礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

昭和神聖会の結成および解散

2024-06-22 04:17:50 | コラムと名言

◎昭和神聖会の結成および解散

 ここで再度、木下半治『日本国家主義運動史』(慶應書房、1939)の紹介をおこないたい。
 本日、紹介するのは、第五章「運動再建への努力」第二節「民間国家主義団体の沈滞と政治の底流」のうち、「四 昭和神聖会の出現」の項の全文である。

     四 昭和神聖会の出現
 時局重大にも拘はらず、民間国家主義団体は徒らに〈イタズラニ〉分立して、久しくその勢力を統一する能はざる狀態にあつた。この時、突然、大本教の出口王仁三郎〈デグチ・オニサブロウ〉がこの方面に名乗りを上げて来た。出口は自己の豊富な資金を利用して愛国団体の統一を計り、これを地盤として、自己の政治的野心を達成せんとしたのである。
 この出口の陰謀は、昭和九年〔1934〕七月二十二日の九段軍人会館における昭和神聖会の結成となつて現はれた。この時、出口の正体を知らざる多くの名士がこれに列席し、国家主義諸団体また昭和神聖会に協力せんとした。而して、当日創立せられた昭和神聖会には、某公爵が総裁(但し後に取消す)、出口王仁三郎が統管、内田良平が副統管となり、こゝに大本教と生産党とのコンビがみられたのであつた。在郷軍人の団体明倫会、皇道会、青年日本同盟、神武会も連絡があり、昭和神聖会は、当日次の如き声明書及び宣言を発した。――
        声  明
 方今国際状勢愈々紛糾し、皇国日本の前途に重大なる危機を孕み〈ハラミ〉、国内の不安(中略)克服さるゝ時あるを見ず。
 惟ふに是れ神聖なる天地の大道(中略)を忘失して外来文物制度に侵毒せられたるに依る。然るに未だ真に覚醒する者尠なく滔々として闇黒不安の流れに狼狽するのみ。
 吾人は久しく静観して覚悟するあり、今や天の時は漫然傍観するを許さず、憂国の至情は此処に敢然身命を挺して(中略)政治に経済に外交に教育に一切を究明し(中略)神州日本の美し〈ウマシ〉国を将来せむと誠心奉公を誓ひ、茲に昭和神聖会を創り以て其目的達成に邁進せむとす。 
  昭和九年七月    昭和神聖会代表  出 口 王 仁 三 郎 
        宣  言
 大日本皇道の天業未だ途にありて内外稀有の不安に会す。寔に〈マコトニ〉憂慮に堪へざるなり。惟ふに是れ天地の大道、皇道の大精神を忘却せるに依る。
 茲に於て天祖の進捗、列聖の聖詔を奉戴し、大義名分を明かに百般の事象を究明して、世道人心を正し、至誠奉公神州臣民たる天賦の使命を遂行し以て聖慮に応へ奉らむことを誓ふ。
 右宣言す。
   昭和九年七月二十三日     昭 和 神 聖 会
 結成なつた昭和神聖会は、その青年部隊昭和青年会を基礎として、大阪、京都その他に支部を設けると共に、他方、前述国家主義諸団体と手を握つて海軍問題有志懇談会の結成に努力し、あるひは、国家改造断行に関する請願運動を捲き起して、長野、富山、石川等の農村団体を動員した。 何にしろ大本教の資金をバツクとせるだけに、その政治的将来は相当注目すべきものがあつたが、突如、昭和十年〔1935〕十二月八日、京都、東京、松江その他において大本教に対する手入れが疾風迅雷〈シップウジンライ〉的に行はれ、王仁三郎以下の大本教幹部は、昭和十一年〔1936〕三月十三日、予審終結して治安維持法及び不敬罪を以て起訴せられ、それと同時に昭和神聖会は、他の大木教所属諸団体と共に解散を命ぜられたのであつた。最後に昭和神聖会の主義、及び綱領を掲げて置く。――
        主  義
 本会は神聖なる神国日本の大道、皇道に則り、万世一系の聖天子の天業を翼賛し奉り、肇国の精神を遵奉し、皇国の大使命と、皇国民天賦の使命達成を期す。
        綱  領
 ― 皇道の本義に基き祭政一致の確立を期す。
 ― 天祖の神勅並に聖詔を奉戴し、神国日本の大使命遂行を期す。
 ― 万邦無比の國體を闡明〈センメイ〉し、皇道経済、皇道外交の確立を期す。
 ― 皇道を国教と信奉し、国民教育、指導精神の確立を期す。
 ― 国防の充実と農村の隆昌を図り、国本の基礎確立を期す。
 ― 神聖皇道を宣布発揚し、人類愛善の実践を期す。  〈252~255ページ〉

 この文章において、まず注目しなくてはならないのは、昭和神聖会の結成に際して、某公爵が「総裁」に選ばれたとあることである。ここで某公爵というのは、貴族院議員の一条実孝(いちじょう・さねたか)であるが、木下半治は、その実名を出すのを避けている。
 また、「大本教と生産党とのコンビがみられた」とあるが、生産党の正式名は、大日本生産党である。同党の結党は1931年(昭和6)11月で、初代総裁は内田良平であった。
 明日は、戦後版の『日本国家主義運動史』(福村出版、1971)において、本日、紹介したところが、どのように書き直されているかを見てみたい。

*このブログの人気記事 2024・6・22(9位になぜか森永ミルクキヤラメル)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする