礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「軍民離間」は昭和初期の国家主義運動を捉えるキーワード

2024-06-25 03:17:02 | コラムと名言

◎「軍民離間」は昭和初期の国家主義運動を捉えるキーワード

 昨日は、木下半治『日本国家主義運動史』の戦前版(慶應書房、1939)から、「三 神武会の解散と中核組織論・大衆的組織論の対立」の項の前半部を紹介した。本日は、同書の戦後版(福村出版、1971)から、戦前版の「三 神武会の解散と中核組織論・大衆的組織論の対立」の項に相当する部分を紹介したい。
 それに相当する部分は、『日本国家主義運動史 Ⅱ』第六章「二・二六事件を中心として」第一節「陸軍内部の激動」のうち、「五 神武会の解散と中核組織論――大衆的組織論(議会進出論)の対立――」の項である。
 この項も、かなり長いので(309~320ページ)、今回、紹介するのは、その前半部分のみ。なお、同書Ⅱ巻のページ付けは、Ⅰ巻からの通しになっている。

     五 神武会の解散と中核組織論――大衆的組織論(議会進出論)の対立――
 以上のように、陸軍内部においては、統制派がだんだん皇道派を抑えてきて、後者は時々これに反発して小爆発をするという状態であった。すなわち、皇道派は沈潜し、「国家改造」運動は内攻的症状にあった。一方、陸軍は三月事件〔1931〕・十月事件〔1931〕等々の経験にかんがみ、民間国家主雜団体の無力に愛想をつかし、これと手を切るという方向に動いていった。もちろん、陸軍パンフレット支持運動、国体明徴運動等は、陸軍の喜んだところではあったが、それにもかかわらず、陸軍は民間運動に対しては消極的・自粛的態度をとった。これは、十一月事件〔1934〕、二・二六事件〔1936〕等において、陸軍側が、五・一五事件〔1932〕とは全く異なり、ほとんど民間団体を相手にせず、もっぱら軍人のみの単独行動をとったのをみてもよくわかるのである。一九三四年(昭和九年)頃、第六十五議会を中心として、「軍民離間」ということが問題にされたが、国家主義運動における「軍民離間」は、この頃の特徴の一つであったのである。
 陸軍から見放されれば、元来、大衆的基礎をもたぬ民間国家主義団体は、頭の皿の水の切れた河童〈カッパ〉同様であった。二・二六事件前の国家主義団体の退勢は、一九三四年(昭和九年)のそれに輪をかけたようなものであった。
 この時代における民間国家主義団体の退勢のトッブをきったものは、一九三五年(昭和十年)二月十一日における神武会の解散である。
 神武会は、前に述べたように、一九三二年(昭和七年)二月十一日に、大川周明を会頭として組織された国家主義団体であり、対陸軍関係、したがって資金関係・人的関係において、国家主義団体中の随一と数えられたものであった。成立早々、五・一五事件が起こり、それに連座した会頭大川周明が六月中旬に収監されると、にわかにその勢いが衰えたが、しかし、なお国家主義団体中の指導的要素として地位は失わなかったのである。
 ところが一九三四年(昭和九年)十一月、大川が保釈されると、獄中における大川の陳述に対し、陸軍の一部がこれに不満をもち、また逆にこの陸軍側の不満が大川に反映して、両者の感情がとみに冷却を加えた。それかあらぬか、大川周明は、一九三五年(昭和十年)二月十一日の神武会全国代表者会議において、その解散を宣したのである。
 神武会解散について、会頭大川はいう。――
 「花は開き花は落つ。開落ともに任運法爾である。いま神武会は桜花の如く咲き、桜花の如く散る。咲くべくして咲き、散るべくして散る。古語に曰く、梅は霜雪の先、花は猶風雨の後と。神武会の解散は即ち百花繚爛の春に先駆するものである」(神武会機関紙『日本』、二月一日号)と。
 二月十一日の解散にあたって、神武会は「悲壮な」解散の辞を発表したが、それは当時の日本の国家主義団体の置かれている地位をよく表わしているので、次にその全文をかかげる。――
【一行アキ】
         神武会解散の辞【略】
【一行アキ】
 神武会の解敗後、静岡・福井・京都の地方勢力は、それぞれの地方行地社となり(たとえば静岡行地社)、「行地社精神」を奉じて他日を期することとなった。
 神武会の解散を機として日本の国家主義陣営内に、いわゆる中核組織論と大衆的組織論との対立が表面に出てきた。これは古くは国家主義対日本主義の対立となり、後には議会主義と非議会主義、大衆的維新政党即時結成論と非政党主義との対立となった日本国家主義内部の宿痾的二底流の対立である。いま中核組織論と大衆的組織論との理論的根拠をみると、神武会の大川周明の組織論は、五・一五事件でもみられるように、精鋭【エリート】主義・中核組織主義であった。中核的組織論は五・一五事件以来、神兵隊事件その他の事件の経過をみてもわかるように、失敗の連続であった。テロリズムのような、一時的「警世的」効果はあっても、結局、国家革新の「大義」は達成せらるべくもない。ことに当時のような客観的情勢のもとにおいて国家主義運動の起死回生をはかり、これを文字どおり国民運動に高めるには、議会進出のほかには道がないというのが大衆組織論であって、ちょうど一九二三、四年(大正十二、三年)頃に左翼陣営内に起こった「リベツ化」運動のようなものであった。〈309~314ページ〉【以下、略】

 こういった文章を読むと、昭和初期における国家主義運動の趨勢は、「軍民離間」というキーワードで捉えられることに気づく。少なくとも木下半治は、そのことを読者に気づかせようとしたのではないか。
 この「軍民離間」には、いろいろな背景や要因が指摘できると思うが、私見によれば、その本質は、「司法当局による権力的な介入」である。1932年6月の大川周明の逮捕を見よ、1935年2月の神武会の解散を見よ。さらには、1935年の第二次大本事件を見よ。――今回、木下半治の『日本国家主義運動史』を読みながら、その感を強くしたのである。ただし、木下が同書で、そこまで言い切っているわけではない。

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