礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

放送局から将棋の放送を依頼してきた(木村義雄)

2024-06-01 00:36:15 | コラムと名言

◎放送局から将棋の放送を依頼してきた(木村義雄)

 木村義雄著『木村義雄実戦集』(誠文堂、1930)を紹介している。本日はその四回目。
 本日は、「平手篇」の十六番目にある「八段 花田長太郎氏との対局」(大正十四年)から、【前詞】のところを紹介してみたい。

 大正十四年九月/於 東京愛宕山放送局
 平 手
 八段 花田長太郎/先 七段 木村義雄

〔棋譜、略〕

【前 詞】放送局から夏季趣味講座として将棋の放送を花田氏と私に依頼して来た。初めは限られた時間で、然も、相当努力したものを放送するといふことは、大体の要領を摑むだけでも困難であるし、難しい手の解説は相当力量があつても、解説する方が止むを得ず簡単にするので、苦心した点を了解して貰ふことが出来さうもないので、色々合理的方法を考へたのだが、一局を一時間で而も対局者の感想と〔関根〕名人の講評を入れるのだから、要点だけを判り易く説明するに止【と】めてあとは、聴者に盤に並べて味【あぢは】つて頂く外はなかつた。「棋道のため大いに宣伝になるし、遠隔の地にゐて、新聞将棋の外に高段の対局を見ることの出来ない読者に取つては、対局者自身が本当に述べてゐることを聞けるといふ点に興味を持てて確かに有意義である。」と、名人も賛成されたので、依頼に応じた。多数の同好者に聞かせるものであるから、その棋譜は後世にはつきりと残る。花田氏も私も文字【もんじ】通り全力を傾倒した。この対局は炎暑と戦ひ乍ら四日間連続の棋譜であつて、本全集に掲載し、私の経歴として残すには最も意義有るものと信じた。当時仔細に亘らなくて残念に思つてゐた点をここに解説して詳述し、相互の苦心と作戦変化の読み筋、その他感じたこと、思つたことを述べて参考に供したいと思ふ。と同時に、当時、多少不満に思はれた読者に対する幾分の申訳【まをしわけ】にもなると信ずる。これが放送されると、大分【だいぶ】地方から、私の処へも、局の方へも、面白かつたと云つた意味の手紙や投書があつた。最近花田氏に会つてこの棋譜の話をしたら、「香落はともかくとして平手戦は自分の方が幾分、有利であると思つてゐた将棋をいけなくした。どこが悪かつたと判然【はつきり】判らないんだが、とにかく熱のこもつた、現在まで多くの手合【てあはせ】中、棋譜の好いこと、私の熱心さから見ても屈指である。」と云はれて、「尤も事柄が大分緊張さいてもゐた。」と附け加へた。〈191~193ページ〉

〔後略〕

 この「前詞」によると、高段者による将棋の対局をラジオで放送するという試みがおこなわれたのは、1925年(大正14)9月のことだったという。文中に「一局を一時間で」とあり、また「炎暑と戦ひ乍ら四日間連続」とあるので、四日かけておこなった対局の結果を、一時間の番組にまとめて放送したものか。
 花田長太郎は関根門下で、金易二郎の後輩、木村義雄の先輩に当たる。弟子に塚田正夫がいる。1948年(昭和23)死去。1962年(昭和37)に九段を贈られる。
『木村義雄実戦集』は、まだ、紹介したいところが残っているが、明日は、いったん話題を変える。

*このブログの人気記事 2024・6・1(9位になぜか小磯首相、10位のブラジル人少年は久しぶり)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする