礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

神武会解散の辞(1935・2・11)

2024-06-24 02:42:48 | コラムと名言

◎神武会解散の辞(1935・2・11)

 戦前版『日本国家主義運動史』(慶應書房、1939)の紹介に戻る。
 今月9日に、同書の第六章「二・二六事件を中心として」第一節「二・二六事件前の情勢」から、「二 永田事件」の項を紹介した。本日、紹介するのは、それに続く「三 神武会の解散と中核組織論・大衆的組織論の対立」の項である。
この項は、かなり長いので(272~283ページ)、今回、紹介するのは、その前半部分のみ。

     三 神武会の解散と中核組織論・大衆的組織論の対立
 國體明徴運動の強力なる展開にも拘はらず、国家主義陣営のスランプは急速に脱却し得なかつた。それは、前述の如く、主として民間愛国団体と軍部との関係が往年の如く緊密に行かなかつたことに基くものとされた。勿論、陸軍パンフレット支持運動、國體明徴運動等は、軍部の容れるところではあつたが、大体において、軍部は民間運動に対しては消極的・自粛的態度をとつたのであつた。されば二・二六事件前の国家主義団体の頽勢は、昭和九年〔1934〕のそれよりも一層正しかつたのである。
 この時代における民間国家主義団体頽勢のトップを切つったものは、昭和十年(一九三五年)二月十一日における神武会の解散である。
 神武会は、前にも述べた如く、昭和七年〔1932〕二月十一日に、大川周明を会頭として組織された愛国団体であり、対軍部関係、資金関係、人的関係において、この種愛国団体の随一と数へられたものであつた。成立早々、五・一五事件が起り、それに連座した会頭大川周明が六月中旬収監されるや、俄か〈ニワカ〉にその勢が衰へたが、しかし、なほ国家主義団体中の指導的地位は失はなかつたのである。
しかるに昭和九年十一月、大川会頭が保釈となるや、獄中において深く省みるところあつた大川周明は、昭和十年二月十一日の神武会全国代表者会議において、その解散を宣したのである。
 神武会解散について、会頭頭大川はいふ――「花は開き花は落つ。開落ともに任運法爾〈ニンウンホウニ〉である。いま神武会は梅花の如く咲き、梅花の如く散る。咲くべくして咲き、散るべくして散る。古語に曰く、梅は箱雪の先、花は猶風雨の後と。神武会の解散は即ち百花燎乱の巷に先駆するものである」(神武会機関誌「日本」二月一日号)と。二月十一日の解散に当つて、神武会は悲壯な解散の辞を発表したが、それは当時の日本の国家主義団体の置かれてゐる地位をよく表はしてゐるので、左にその全文を掲げる。――
        神武会解散の辞
 昭和七年二月、全国の同志と共に我が神武会を結成して茲に三閲年、一顧して長望すればその間瞬時の如く、又十年の長きを覚えしめる。満洲事変勃発後の澎湃〈ホウハイ〉たる日本精神の最高潮時に棹して〈サオサシテ〉、我が神武会は昭和維新国民運動の醱酵要素として誕生し、その志す所の大綱を全国民に明かにした。爾来満洲国の創建と承認、国際連盟の脱退を実現し、自主的外交を確立し、今や軍備平等権の主張を世界に明徴ならしめむとしつゝある。
 昭和維新外交工作の基礎漸く成り東亜全局の平和を保持して有色民族を桎梏より解放し、皇道を世界に宣布するの実力は備はらむとして居る。見よ、世界列国の政治的、経済的報復の重圧を突破して躍進しつゝある皇国の雄姿を。儒仏基三教を吸収して更に西洋文明を最高度に咀嚼〈ソシャク〉し、今やマルクス、レーニン主義を克服して、皇国が東西文化調合の最高峰に立たんとしつゝある。此の荘厳なる世界史的使命を負担する日本民挨の生命力は無限の発展段階を登高する。維新外交の基礎成れるは実にこの大業の一半を達成したるもの、此の点に関し大川周明先生を会頭に推戴せる我が神武会は昭和史上に不朽の足跡を印するものと信ずる。
 乍去〈サリナガラ〉喜楽の背後に悲憂あり、輝かしき神武会の首途にあつて五・一五事件は我等の会頭を奪ひ去つた。爾来長かりし二年有余、全国同志の憂〈ウレイ〉何ぞ深かりし、而も我等は一切の批判を超越して飽迄〈アクマデ〉最後の勝利を確信した。皇天の加護に拍手低頭するの全国同志の果敢なりし会頭釈放の闘争に対しては茲に改めて深き感謝と敬意とを捧げる。
