知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『平和戦略、歴史に学べ(91歳の宗教学者・山折哲雄氏に聞く』 『長引く疫病と戦争の惨禍に揺れる現代を、超高齢者の碩学はどう見ている』

2022-08-22 17:13:43 | 偉人

『平和戦略、歴史に学べ(91歳の宗教学者・山折哲雄氏に聞く』

『長引く疫病と戦争の惨禍に揺れる現代を、超高齢者の碩学はどう見ている』 

半世紀以上昔のこと、香港駐在時代、『経団連』の会長を4期12年務められた偉大な人物との『香港金田中』の昼食会の末席に加えて頂きました。 この席で某関連会社の駐在員が『共産主義と民主主義の将来は』というような主旨の質問をされました。 これに対して『人間は「業」を持っているので、どちらも修正されながら継続するだろう』と話されました。 若気の至りで『理想社会の実現』は難航すると理解、トラウマになり、それ以来、悲観論者になりました。

この方に、今、質問出来たら『権威主義(独裁政治・専制政治・神権政治)体制と民主主義の将来』をお尋ねしたいと思いました。 

先日(2022/06/11)日経新聞文化蘭に記事『平和戦略、歴史に学べ『平和戦略、歴史に学べ(宗教学者・山折哲雄に聞く』が載っていました。 見出しにはこうありました。 『長引く疫病と戦争の惨禍に揺れる現代を、超高齢者となった碩学はどう見つめているのだろうか。 生死の先をさまよった肺炎から復活した宗教学者の山田哲雄(91)を京都に訪ねた。』 この記事の抜粋・引用です。

新型コロナが流行し始めた2年前の3月末から4月にかけて、発熱・咳・呼吸困難で、コロナの疑いで、受診、コロナではなかったが、肺炎が重症化し入院、『最後は断食して自然死に希望』したが、『「それは医師としては認めることはできません」と。 それなら、せめて意識レベルを下げて痛みや苦痛を下げるセデーション(鎮静)をしてもらえないか、と言いましたがそれもダメでした。』

しかし、2-3日後頃から病状が改善、九死に一生を得てから二年余り、断っていたお酒も、一年前から再開した。 夜は9時ごろ寝て、2時ごろには目を覚ます。 『しばらくは妄想の時間です。』 

朝3時ごろから原稿を執筆。 朝食後の小一時間は、朝食の時間だ。昼食後は昼寝もする。 『妄想三昧、執筆三昧、昼寝三昧の生活です』と笑う。 『老いをありのままに受け入れる』心境は最新の著書『心の風景』(海風社)にも書かれている。

ウエブ情報から引用

今、気がかりなのは、コロナ禍と戦争をめぐる議論の行方である。 『このところの世界の動きを見てふと思いました。 人類の歴史とはまさに、こういうものではなかったか、とね』。 頭に浮かんだのは、古代の民族大移動だった。

『まずはアーリア人です』。 紀元前、現在のインドやイラン高原に侵入して征服した。 『次ゲルマン民族とノルマン人の大移動がある』。 紀元後、北欧方面から南下して、ヨーロッパ各地に侵入する。 『その間に彼らは略奪、殺戮をしている。 ローマ帝国は、略奪、殺戮をさらに大規模に繰り返した その後十字軍戦争もある。 こうして地中海文明が形成され、ルネッサンス、宗教改革、産業革命と続くわけです。』  

『この間に、西欧諸国がしたことは、アフリカ大陸の略奪と奴隷の売買、アメリカ大陸の征服だった。 今のウクライナでの戦争における略奪と殺戮には、先例があると私は思った。 ウクライナでの戦争は、人類がこの2000~3000年の間にしてきたことと無縁ではありません。

『一種の狩猟社会的な野蛮な人間の姿が、再び現れてきたな、と感じます。 憎悪と復讐の連鎖が止まらなくなってきた。 危機を感じとるにつけ、振り返るのは日本の歴史だ。』 

『この日本列島は、いつも大文明に脅かされてきた。 大文明の傘に守られた従属関係の中で、必死に生き延びてきた。 「我々の先祖は凄いぞ」と私は言いたいんです。』 

『日本は、平安時代の350年、江戸時代の250年は大きな戦争がなく、世界史的にも奇跡と呼べるような平和な時代が続いた。 第二次大戦での敗戦以外には、日本は長きにわたり外国の侵略を免れてきたんです。 流血が止まない今、なぜその歴史を見つめ、ノン・バイオレンスの日本モデルを世界に示そうとしないのか。 

