礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

西多摩の国民学校訓導から法政大学名誉教授へ

2015-10-14 05:39:50 | コラムと名言

◎西多摩の国民学校訓導から法政大学名誉教授へ

 本日も、雑誌『多摩のあゆみ』の第八一号(一九九五年一一月)から、座談会記録の紹介である。昨日、紹介した部分のあと、司会の原嘉文氏は、話を村上直〈タダシ〉教授に振る。私は、村上直さんという研究者を知らなかったが、ご本人が語るその「研究歴」に非常に興味を持った。

 司会 村上先生も戦後、西多摩の中学校で教壇に立たれたそうですが、多摩との出会いというのはその前後だそうですね。
 村上 そうなんです。色川さんとは三〇数年前からのおつきあいなんです。私は東京第一師範学校を卒業しました。これは教員養成の学校で、東京学芸大学の創立にともない統合されました。終戦のとき九月に繰り上げ卒業で、都心部は焼け野原でしたので、多摩へ就職することになったんです。
 最初赴任したのは五日市の奥の小宮村〔現、あきるの市〕というところなんです。あのころ同級生が西多摩には二〇人ぐらい割り当てられたんですね。私もさっぱりわからないまま来て、当時「小宮国民学校」にいきました。そこが最初なんです。檜原村〈ヒノハラムラ〉の近くの、山村で、景色のよいところでした。立川から拝島へ出て五日市へ出る。五日市線が大変で貨車にも乗りました。蒸気を上げるために、増戸〈マスコ〉あたりで休んでしまうんです。ともかく五日市に行くまでが大変なんです。それからまた降りてあるくわけです。
 ただ、私は、この小宮村で大変恵まれたのは、後に福生〈フッサ〉に移られた鮎澤信太郎という先生がいました。あのころ日大の助教授で、若い人たち、とくに青年団の人たちを指導されたり、勉強の話もしていただき、そういう点では恵まれた環境におりました。
 私は息子さんを教えたりしたことがあったんです。
 それから、二年後に福生中学に移ったんです。ここで約五年いたんです。当時、校長さんは橋本兵五郎〈ヘイゴロウ〉という方で、橋本先生は、若い者は勉強しろ、ともかく東京の大学でもどこでも行き、勉強してこいというんです。そこで、法政大学に通い、勉強しました。
 その卒業論文は昭和二十五年〔一九五〇〕頃に作成した「近世における新田開発の意義」です。その頃、並木嶋雄先生などが福生第二小学校にいて私たちをかわいがっていただきました。
 学校に行きながら、卒業論文はなるべく古文書を使おうということで、瑞穂町〈ミズホマチ〉の隣の埼玉県入間郡元狭山村〈モトサヤマムラ〉の栗原新田の旧家の調査を行ない、それを論文にしたんです。これが縁で近世に興味を非常にもつようになったんです。
 色川 では、木村礎〈モトイ〉さんや伊藤好一さんなんかと同じような感じのスタートですね。
 村上 ええ、そうなんです。それで、福生に昭和二十七年〔一九五二〕までいて、それから都内の目黒区に移り、三十年〔一九五五〕から東京都立大学の大学院へ入りました。そこで北島正元〈ショウゲン〉先生の指導を受けました。これで研究する一つの方向が決まったというわけなんです。
 色川さんは覚えていらっしゃいますか。昭和三十四年〔一九五九〕に『日本人物史体系』という本が出た。
 色川 知っていますよ、私も書いた。
 村上 私が「家康と大久保長安」という題名で書きました。色川さんは「北村透谷と大矢正夫」を書かれたんですね。
 色川 そうです。
 村上 当時、偉い先生がみんな書いていたんです。我々はまだ若手なんですけれども、入れていただいたんです。その本をみて鈴木龍二さんが、八王子で大久保長安の研究をしてみないかと声をかけて下さいました。昭和三十四年〔一九五九〕頃、鈴木さんは振興信用組合におられました。最初に清水成夫〈シゲオ〉さんのお宅に伺ったときに橋本義夫さんと沼謙吉さんが来ていろいろ話したんですが、これが大きな刺激になりました。橋本さんは、色川さんがよくいわれるように情熱家ですし、非常に啓蒙されたんです。そういうことで、八王子を中心にして少し勉強しようと思っていたんですが、三十五年〔一九六〇〕に鈴木さんが横川家で「千人同心」の河野家文書をみつけられたんです。
 色川 あれは大きかった。
 村上 鈴木さんたちと、八月でしたか、横川重之さんの家に行きまして、これはいい史料だから研究したいといったら大変喜ばれまして、ひとつ頑張ってやってくれというのが契機で「八王子千人同心」に本格的に取り組むことになりました。
 鈴木さんや清水さんは「八王子千人同心」とか、大久保長安に一生懸命だったんです。八王子の開祖とするのは大久保長安だ長田作左衛門だと論争をやってね。それを学問的に裏づけるのに私が研究しているのがちょうどいいというわけで、私ものちに『日本歴史』一六八号に「関東における八王子代官」を書いたら皆さんから注目されるようになりましたが、その前後から八王子を中心に研究をはじめたんです。
 そのころ色川さんは白由民権運動の研究をされて…。鈴木さんの日記をみると、昭和三十五年〔一九六〇〕八月二十七日に私が横川さんの家に伺った次の日に色川さんが日野の天野敬氏宅を、沼さんと訪ねていったという記録があるんですよ。あれ、みていくとおもしろいんですよ。明治大学の木村礎さんもたびたび鈴木さんの日記に出てくるんです。
 色川 ああ、そうですか。鈴木さんの日記というのはどこにあるの?
 村上 昭和四十三年〔一九六八〕にでた鈴木さんの『武州八王子史の道草』という本があるでしょう。あの中の一部に掲載されています。
 色川 あれの前半に収録されている?
 村上 ええ。日記の一部がでているんです。
 色川 ああ、そうでしたか。
 村上 色川さんのこともよく書いてありますよ。
 色川 私が今でも感動するのは、そのころ三十三歳ぐらいでしたが。
 村上 そうですね。
 色川 鈴木さんは、下にも置かない丁重な扱いなんです。私なんかをも一流の研究者並みに扱うんですよ。橋本さんも清水さんもそうでした。非常に丁重なんです。年齢からいくと自分の息子みたいなんです。村上さんという人は立派な研究者だ、これは多摩の宝になる人だというようなことを私にいうんです。で、私に対してもすごいもてなし方をして、一生懸命研究のサポートをしてくれるんです。その期待にこたえなければと思いました。

 インターネット情報(深沢秋男さんのブログ)によれば、村上直さんは、昨年二月に亡くなられたという(一九二五~二〇一四)。晩年の肩書は、法政大学名誉教授。それにしても、西多摩郡小宮村の国民学校訓導から法政大学名誉教授へ、という経歴は異色である。多摩の文化・風土が、村上直さんを研究者に育て上げた、ということができるだろう(このことは、色川大吉さんについても言えるだろう)。また、当時は、現場の教員が、現職のまま、大学に通って研究する余裕があったということも、村上さんの例からわかる。

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