         ×    ×
 会頭の保釈出所を機として我が神武会は内外の情勢に深刻なる省察を加ふべき秋〈トキ〉に際会した。端的に云はむと欲する所のものは満洲事変、五・一五事件の国民的昂奮の間に、国内改造の大事を遂行し得ざりし日本国民は退一歩〈タイイッポ〉して三思すべきであり、凡て〈スベテ〉の愛国維新運動は顔を洗つて出直すべきである。
 是れ維新運動の犠牲者に対する我等の責務である。而かも我が神武会は大川会頭の思想的指導を中心として結成せられ、大川先生を以て海内無双の大勇者なりと信ずるが故に、会頭の拘束せられ居る今日、潔く花と散り、又旋風の如き捲土重来を期したい。
 昭和七年九月十五日、大川会頭自ら宣する所の「吾等の志」一篇に明瞭なる通り我が神武会は維新国民運動の醱酵要素にして断じて政党にあらず、一城一廓に立籠りて政権掌握の白日夢を描くものではない。我等の志は無私無欲維新国民の捨石となり、興矢〔嚆矢〕たるに在る。斯るが故に吾等の出所進退は自由無礙〈ムゲ〉である。要すれば形をなし要せざれば散ず。是れ悉く時宜に拠る諦観的敗北にあらず。やがて突撃への後方機動である。
         ×    ×
 満洲国の健全なる発達は日満支の三国の経済連繋、而して支那の和平を必須条件とする。満洲事変、五・一五事件以来、国内政党、財閥の横暴専肆〈センシ〉少しく緩怠〈カンタイ〉を見るが如きも、今日の如き弥縫〈ビホウ〉政策を以てしては国民生活難の諸問題は少しも抜本的に解決せられない。鬱勃たる民族の生命力は不当に抑圧されて居る。こゝに禍心を蔵する。大嵐は一年後に来るや将又〈ハタマタ〉三年後に来るや、唯神之を知るのみ。
 非常時は黙々として加速度的に深刻化するとも断じて解消せず。眼前の走馬燈的現象に幻惑して右顧左眄〈ウコサベン〉するは勇者の事ではない。我等一旦芳盟を契りて昭和維新国民運動を発起せる者離合集散に仍つて〈ヨッテ〉志を二三にするものに非ざる事を誓ふ。内外何れにせよ単一改造国策に維新国民運動に結集し得るの日迄、我国は不退転に沈潜する。而して不断の魂の鍛錬は無形有形の連携を濃か〈コマヤカ〉にするであらう。茲に我が神武会は大なる矜持と抱負を以て解散を天下に宣言する。全国の同志幸に加餐自重〈カサンジチョウ〉せよ。
 神武会の解散後、静岡、福井、京都等の地方的勢力は、それぞれ地方行地社となり、行地社精神を奉じて他日を期することゝなつた。
 神武会の解散を機として、日本の国家主義陣営内に、いはゆる中核組織論と大衆的組織論との対立が表面に出て来た。これは、古くは国家社会主義対日本主義の対立となり、後には議会主義と非議会主義、大衆的維新政党即時結成論と非政党主義との対立となつた国家主義内部の宿癌的二大底流の対立である。いま大衆的組織論と大衆的組織論との理論的根拠をみるに、神武会の大川周明の組織論は、五・一五事件でもみられるやうに、精鋭主義、中核組織主義である。中核的組織論は五・一五事件以来、神兵隊事件その他の事件の経過をみてもわかるやうに、現在までのところ失敗の連続である。テロリズムの如き、一時的・警世的効果はあつても結局国家改新の大義は達成せらるべくもない。殊に現在の如き客観的情勢の下において国家主義運動の起死更生を計り、これを文字通り国民運動にまで高めるには、議会進出の他に途なしといふのが大衆的組織論であつて、丁度大正十二、三年〔1923・1924〕頃左翼陣営内に起つたリベツ化運動の如きものである。〈272~277ページ〉【以下、略】

 時系列を確認しておこう。五・一五事件が1932年5月15日、大川周明・神武会会頭の逮捕が同年6月15日、昭和神聖会の結成が1934年7月22日、神武会の解散が1935年2月11日、貴族院で菊池武夫が美濃部達吉の天皇機関説を攻撃したのが同年同月18日、第二次大本事件が同年12月8日である。
 最後のほうに、「リベツ化運動」という言葉がある。インターネットで閲覧した資料「日本共産党運動年表」(寺出道雄執筆)によれば、1923年(大正12)9月、獄中にあった猪俣津南雄(いのまた・つなお)が提唱した、合法運動を重視する路線を指すという。

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