◎田中紀子さんと『多摩のあゆみ』
部屋の片付けをしていたら、雑誌『多摩のあゆみ』の第八一号(一九九五年一一月)が出てきた。まず目にとまったのが田中紀子〈トシコ〉さんの文章である。田中さんは、かつて歴史民俗学研究会の会員で、同会の機関誌『歴史民俗学』(批評社)の第三号(一九九六年二月)から第九号(一九九八年二月)まで、さらに、第一一号(一九九八年七月)から第一三号(一九九九年二月)まで、ずっと、文章を寄せられている。『歴史民俗学』のゲラをご覧になった田中さんが、「直す必要のないゲラを初めて見た」と批評社に書き送られたということを、同社の佐藤英之さんから伺ったことがある。ちなみに、同誌の入力は、「字打屋」さんが担当されていた。
田中さんには、その生前、ついにお目にかかる機会がなかったが、手紙や原稿は、何度もいただいている。手紙も原稿も、流れるような名文であった。
さて、以下に紹介する文章によると、田中紀子さんは、橋本義夫さんと親しかったことがわかる。橋本義夫さんといっても、それほど著名な人ではないが、「ふだん記」〈フダンギ〉運動の創始者といえば、あるいは、思い出される方もおられるかもしれない。
『多摩のあゆみ』と地域文化 田中紀子
このたび『多摩のあゆみ』八十一号を以て刊行二〇年記念号とされる由、誠におめでたい限りで、心からお祝いを申し上げます。
思えば昭和五十年〔一九七五〕十一月創刊の当初は八千部発行されたようですが、平成七年〔一九九五〕八月発行の八十号は二万部の由。また今迄の執筆者五六〇余名の壮観さは唯々驚くばかりです。
昭和四十九年〔一九七四〕に金融機関多摩中央信用金庫〔現、多摩信用金庫〕創立四〇周年記念誌として『多摩の歩みとともに』が刊行され、翌五十年十一月に『多摩のあゆみ』第一号が刊行されました。
私の大切な書庫の書棚の二段を埋め尽くして『多摩のあゆみ』創刊号から八十号までが並んでいます。ちょっと見には見栄えのしない小研究誌ですが、その内容は他の追随を許さない多摩の郷土の歴史の宝庫であります。
又、そのどれを取り上げても表紙の大半は倉田三郎画伯の三多摩風景で飾られております。創刊号の表紙には、新緑の頃の「根川のめがね橋」が、物みな生き生きとめぐみ始めた色彩で何とふさわしいことでしょう。倉田先生は昭和三年〔一九二八〕に府立二中(現、都立立川高校)に奉職され、その頃生徒であった私の亡夫與四郎〈ヨシロウ〉も教え子の一人でした。また、その後、亡夫は母校に赴任したので、倉田先生とは師弟として終生の御交際を願えた幸せな一人でした。先生はめがね橋を好んで描かれたので、私の家にも真夏の絵が一枚あります。先生は大へん義理がたい方で、亡くなられる二、三年前に病気がちだった亡夫の肖像画を、私の家に三日通って描いて下さいました。その時の先生は、「似ていないかも知れないが、僕は田中君の感じを表現したつもりだからね」と一言われました。後にも先にも亡夫の肖像画はこれだけですから私にとってはかけがえのない貴重な一枚で、今でも毎朝夕にあいさつをしております。いずれにしても倉田三郎先生の絵を一貫して表紙に採用されたのは大成功であったと思います。多摩が好きで生涯多摩の各地を描き続けた方は極めて少ないし、また、その風景は多摩の歴史そのものでもあります。
次に『多摩のあゆみ』創刊号は、「母なる多摩川」を特集し、創刊のあいさつは関塚正平理事長、あとがきは中嶋榮治専務理事、編集は無記名で「多摩の金融史」をまとめている原嘉文編集長だと思います。どれにも新しい発足に対する若々しい希望が漲っています。
次に執筆者の中で一番感動したのは三田鶴吉さんの「多摩川の記」でした。私が三田さんを知ったのは昭和二十八年〔一九五三〕二月から、立川簡易裁判所の民事調停委員として、週二、三回出廷しはじめた頃、自転車で通う私は、〔立川市〕錦町の裁判所の近くで、若い夫婦の花屋さんに時々会ったのです。若いお二人はいつも仲よくリヤカーで切り花や鉢植えを引き売りしておられ、私はその切り花や鉢植えを買って、判事室や調停室、事務室に飾りましたが、その花屋さんが三田さんだったのです。あれから二〇余年後の三田さんのお店は立川で一番の立派な花屋さんに変わり、好きな郷土研究は日本民俗学会の会員として、また、立川市文化財保護審議会委員として「多摩川の記」を書いていたのです。幼い頃から父上と共に見て来た多摩川の姿を古い資料とないまぜながらまとめた一文はすばらしく、私は努力家の三田さんに圧倒されました。自らの職業にも身を入れ、余暇を活用して立川の歴史に取り組む姿に深い感動を覚えました。その後も『多摩のあゆみ』で育てられ成功したお一人です。
次に、多摩中央信用金庫四〇周年記念に松岡喬一さんの『三多摩近代百年史年表』が復刻され、『多摩の歩みとともに』と同時発刊されたことも、私たち松岡さんの地道な研究を知る仲間の一人として感謝感激のきわみでした。
かつて昭和三十四年〔一九五九〕に八王子の金融機関、振興信用組合の鈴木龍二専務理事が、松岡さんや橋本義夫さんのアドバイスを受け入れて、多摩文化研究会を発足させ、『多摩文化』を発刊して、多摩地方の歴史研究に大きな貢献をされました。その時の編集委員は松岡喬一、橋本義夫、まだ学生だった沼謙吉、私の四人でしたが、実に張り合いのある仕事でした。高尾山の白秋歌碑建立を手始めとして多くの歌碑建立もできました。ところが昭和四十五年〔一九七〇〕十月二十八日鈴木専務が過労のため急逝され、多摩文化研究会は沼謙吉さんに引き継がれましたが、個人の力で出来る仕事ではありません。私はどこかの有力な金融機関が引き受けてくれないだろうかなどと思っていた時、『多摩のあゆみ』第一号が送られて来ました。また、その発刊間もない頃、橋本義夫さんが一冊、自転車で私の家へ届けてくれました。その時、橋本さんが「田中さん、たましんには凄い人物がいますぜ。中嶋榮治という「あとがき」を書いている人物ですが、あれはずば抜けて偉い人物ですぜ。『多摩のあゆみ』は末長く続きますぜ。若い編集者の原〔嘉文〕君に任せて自分は目立たない所で責任を負うている人ですからね。後が楽しみですぜ」。そう言って明るく笑われた。全くその通りで二〇年が瞬くまに過ぎ、その間、『多摩のあゆみ』は無料で配布され、多くの新人を世に送り、日本全国の歴史家から注目を浴びています。金融機関の世に尽くすあり方の一手本として、今後も末長く続けていってほしいと思います。栄〈ハエ〉ある未来を夢見、御発展を祈りつつ。
たなかとしこ/日野史談会会長/日野市在住