礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

国体明徴運動の副産物としての「暴力団狩り」

2024-06-08 00:57:58 | コラムと名言

◎国体明徴運動の副産物としての「暴力団狩り」

 木下半治『日本国家主義運動史Ⅱ』の第六章第一節から、「二 機関説排撃と国体明徴運動」を紹介している。本日は、その後半。

 陸軍が機関説に反対したのは、その統制派であると皇道派であるとを問わなかった。しかし教育総監真崎〔甚三郎〕および第一師団長柳川〔平助〕を中心とする皇道派の方がより熱心であったのは、その主張からいっても自然であったであろう。統制派は、はじめ皇道派とともに美濃部博士を攻撃、岡田内閣打倒の方向に動いたが、世論ならびに政界上層部があまり喜ばなかった動向を敏感に看取して、後、もっぱらこの運動の主導権を皇道派にゆずり、皇道派の人気失墜にこれを利用したといわれる。皇道派がいい気になって、青年将校を率いて機関説攻撃に憂身〈ウキミ〉をやつしたことは事実であり、ついに、教育総監真崎は柳川の進言を入れて、四月六日に教育総監の名で、全陸軍に対して国体明徴の訓示を発した。そして一方陸軍は政府に迫って再三、国体明徴に関する声明を発表させた。まだ比較的「常識」を失わなかつた当時の岡田内閣は、陸軍の要求にこころよく迎合しなかったので、事態はだんだんこじれて、ついに重大な政治問題化した。陸軍の目ざすところは、前述のように、美濃部博士と同一学説系統に属すると目された法制局長官金森徳次郎、枢密院議長一木喜徳郎――ひいては一木の推薦者である元老西園寺公望〈サイオンジ・キンモチ〉の責任を問おうとすることにあった。政府は必死となつて陸軍の要求をくいとめることに努力したが、結局、金森法制局長官は辞職し、枢相一木もまた二・二六事件を機として辞任したので、陸軍の目的は窮極において達成された。また教学刷新委員会を設け、多くの機関説学者を辞任させ、大学の講義内容に改訂を命じ、機関説をもって刑事的犯罪としたのであった。
 この機関説排撃――国体明徴運動は、諸方に波乱をまき起した。政友会内にも久原房之助一派のいわゆる明徴派を生じて、岡田内閣倒壊運動を行なわせた。議会においても三月二十日に、衆議院では「国体に関する決議」を、貴族院では「政教刷新建議案」を可決した。
 民間国家主義団体が、この問題に対してよき餌とばかりとびついたのはもとよりのことである。この問題は、前述したように、前年来の不振を「匡救」するにはもってこいの好題目であったのである。すなわち、三月八日に頭山満・菊池武夫・中将四王天〔延孝〕・五百木良三・葛生能久・岩田愛之助・入江種矩・橋本徹馬(紫雲荘)等を中心とする機関説撲滅同盟が結成され、同十九日に、機関説撲滅有志大会を開催して、次のような宣言および決議を可決し、これを首相、内相、陸・海両相、文相等を訪問してこれを手渡し、四月にはさらに機関説撲滅同盟世話人会を開いて、司法および検事局に陳情した。――
       機関説撲滅有志大会宣言【略】
       決  議【略】
 一方、統一戦線団体である国体擁護連合会も、三月六日に「兇逆思想の掃討と国本の防護」と称するパンフレットを刊行し、また青山会館に総会を催すなど、機関説撲滅運動を盛んに行なった。
 こうして新日本同盟・大日本生産党・愛国政治同盟・国民協会・昭和神聖会等の国家主義団体は、在郷軍人、なかでもその組織である明倫会・皇道会と手を組んで盛んに動き回り、「統一戦線・協同闘争」が展開された。それに関して注意すべきは、地方国家主義団体の活発な活動である。北九州・近畿・中部地方等における各団体は、中央以上の緊密な協同戦線をひいて、演説会・国民大会等に狂奔したのであった。
 機関説排撃運動――国体明徴運動の副産物の一つは、いわゆる暴力団狩りである。政府は機関説排撃運動をおさえる一つの方便として、従来ややもすれば見逃しがちであった暴力団の狩り込みを行ない、「街の紳士」一千七百余名が検挙された。呑舟の魚はもとより逸したが、悪質の運動ブローカーがかなり検挙され、政府のこの暴力団狩り政策は、一脈の清風として大いに一般輿論の支持を受けた。
 八月五日における政府の国体明徴声明によって、いちおうこの機関説排撃運連動はおさまったが、これは屡述〈ルジュツ〉のように国家主義運動の勢力が単に政治運動のみならず、学説の領域まで及んだという意味において記録さるべきものであったのである*。
 (*)参考のため八月五日政府声明に対する明倫会の声明書、および十一月二十日、関西側の内閣打到国民大会の「宣言」「決議」は次の通りである。〈268~300ページ〉

〔声明・宣言・決議、略〕

 宣言、決議、声明は、戦前版と同じなので、割愛した。その点を除けば、昨日および本日、紹介したものが、戦後版における「機関説排撃と国体明徴運動」の全文である。
 内容・論調は、戦前版とは微妙に異なっている。貴族院における菊池武夫の演説の原稿は、蓑田胸喜が書いていたという記述は、戦前版には出てこない。また、戦後版の記述では、美濃部達吉の学識に対して、一定の敬意が払われている。
 一方、国体明徴運動にともなう「暴力団狩り」によって、国粋大衆党総裁の笹川良一が逮捕されたという記述は、戦前版にはあるが、戦後版では削られている。
 明日は、戦前版『日本国家主義運動史』の紹介に戻る。

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