礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

萩原朔太郎のエッセイ「能の上演禁止について」(1940)

2012-11-15 05:50:49 | 日記

◎萩原朔太郎のエッセイ「能の上演禁止について」(1940)
 
 昨日のコラムで、中村雅之氏の論文「戦時体制下における天皇制の変容―『蝉丸・大原御幸事件』と謡本改訂」(『能と狂言』第二号、二〇〇四)を引用した際、「この論文は、私の知る限り、この問題に関して、最も詳細にして最も信頼しうる文献である」と書いた。この「信頼しうる」というのはその通りだが、「最も詳細にして」という部分は、訂正しなければならない。
 というのは、昨日になって、家永三郎の『猿楽能の思想史的考察』(法政大学出版局、一九八〇)を手にしてみたところ、その前編「十五年戦争下の能・謡への弾圧」が、六二ページを費やして、この問題を詳細に扱っていたことを知ったのである(中村論文は、計一五ページ)。家永の記述は、「蝉丸」の上演自粛の経緯など、やや明瞭性を欠く部分もあるが、一九四〇年(昭和一五)における謡本の改訂については、二次にわたる各流宗家の「申合せ」(四月、一二月)を引用するなど、資料としての価値も高い。この家永論文は、しばらく日を置いた上で、紹介する予定である。
 さて本日は、詩人の萩原朔太郎が、リアルタイムで、この問題を論じているエッセイを紹介してみたい。それは、『阿帯〈アタイ〉 萩原朔太郎随筆集』(河出書房、一九四〇年一〇月)に収録されている「能の上演禁止について」というエッセイである。初出についての注記はなかったが、多分、一九四〇年(昭和一〇)にはいってから書かれた文章であろう。冒頭の部分のみ引用する。

 能の「大原御幸」が上演禁止になつた。あの蕭条たる山里の尼院の中で、浮世を捨てた主従三人の女が、静物のやうにじつと坐つたまま、十数分もの長い間、物悲しくも美しい抒情の述懐を合唱する場面は、すべての能の中でも最も幽玄で印象に残る場面であるが、今後再びそれが見られないと思ふと、永久に宝石を失つたやうな寂しさが感じられる。先には「蝉丸」が禁止になり「船弁慶」〈フナベンケイ〉の一部が抹殺されたが、今後は皇室に関する一切の能を禁じ、長く廃演にするといふことである。するとさしづめ式子内親王をシテ役にした「定家」や、醍醐天皇とおぼしき帝の出給ふ「草子洗小町」〈ソウシアライコマチ〉やを初め、幾多の美しい傑作能が、今後舞台から消滅することになるのであらう。
 警視庁の方の理由は、臣下たるものが皇族に扮し、娯楽興行物に演芸するといふのは、畏れ多く不敬のことだといふのである。成程一応はもつともの理由であるが、いささか杓子定規の役人思想が、世話の行きすぎをしたかとも考へられる。すべての物事は、法律的の言語概念で考へないで、深くその物の本質する精神から考へるのが大切である。娯楽演芸物とは言ひながら、能は歌舞伎や活動写真とはちがつてゐる。能は武家の式楽〈シキガク〉として、最も厳重な格式の下に、長裃〈ナガカミシモ〉の儀礼を以て観覧されたものである。これを見る者は将軍であり、大名であり、当時の貴族たる武士階級者であつた。平民階級の町人等には、かたく法律を以てその観覧が禁じられた。それほど鄭重に儀礼を正して、荘重に演ぜられた式楽なのだ。今日もし市井の大衆劇や娯楽的の映画劇で、皇室を主題とする如き物が現はれたら、あへて警察の令を待つ迄もなく、僕等が率先してその不敬を責めるであらう。だが観客が皆礼服を着、儀式を正し、最敬礼を以て列座し、そして演芸そのものと演出者とが、最も厳粛荘重なる精神を以てする舞台に於て、たとひ皇室に関する場面があらうとも、一概に不敬呼ばはりをすることはできないだらう。勿論今日の能の観客は、昔のやうに礼儀正しくはない。しかし能そのものの芸術精神は、依然として伝統のままに荘重な式楽であり、何等卑俗の娯楽性を持たないのである。況んや〈イワンヤ〉能は、五百年もの長い伝統を経た古典劇である。ニイチエも言ふ通り、人は幾度も繰返される劇に於ては、もはや筋やストーリイを見ようとしないで、もつぱら演技の形式だけを見るのである。「大原御幸」や「蝉丸」などの観客は、シテが皇族であることなど意識しないで、単にそれが観世左近〔観世元滋〕であり、梅若萬三郎〔初世〕であることだけを見てゐるのである。警視庁の取締りが、映画や現代劇にやかましく、時代劇や歌舞伎劇に比較的寛大だといふことも、おそらくこの同じ理由にもとづくにちがひない。新しく出来たナマのものは、臭気の刺激性が甚だしい。しかし五世紀も経た骨董品に、今さら何の臭気があらう。枯骨を叩いてその肉臭を探索し、今さらに事新しく公告するのは、却つて〈カエッテ〉人心を惑はすことの愚になりはしないか。【後略】

 不勉強にして、これまで萩原朔太郎の文章というものを、ほとんど読んだことがなかったが、この文章を読んで感心した。文章の趣旨に賛同したというわけではないが、巧みな論理の運び方には感服したし、能楽に対する素養を踏まえた説得力も意外だった。しかも萩原は、検閲というものを意識し、忌諱に触れることのないよう、慎重に言葉を選んでいる。このあたりの細かな神経にも感心させられたのである。
 ロシア文学者の米川正夫が「蝉丸」という文章を書いたのは、一九四〇年の秋だというが、萩原の文章と、米川の文章の前後関係はわからない。いずれにせよ、当時、「能の上演禁止」が大きな問題になっており、多くの文化人が、この問題に深い関心を寄せていたことは間違いない。

◎杓子定規の役人思想が、世話の行きすぎをしたか

 詩人の萩原朔太郎が、「能の上演禁止」問題についておこなったコメント。『阿帯〈アタイ〉 萩原朔太郎随筆集』(河出書房、1940)所収、「能の上演禁止について」より。同書の65~66ページに出てくる。上記コラム参照。

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