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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

この逆襲的弁明が軍部及び国家主義団体を刺戟した

2024-06-04 02:49:22 | コラムと名言

◎この逆襲的弁明が軍部及び国家主義団体を刺戟した

 先月、五反田の古書展で、木下半治の『日本国家主義運動史』(慶應書房、1939)を見つけた。この本は、戦前版と戦後版とがある。戦後版(福村出版)は読んだことがあるが、戦前版は読んだことがなかったので購入。本文557ページ、定価二円五十銭、古書価は、たしか400円だった。
 本日以降、同書の第六章「二・二六事件を中心として」の第一節「二・二六事件前の情勢」から、「一 機関説排撃と國體明徴運動」の全文を何回かに分けて紹介してみたい。

   第六章 二・二六事件を中心として
    第一節 二・二六事件前の情勢
     一 機関説排撃と國體明徴運動
 国家主義団体が声を大にして叫んで来たいはゆる一九三五・六年の危機の第一年たる三五年(昭和十年)は来た。しかし懸念された国際的危機は来なかつた。問題の海軍々縮条約は、一九三四年(昭和九年)十二月を以て廃棄されたが、無制限の建艦競争も起らす、同じく一九三四年で効力発生した連盟脱退も、格別さしたる事態も惹起せず、むしろヨーロツパ諸国は一九三五年三月のナチス・ドイツ再軍備宣言、一九三四年十二月の国境紛争に発端し一九三五年に暴発した伊・エ戦争〔第二次エチオピア戦争〕等々のために、極東問題どころではなかつたのである。
 翻つて国内事情をみるに、繭価〈ケンカ〉の値上り、米価騰貴、農村匡救〈キョウキュウ〉事業の進捗、輸出及び軍需インフレ等によつて、とも角、一時切迫せる経済的危機は大いに緩和せられた。
 しかしながら、この頃注意すべき事象が二つあつた。一は、天皇機関説排撃問題及びそれに引続く國體明徴運動であり、二は、永田鉄山暗殺事件である。
 昭和十年二月、第六十七議会における国家主義代議士江藤源九郎少将(奈良県選出)の質問をキッカケとして、天皇機関説排撃運動の幕は切つて落された。二月二十五日、貴族院における美濃部達吉〈ミノベ・タツキチ〉博士の弁明は、議場においてこそ人々の傾聴を買つたが、この逆襲的弁明が俄然院外の軍部及び国家主義団体を刺戟した。このために、美濃部博士は議員その他一切の公職を辞し、その著書は発売を禁止せられ、一時は起訴まで伝へられ、つひには小田某〔小田十壮〕によるピストルの襲撃まで受けた。軍部は挙つて〈コゾッテ〉美濃部学説に反対し、政府に迫つて再三國體明徴に関する声明を発せしめ、それはつひに重大なる政治問題化した。軍部の目指すところは、美濃部博士と同一学説系統と目される法制局長官金森徳次郎〈カナモリ・トクジロウ〉、枢密院議長一木喜徳郎〈イチキ・キトクロウ〉男の責任を問はんとするものであつた。種々の経緯の後、結局、金森法制局長官は辞職し、一木枢相また二・二六事件を機として辞任したので、軍部の目的は窮極において達成せられた。また教学刷新委員会を設け、多くの機関説学者を辞任せしめ、大学の講義内容に改訂を命じ、機関説は刑事上の犯罪とせられたのである。
 この機関説排撃―國體明徴運動は、その及ぶところ諸方に波瀾を捲き起した。政友会内にも久原房之助〈クハラ・フサノスケ〉一派のいはゆる明徴派を生じて、岡田〔啓介〕内閣倒壊運動を行はしめた。議会においても三月二十日、衆議院では「國體に関する決議」を、貴族院では「政教刷新建議案」を可決した。〈265~267ページ〉【以下、次回】

 美濃部達吉博士のいわゆる「一身上の弁明」に対して、木下半次は、「この逆襲的弁明が俄然院外の軍部及び国家主義団体を刺戟した」とコメントしている。このように「国家主義団体」側の視点に立っているところが、戦前版『日本国家主義運動史』の特徴と言えるだろう。

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