礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

政党、財閥が腐敗し或る勢力と結んで……(相沢三郎)

2024-06-09 00:11:52 | コラムと名言

◎政党、財閥が腐敗し或る勢力と結んで……(相沢三郎)

 戦前版『日本国家主義運動史』(慶應書房、1939)では、第六章「二・二六事件を中心として」第一節「二・二六事件前の情勢」の最初が、「一 機関説排撃と國體明徴運動」のあとに、「二 永田事件」が続いている。本日は、この「二 永田事件」を紹介してみたい。

     二 永 田 事 件
 林〔銑十郎〕陸相の就任以来、軍部内の統制的傾向が漸次強まり、その空気が静観的に傾いたことは屡述〈ルジュツ〉の如くである。
 かゝるうちに、昭和十年〔1935〕七月十五日、教育総監真崎甚三郎大将の交迭〔ママ〕をみた。しかるに、その直後の八月十三日、永田鉄山暗殺事件なるものが起つた。
 永田鉄山中将(当時少将)は、当時陸軍省軍務局長の要職にあり、士官校、陸大の成績抜群で、とに角陸軍随一の材幹を謳はれてゐた。よく林陸相を支持してその粛軍工作に協力したと伝へらるゝのであつたが、それがはしなくも一部の誤解を招き、殊に真崎大将の交迭と関連してこの誤解が深かつた。犯人相沢三郎中佐も、かゝる誤解を抱いた一人であつて、彼は真崎大将交迭を敢へてした主動者は永田少将にありと認め、しばしば同少将に辞職を強請〈ゴウセイ〉したがきかれなかつたのを憤つて〈イキドオッテ〉、事を起したものと伝へられる。相沢中佐は予審官に対して「近年漸く、政党、財閥が腐敗し或る勢力と結んでは私利、私慾の為に動くものが多くなり、様々の罪悪史を記録する情況を現出するに至り、各方面で維新断行の声が叫ばれ、私もこの感を深くして居つた〈オッタ〉のであります。殊に私は軍人として(中略)軍を私兵化せんとするものが段々出て来た点には衷心から慨歎を禁じ得なくなつたものであります」といつてゐるが、これをみると、彼のイデオロギー、その傾向がわかるであらう。
 昭和十一年〔1936〕一月二十八日より開かれた永田事件の公判は、いろいろの意味において世間の注視を惹いた。裁判長たる佐藤正三郎〈ショウザブロウ〉少将(第一旅団長)、特別弁護人たる満井佐吉中佐(陸大教官)の処置及び弁論、さらに林銑十郎大将(事件当時の陸相)、橋本虎之助中将(同陸軍次官)、前教育総監真崎甚三郎大将始め種々の証人喚問が申請されたその申請に関する満井中佐の理由に、甚だ注意すべきものがあつたのである。
 先づ証人真崎大将の喚問が許可せられたが、その訊問は二・二六事件の前日まで紛糾した。
 永田事件勃発後は、いはゆる政界上層部に種々な異変を生じた。機関説が犯罪を構成するものとの断定の下されたのも、事件直後の九月十八日のことであり、美濃部博士の処分が決定し貴族院議員を剥奪されたのも同じ頃である。そして牧野〔伸顕〕内大臣、金森〔徳次郎〕法制局長官の異動があつたのも永田事件の予審調書発表後のことであつた。〈270~272ページ〉

 以上が、「二 永田事件」の全文である。では、戦後版『日本国家主義運動史』(福村出版、1971)においては、これに相当する部分は、どのように書かれているのか。次に、それを見てみたい。

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