◎五日市憲法の発見と新井勝紘さん
話を、『多摩のあゆみ』の第八一号(一九九五年一一月)の座談会記録に戻す。本日は、新井勝紘〈カツヒロ〉国立歴史民俗博物館助教授(当時)が、「五日市憲法」の発見にいたるまでの経緯を話されているところを紹介したい。なお、新井勝紘さん(一九四四~)は、その後、総合研究大学院大学文化科学研究科日本歴史研究専攻助教授、専修大学文学部人文学科歴史学専攻教授、同大学文学部歴史学科学科長を経て、本年(二〇一五)三月、同大学を退職されている。
司会 新井さんは〔西多摩の〕福生で生まれ、北多摩の高校、大学を出られて、南多摩の町田に長く勤めて、今また佐倉〔国立歴史民俗博物館〕へ通っていらっしゃる。三多摩全部を踏破して、なおかつ千葉県まで行っているという人でございます。私が新井さんに期待しているのは、幅広く物をみられる目というところにあります。その辺のところをご自分の紹介も兼ねていただいて……。
新井 私は福生で生まれて育って今でも福生に家があるわけです。考えてみると、ちょうど戦後の民主主義教育をまさに受けて育ってきた世代だと思うんです。昭和十九年〔一九四四〕生まれで、昭和二十年代から三十年代にかけてが小、中学校という年代でしたから。
私は不思議なことに小学校も中学も高校も含めて、全部社会科の先生に担任してもらっていたんです。私は最近、戦後の地域の文化運動とか民主主義運動をやっているんですが、とりわけ福生なんかそういう拠点になったところだったと思うんです。そういう運動の担い手たちが、その後教員となったり、地域でいろいろな活動をしていたと思うんです。今思うと、私はそういう人たちから戦後の民主主義教育を受けたんじゃないかなという感じがしています。福生二小には小野沢博一先生という方がいらっしゃったんですけれども、「武州一揆」の最も早い研究者の一人だったと思います。国立〈クニタチ〉におられますね。私の担任は若い坂上洋之先生でしたが、先生にすれば最初の教え子になるのです。坂上先生もまた、地域史に興味を持たれ、現在では玉川上水の研究では第一人者です。小学校の時通った珠算塾でも、戦後の福生の文化運動を担った山崎茂雄先生から直接珠算を学んだこともあります。福生中では木村東一郎先生が担任でしたが、木村先生も、中学の教師をしながら歴史地理学の研究に情熱を持たれていた先生で、しばしば出張されていました。その後長野大学に移られ、研究者になられた方です。
高校は都立国立〈クニタチ〉高校だったんですが、そのころ事務の方に、あの三多摩の近代史年表を作成された松岡喬一さんがおられました。階段の下の薄暗い部屋にしょっちゅう潜っていたんですよ。事務の方が何をされておられるのかなと、いつも不思議に思っていました。こつこつやっておられたのですね。私の担任は東京教育大学をでられた佐藤照雄先生でしたが、やはり日本史の先生でした。佐藤先生もその後、静岡大学の教授になられております。その意味で私にとって社会科や歴史や日本史には人一倍強い印象を持っていました。自分もやってみたいなという気持ちを持ったのは、そういう経験があったからかもしれません。東京経済大学に入ったにもかかわらず、日本近代史をテーマとする色川〔大吉〕先生のゼミナールに入ったのも、ひとつにはその延長だったと思います。二年間のゼミだったのですが、三年のときはゼミ員それぞれが別のテーマをもってやっていました。ところが四年になった年が、ちょうど「明治一〇〇年」の年で、多摩という地域の視点から一〇〇年を検証してみようということになったのです。一九六八年八月二十七日、いまでもはっきり覚えていますけれども、五日市の「開かずの蔵」といわれていた深沢さんの蔵を開けてあの史料に出会ったんです。その出会いがなければ、経済大学ですから金融機関あたりに勤めていたかもしれません。
司会 それで町田へいかれましたね。
新井 町田では市史編纂室の嘱託という仕事をしていましたが、そこで調査をしたり、いろいろなお手伝いをしたことが大きな財産になったなという気が今でもしています。それこそ町田をくまなく、町田の人よりも詳しく細かいところまで歩きました。しらみつぶしに古い家を調査していましたから、それは大変財産になったかと思います。