◎毎日新聞のスクープ、元自衛官の証言は信用できるのか
毎日新聞は、2023年3月、警察庁長官狙撃事件に関して、スクープ記事を放った。この事件に関与したとする元自衛官の男性に取材し、その証言を紹介したのである。記事のタイトルは、「Nの記録/警察庁長官狙撃事件」。20日に上、23日に中、24日に下が掲載された(執筆は遠藤浩二記者)。
このスクープ記事については、その都度、このブログで紹介し、コメントも付した。以下に、3月25日の記事を再掲してみる。
◎元自衛官の男性は「真実」を語るべきである
今月二〇日の毎日新聞記事「Nの記録/警察庁長官狙撃事件・上」によれば、元自衛官の男性は、「事件当日の朝に受刑者と一緒に軽乗用車でJR西日暮里駅と現場付近を行き来した」と証言しているという。
もし、男性の証言に、「これ以上」のものがないとすると、この男性については、本当に事件に関与していたのだろうか、という疑念が生じる。なぜなら、中村泰(ひろし)受刑者が「支援役」が運転する軽乗用車で、JR西日暮里駅と現場付近を行き来したと語っていることは、この間の報道によって、広く知れわたっていることだからである。
今回の男性の証言は、あるいは「カタリ」かもしれない。
そこで、この元自衛官の男性が、この事件との関わりについて、あるいは中村泰受刑者との関わりについて、毎日新聞記者に対して、どのように語ったのかを確認しておこう。
二〇日の毎日新聞一面には、次のようにあった。
《毎日新聞は19年9月、記者が別事件の取材で知り合った元自衛官の男性から、かつて長官狙撃事件に関連して警視庁の聴取を受けたことを明かされたことから狙撃事件の取材を開始。男性は22年4月、初めて中村受刑者を「狙撃犯」とした上で「5万円で運転を頼まれた」などと具体的な証言をした。
証言によると、男性は高校中退後に入隊した自衛隊を約10カ月で辞め、93年6月に旅行で米国に渡航。ロサンゼルスで受刑者と知り合って連絡先を交換し、同年8月に帰国した後も日本で親交を続けた。
95年3月、受刑者と連絡を取り合う中で「3月30日に5万円で運転を手伝ってほしい」と頼まれ、当日朝にJR西日暮里駅で合流して5万円を受領。受刑者が準備した軽乗用車で狙撃事件の現場から南西に約700メートルのNTT荒川支店の駐車場に移動した。受刑者は「人と話をしてくる」と言って車を降り、約1時間後に戻ってきたという。その後、車で西日暮里駅まで受刑者を送って同駅近くの駐車場に止め、その日の夜に新宿で再び受刑者と会って車の鍵を返したと話した。
男性は当時、何のための運転なのか知らされず、約1年8カ月後の96年11月ごろ、中村受刑者から「あの時に警察庁長官を撃った」と伝えられたという。……》
「受刑者が準備した軽乗用車で」とあるが、このとき、軽乗用車を運転してJR西日暮里駅にやってきたのは誰だったのか。この男性か、中村受刑者か、あるいは、第三の「支援役」だったのか。このアイマイな表現では、そのあたりがよくわからない。
また、中村受刑者は、下見の段階で、すでに自動車を使っていると思われるが、その自動車は、この男性が二〇日に中村受刑者を載せた軽自動車と同じだったのか、それとも違う自動車だったのか。このあたりも、よくわからない。
男性は、この事件に関わったのは、この日一日だけで、何のための運転なのか知らされなかったという。犯行のことを自分は知らなかった、この犯行に深く関与しているわけではない、と言いたいらしい。しかし、この言葉を信じてよいのか。
中村受刑者が、この男性を犯行に関与させないよう配慮していたことはありうる。しかし、そうだとすれば、なぜ中村受刑者は、事件当日、それも一日だけ、わざわざ、その男性に車の運転を依頼したのか。しかも、犯行直後の逃走という重要な場面で。
この男性が、事件に関与したというのは、おそらく本当のことなのだろう。男性が、詳しいことを言わないのは、「共犯者」と目されるのを恐れているからだと思う。しかし事件は、二〇一〇年三月に時効が成立している。この男性には、ぜひ「真実」を語っていただきたい。パーキンソン病で苦しむ中村受刑者のためにも、男性は「真実」を語るべきだと思う。
以上が、2023年3月25日の記事である。
この男性の証言は「カタリ」かもしれないとしたが、その一方で、「この男性が、事件に関与したというのは、おそらく本当のことなのだろう」とも書いている。わかりにくい文章だったことをお詫びし、以下に補足ないし再説明をおこないたい。
元自衛官の男性の証言は、全体的に不自然である。特に信用しがたいのは、〝狙撃事件の現場から南西に約700メートルのNTT荒川支店の駐車場に移動した。受刑者は「人と話をしてくる」と言って車を降り、約1時間後に戻ってきた〟とあるところ。これでは、中村受刑者は、NTT荒川支店前から犯行現場のアクロシティまで、徒歩で向かったことになって、中村受刑者の証言と合わない。
ただし、この男性が軽自動車の運転を頼まれたのが、犯行当日ではなく、それより以前の「下見」の段階だったと考えると、この男性の証言は、にわかに真実味を帯びる。犯行前のある日、中村受刑者は、目的を告げずに、男性に軽自動車の運転を頼んだ。中村受刑者は、NTT荒川支店前で、「人と話をしてくる」と言って車を降り、徒歩でアクロシティに向かった。そこで、「支援役」のハヤシと、最終的な打合せをおこなったあと、再び徒歩でNTT荒川支店前まで戻った。――これは、十分ありえたことだったと思う。
2010年1月に、元自衛官の男性の写真を見せられた中村受刑者は、「本来は複数人いた支援役をハヤシという同一人物にまとめてこれまで説明してきた」と供述を変えたという(毎日新聞2023・3・20、3面)。この供述の変更は、「元自衛官の男性は、犯行当日における支援役ではなかった。しかし、それ以前の段階で、その男性に支援役を頼んだことはある」ということを示唆したしたものではなかったのか。
遠藤浩二記者には、元自衛官の男性に対して、軽自動車の運転を頼まれたのは何月何日だったのか、その日付を裏づける証拠はないのか、という二点について、鋭く迫っていただきたかったと思う。
なお、昨日のブログでも触れたが、この事件で実際に狙撃をおこなったのは、中村受刑者が支援役に選んでいた「ハヤシ」であった可能性がある。その場合、狙撃に関しては、中村受刑者が支援役にまわったことになる。3月30日の犯行当日、中村受刑者は、軽自動車を運転し、西日暮里駅でハヤシを載せ、まずNTT荒川支店前に行き、犯行後は、ここで待ち合わせることを確認する。ハヤシをアクロシティ近くの「神社」(若宮八幡宮か)で降ろしたあと、NTT荒川支店前に戻り、犯行を終えたハヤシが、自転車に乗って戻ってくるまで待った、ということになる。