礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

マックス・ヴェーバーの到達した域を越える(折原浩)

2015-10-08 05:29:18 | コラムと名言

◎マックス・ヴェーバーの到達した域を越える(折原浩)

 昨日の続きです。本日は、折原浩氏の『マックス・ヴェーバーとアジア』(平凡社、二〇一〇)の「序」の一部を紹介します。 

 
【前略】
 これは、筆者がいま、五十余年のヴェーバー研究を締め括り、新たに展開しようとしている方向に、奇しくも一致しました。その方向とは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(以下「倫理論文」)以降のヴェーバーの学問を、「普遍史(世界史)」的なパースペクティーフをそなえた「比較歴史社会学」構想として捉え、その応用的展開に向けて、歴史学と社会学との相互交流を進め、そのパラダイム変換を企てる、というものです。そこで、主催者からのご依頼を喜んでお受けし、微力を尽くして、なんとか講演の責めは塞ぎました(主催者が全文印刷して会場で配布してくださった当日稿は、「日中社会学会」の機関誌『日中社会学』第一八号の別冊として刊行されています。
【原文一行アキ】
 ところが、そのようにしてヴェーバー比較歴史社会学をひとまず解説し終えますと、こんどはそこから、筆者自身の比較歴史社会学を展開してみたいという思いが、つのりました。ヴェーバーによる方法と構想の「潜勢」は汲みながらも、「西欧近代文化世界の嫡子」であったかれとは異なる、筆者自身の立場から、たとえわずかであれ、かれの到達した域を越えて、パラダイムを変換し、内容上も再構成し、ヴェーバーを乗り越える手掛かりだけでもつけて、後続世代に手渡したい、という思いです。
 顧みれば、五十余年まえ、ヴェーバー研究に着手した当初にも、そうした「乗り越え」への抽象的見通しはもっていました(拙著『危機における人間と学問――マージナル・マンの理論とヴェーバー像の変貌』一九六九、未來社、参照)。というのも、筆者は、欧米近代文化世界の「マージナル・エリア」(周辺・境界・外縁地域)」の一隅に生を享けた「マージナル・マン」として、「欧米近代文化」そのものを、「規範」ないし「自明の前提」として出発するのではなく、逆に世界史の地平で相対化し、非欧米文化との比較というパースペクティーフのもとで、みずからの歴史的境位を見定め、新たな文化理想とアイデンティティを模索していきたい、と思い立っていたからです。「マージナル・エリア」とはこのばあい、欧米列強の外圧によって「開国」を余儀なくされ、「強制されたが欲する」形で、それぞれの「近代化」とその具体的克服に向けて試行錯誤してきた諸地域、すなわち、インド、ロシア、中国、日本などを指します。そこから、一方の比較対照項である欧米近代文化の本質的特性を見きわめ、他方、非欧米諸文化との比較の方法と構想を学ぶために、(筆者の知るかぎり)唯一の先駆者として、マックス・ヴェーバーに着目したのです。
 しかしその後、筆者は、ヴェーバー研究(それは、文献研究のみでなく、かれのいう「知的誠実性」に反する師匠・先輩・同僚・後輩との「論証による闘い」も含む、広義のヴェーバー研究ではありましたが)に、あまりにも長い歳月を費やしてしまいました。いまでも、筆者は、ヴェーバー研究を「卒業」したのでも、いわんや「完了」したのでもありません。ただ、齢〈ヨワイ〉七〇を過ぎ、ヴェーバーの歴史‐社会科学を、当初の問題関心に応える比較歴史社会学として、ひとまず自分なりに納得できる形にまとめ、かれの「固有価値」の輪郭は描き出せたからには、そのままヴェーバー文献の研究と解説をつづけるだけではなく、当初の問題設定に立ち帰り、比較歴史社会学の応用的展開にも出立し、若い世代による乗り越えに具体的な手掛かりと素材を提供する責任のほうを、いっそう強く感じ始めただけのことです。

 この本『マックス・ヴェーバーとアジア』のサブタイトルは、「比較歴史社会学序説」となっています。折原氏は、このあと、「ヴェーバー比較歴史社会学」でなく、「比較歴史社会学」そのもの、あるいは、ご自身の「比較歴史社会学」に着手されようとしていることが、わかります。
 その企てを壮とし、歓迎したいところですが、そこにいたるまで、本当に「五十余年のヴェーバー研究」が必要だったのかどうか、疑問を禁じえません。『危機における人間と学問』(一九六九)で、「欧米近代文化」を相対化するという構想を提示していらしたのであれば、その時点から、ご自身の「比較歴史社会学」に着手すべきだったのではないでしょうか。
 折原氏は、「ヴェーバー研究」という言葉について、「文献研究のみでなく、かれのいう『知的誠実性』に反する師匠・先輩・同僚・後輩との『論証による闘い』も含む、広義のヴェーバー研究」と自注しています(下線)。
 このうち、「後輩との論証による闘い」が、羽入辰郎氏の研究に対する一連の批判であったことは、見やすいところです。しかし、「師匠・先輩・同僚」に対して、折原氏が挑んできたという「論証による闘い」が、どういうものであったのか、それが羽入氏に対する「闘い」に匹敵する規模のものであったのかは、よく見えてきません。また、そうした「闘い」が、日本の、あるいは国際的な「ヴェーバー研究」の進展に、どのように貢献したのかも、不勉強な私には、よくわかりません。
 とはいえ、いま、折原氏が、「ヴェーバー文献の研究と解説をつづけるだけではなく、当初の問題設定に立ち帰り、比較歴史社会学の応用的展開にも出立」しようとされていることに敬意を表し、かつ、その研究を、無事、完成させられるところを、在野の一学徒として見守りたいと思います。

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