礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

戦いは百合若の強弓によって決した

2024-06-15 01:28:03 | コラムと名言

◎戦いは百合若の強弓によって決した

 河原宏『伝統思想と民衆』(成文堂、1987)第三章「中世における民族意識と民衆文化」の「二 元寇と神国思想」から、「2 元寇の文芸への反映」の項を紹介している。本日は、その二回目。注番号がある場合は、当該の注を引用する。

 元寇の反映は幸若舞〈コウワカマイ〉の『百合若大臣〈ユリワカダイジン〉』にもみられる。幸若舞とは、室町時代の応永年間(一四一〇年ごろ)、幸若大夫〈コウワカタユウ〉によって隆昌した曲【くせ】舞の一種で、叙事詩的な詞を鼓に合せて歌い舞うもの、男は直垂〈ヒタタレ〉、女は水干、立烏帽子〈タテエボシ〉姿である。戦国の武将、庶民に愛好され、一時は能よりも上位に置かれた。織田信長の幸方舞『敦盛〈アツモリ〉』の愛好ぶりは有名である。ただ近世に入ると幸若家は士分にとりたてられ、芸能としては哀微していった。今は福岡県瀬高町〈セタカマチ〉大江に大頭舞〈ダイガシラマイ〉として残るのみとされている。
 『百合若大臣』の筋は次のようなものである。昔、嵯峨天皇の御代〈ミヨ〉、むごく(蒙古国)の「むくり」が、両蔵、水火、飛ぶ雲、走る雲の四人を大将に、四萬艘の船に乗り博多へ押し寄せてきた。
【一行アキ】
  此のたびの不思議には、むごくの蒙古【むくり】どもが蜂起して、攻め入るとこそ聞えけれ。
【一行アキ】
 九州の武士たちは毒矢を放ち、鉄砲を打ちかける「むくり」の勢いにおされ、中国へと引き退く。この辺りには、百数十年後の応永年間に伝聞された元寇の体験が描写されている。
 都では百合若を大将として九州へ派遣するが、ここで神風が吹き、むくりの船四萬艘は退散した。
 しかし都では、勝ったといっても四人の大将の内、せめて一人でも討ち取ったならとも角、ただ退散しただけではまた攻めてくるかもしれない。そうであるなら、逆にこちらから攻め寄せよということになり、百合若を大将とする八萬艘の船が出陣し、「ちくらが沖」でむくり艦隊と対峙する。これは文永の役直後の外征計画を反映したものでもあろうか。いずれにせよ、元寇後の日本側の心理状態を伝えるものではあろう。
 戦いは百合若の強弓〈ゴウキュウ〉によって決した。両蔵は討たれ、水火は腹を切り、飛ぶ雲、走る雲は生け捕りになり、四萬艘の「むくり」は多く討たれて残りは一萬艘になる。
【一行アキ】
  さのみは(そうむやみに殺しては)罪になるべしとて、起請を書かせ助け置き、本地(本国)へ戻させ給ひて、「いや日本は戦【いくさ】に勝ちぬ」とて、八萬艘の船内の喜び合ふこと限りなし⒁。
【一行アキ】
 敵ながら、余りに多く殺しては「罪になるべしとて」というあたり、『八幡愚童訓〈ハチマングドウクン〉』の「他ノ国ヨリモ我国ト心狭ク」という疑念にも通ずるもので、当時の人の意識構造を伝えていよう。この作でも 伊勢、住吉などの神々の冥助と神風の力は、いたるところ賛えられているのだが、それも「神風涼しく吹ければ」というように神の恵みを伝える風であって、船団を壊滅させるような荒々しい暴風ではない。あきらかに頼山陽以来、皇国史観につながる「残るはただ三人【みたり】」(小学唱歌『元寇』)の神風観とは異っている⒂。〈191~193ページ〉【以下、次回】

(14) 「百合若大臣」『幸若舞』1、一九七九年、平凡社東洋文庫、一一九~二〇ページ。
(15) 小学唱歌『元寇』は明治二十五年〔1892〕、永井建子〈ケンシ〉の作詞、作曲による。永井は後に陸軍戸山学校軍楽隊長。

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