◎林は腰を抜かし川島という無能者に陸相を譲った
木下半治『日本国家主義運動史Ⅱ』の第六章第一節から、「二 機関説排撃と国体明徴運動」の項を紹介している。本日は、その後半。傍点は、太字で代用した。
相沢の軍法会議は翌一九三六年(昭和十一年)一月二十八日から開かれた。法廷における相沢の陳述は、まことに奇々怪々なるものであった。白昼永田を刺殺した相沢は、裁判長の訊問に対して、「事の成ると成らざるとを問わず、行動を終れば、そのまま平然として任地台湾へ赴く考えでありました」と正気でいっている。別に血まよっていっているのでもなく、あえて大言壮語しているのでもない、真実そう思っていたらしいのである。かれは、「同志」が必ずかれをかばうであろうことを予期し、その背後勢力に頼むところが大きかったのである。また、かれは、予審官に対して、――
「近年漸く政党・財閥が腐敗し、或る勢力と結んで私利私欲の為に動くものが多くなり、様々の罪悪史を記録する情況を現出するに至り、各方面で維新断行の声が叫ばれ、私もこの感を深くして居ったのであります。特に私は軍人として、軍に関係のある人間が、之等〈コレラ〉不逞の徒と結んで軍の威力を借り、或る目的を貫徹させようとする――換言すれば、陛下の軍を私兵化せんとするものが段々出て来た点には、衷心から慨嘆を禁じ得なくなったものであります」(傍点――引用者)。
といっている。すなわち、統制派――特に永田が「新官僚」と結んでいた点をついた積りなのである。また、かれは、桜会については「陸軍部内に桜会が結成され、私も喜んでその一員となりました」といっている。
この永田事件の公判は、いろいろの意味において世間の注意をひいた。裁判官である少将佐藤正三郎(第一旅団長)、特別弁護人である中佐満井佐吉(相沢と同期生で、皇道派将校の雄、陸大教官)の処置および弁論、大将林銑十郎(事件当時の陸相)・中将橋本虎之助(同陸軍次官)・前教育総監大将真崎甚三郎等の証人喚問、さらに池田成彬〈シゲアキ〉・新内大臣斎藤実〈マコト〉・牧野前内大臣秘書下園佐吉・木戸幸一・池田成彬の「親戚」実業家太田亥十二〈イソジ〉・警保局長唐沢俊樹等の喚問は、その理由と相まって、中佐満井等の公判闘争の真意図をよく示すものであった。すなわち中佐満井は、「斎藤内府に対しては(一)教育総監更迭の具体的事情、池田・太田両氏には(一)永田中将との交遊関係の実情(二)現在の日本国家の形勢に対する認識・抱負等……木戸・井上〔三郎〕・下園の諸氏に対しては所謂、朝飯会の内容、特に牧野内府と軍中央部及び所謂新官僚との脈絡関係につき……唐沢警保局長に対しては同郷の永田中将との関係につき」調べよと要求しているのである。
まず証人大将真崎の喚問が許可されたが、その訊問は二月二十五日、すなわち二・二六事件の前日まで紛糾し、その事態の容易でないのを思わせたが、翌二月二十六日未明に、かの歴史的な二・二六事件が勃発したのであった。
永田事件勃発後は、陸軍ならびに政界上層部に種々なる異変が生じた。永田は中将に進級したが、林は腰を抜かしてかわいそうなほどおろおろして大臣を辞し、川島義之という無能者に後を譲った(次官=古荘幹郎〈フルショウ・モトオ〉)。永田の後には人事局長の少将今井清が据った〈スワッタ〉。次官橋本は近衛師団長となった。また政治的にみれば、機関説が犯罪を構成するものという断定の下されたのも、事件勃発後の九月十八日のことであり、美濃部博士の処分が決定し貴族院議員の職を剝奪されたのも同じ頃である。そして国家主義団体がギャンギャン騒ぎ立てても動かし得なかった、牧野内大臣・金森法制局長官の異動があったのも永田事件の予審調書発表後のことである。しかし、皇道派の終局的目標である一木枢相を射落とすには、かれらはなお、二・二六事件の勃発をまたねばならなかったのである。〈307~309ページ〉
文中、「傍点――引用者」とあるが、この引用者とは、木下半治のことである。また、「木戸・井上・下園の諸氏」とあるが、この井上とは、侯爵・貴族院議員・陸軍少将の井上三郎を指すと思われる。
明日は、いったん、話題を変える。