのが“法的安定性”である。明治憲法ですら、指導者の意志によって“時々刻々と変化”することがないよう、憲法発布の際に「告文」(こうもん)で「朕が現在及び将来に臣民に率先し斯の憲章を履行して慫(あやま)らざることを誓ふ」と釘を刺していたのである。 天皇に対しても“憲法遵守義務”を課していたのである。
 あのGesetz好きのドイツ人に何が起こっていたのか。
『ナチス・ドイツ憲法論』については重要なことをもうひとつだけ書く。

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