礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「まだ駄目だ、若い者が駄目だ」と真崎は云った

2024-06-27 02:22:33 | コラムと名言

◎「まだ駄目だ、若い者が駄目だ」と真崎は云った

 木下半治『日本国家主義運動史 Ⅱ』第六章「二・二六事件を中心として」第二節「二・二六事件の経緯」のうち、「六 北・西田・真崎」の項の後半部分を紹介している。本日は、その二回目。
 文中の傍点は、下線で代用した。なお、同書Ⅱ巻のページ付けは、Ⅰ巻からの通しになっている。

 陸軍の統制派対皇道派の対立が「山賊同士の分けまえ争い」かどうかは知らぬが、少なくとも、それが「軍閥陣の内乱」であったことは事実である。一般世人からいえば、誰か烏の雌雄を知らんや〔誰知烏之雌雄〕ということになる。二・二六事件において真崎が逮捕投獄されたのは、二十六日早暁(四時半という)、亀川哲也と会っている点にあるらしいが、もちろん、この一事だけで真崎参画説をとるわけにはいくまい。また五・一五事件以来、再度にわたって大将真崎がクー=デターを――時機尚早として――押えてきたことも噓でないであろう。思うに失うべき何ものかをもつ大将ともなれば、いよいよの時には、尻ごみをするものである。しかし青年将校を「蹶起」にまでかりたてたことについては、――前掲、岡田啓介の言によってうかがいしれるように――北・西田以上の精神的・道徳的責任が真崎になかったとは保証できないと思われるのである。これについて、青年将校の一人は、――「……皇道派青年将校と荒木・真崎両大将との関係は如何に。真崎大将はその取調を受け無罪となったが、この両大将と事件との関係は国民の今でも疑っているところであろう。わたくしもこの事については判然たる論断を下すことはできない……」といって疑問を提出している(新井、前掲、七五頁)。しかし、大将真崎は、「……曾ての甘粕〔正彦〕裁判には重要役割を果した由も聞いていた。生徒(陸軍士官学校――引用者)に対する大川周明博士の講演があったのも、たしか真崎大将の校長の時である(ただし大川は後に反真崎派に転じたことは知って置く必要がある)」。五・一五事件の時、「下山中尉と安藤中尉(ともに皇道派青年将校、安藤は二・二六事件の安藤大尉――引用者)の両名は兵営を抜け出て陸軍首脳部と会見し、これを機として国家改造に向うべきを熱心に進言した……その際真崎大将が時機尚早(傍点――引用者)とてこれを慰撫したのであった」。この時の模様を「安藤中尉の室で下山中尉」が直接語ったところによれば、真崎は、『まだ駄目だ。若い者が駄目だ』と云ったとの由。下山中尉の説明によれば、若い者とはわれわれ中尉や少尉ではなく、佐官級の幕僚達を意味する。この言葉を真崎は如何なる意味で云ったか。単なる慰撫の方便としてか、それとも俺はやりたいのだが幕僚が駄目だと云うのか、解釈は二様にとれる。……解釈が二者いずれにとられるにせよ、下山中尉自身も、『官級は革新意識はもっているが年配境遇よりその責任上自ら実行不可能で、国家改造はわれわれ若い連中が引摺って行かねばならない』と考えていた。……この点から推察すると、事を起すにあたり時前(事前)に将官連に話しては駄目だ、話せば必ず中止させられる、と判断していたのは明瞭である。こういう下山中尉の判断がそのまま村中・磯部等に通じているのは云うまでもない。十一月事件後免官になった両名を、真崎大将が気の毒に思い物質的援助もしたであろうことは、人情として、当然予想される。それにしても、二・二六事件勃発前に真崎と打合せがあったか否か。これはなかったと判断するが至当であろう」(新井、前掲、七五〜七六頁)と。〈405~407ページ〉【以下、次回】

「新井、前掲」とあるのは、新井勲『日本を震撼させた四日間』(文藝春秋新社、1949)のことである。同書には、しばしば、「下山中尉」の名前が出てくるが、これは菅波三郎(すがなみ・さぶろう、1904~1985)の仮名である。

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