二大先哲のお教えを、さらに勉強して、なかなか早く『悲観論からの脱出』をしたいと思っています。

(記事投稿日:2022/08/22、#563) 

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『インカは凄い 2(インカ帝国を支えた5万㎞のインカ道が凄い)』『カパック・ニャン(インカ道・王の道)は、行政・宗教が主目的』

2022-08-19 16:41:34 | 歴史・世界・古代

インカは凄い 2(インカ帝国を支えた5万㎞のインカ道が凄い)』

『カパック・ニャン(インカ道・王の道)は、行政・宗教が主目的』

『行政・軍隊の高速移動のための「ローマ街道」、「日本の五街道』 

インカ帝国は、南アメリカ大陸、現在のペルー、エクアドル、ボリビア、チリ北部を支配し、1200年ごろに成立し、15世紀に最盛期を迎えた国家。 首都はクスコ。 ケチュア族が建てた国であるが、アンデス文明を継承して繁栄して、高度なインカ文明を成立させた。 しかし、新大陸に進出したスペインの征服者ピサロよって征服され、1533年に滅亡した。 

インカ帝国(タワンティン・スウユ・「四つの邦」という意味)

ウキペデイア情報から引用

文字なしで、話し言葉とキープ(結縄・貢物の品とその数量)だけのインカ文明についての今後の勉強のため、ウエブ情報インカ帝国を支えた5万kmの道路網「カパック・ニャン」』から引用、備忘録にさせて頂きました。 

インカ帝国の正式な呼称は、タワンティン・スウユで、ケチュア語で、「タワンティン」とは、「4」を意味し、「スウユ」とは、州、地方、文脈によっては国を表す。 訳すと「四つの邦」という意味である 各地はアンティ・スウユ(東方)・クンティ・スウユ(西方)、コリヤ・スウユ(南方)、チンチャイ・スウユ(北方)と呼ばれた。 首都のクスコからは東西南北の各地方へ向けて4本の王の道が建設された。 

インカ道(英語:Inca road, ケチュア語: Qhapaq Ñan〈カパック・ニャン〉)は、インカ帝国が整備した道路網で、インカの最盛期には、現在のペルー、ボリビアを中心としてチリ、アルゼンチン、エクアドル、コロンビアまで敷設されていた。 ケチュア語のカパック・ニャン とは「王の道」という意味。

ウエブ情報から引用

リャマの通る道

南米では毛織物で有名なアルパカをはじめ日本では見られない生き物が多くみられる。 アルパカと並ぶ代表例の一つにリャマが挙げられる。 体高1mほどのラクダ科の動物であるリャマは、ペルーでは約110万頭が飼育されており、食用にもされるが、主に荷役用として1日に 50kgの荷を20km運ぶことができる。 アンデスの高地では牧民がリャマを飼育し輸送業を生業としており、15 世紀のインカ時代にはほぼ唯一の大量輸送手段であった。 税として納められたトウモロコシやジャガイモを倉庫に運び、軍需品を運ぶため数千頭ものリャマが戦場まで連れて行かれたのである。 しかし、昨今では自動車に押されて、その利用は盛んではないといわれている。 インカ道と呼ばれる当時の道路は、多くのリャマをはじめ旅人や軍隊が行き来していた。 かつてリャマがインカ帝国全域で飼育されていたように、インカ道も国土全域に張り巡らされていた。 その範囲は現在のペルーを含め6カ国に跨り、太平洋岸からアンデスの高地を越え、アマゾンの奥地にまで至る、延長5万kmの世界最大規模の道路網であった。  

場所によってその構造や形状は様々であり、街なかの細い路地から、砂漠を抜ける幅広の道路、急峻な山道に 至るまで多様な姿を見せている。 しかし現在、この道路網は一部を国道等として利用している箇所があるものの、一体的なネットワークとしてはその機能を失っている。 

世界遺産、カパック・ニャン

現在のペルー、ボリビア、エクア ドル等に跨って存在したインカ帝国は、数多くの遺構を残している。 幻の天空都市とも呼ばれるマチュピチュをはじめ、古都クスコなどが世界遺産に数多く登録されている。 インカ道は2014年にペルーで12 番目の世界遺産に選ばれており、王の道を意味し、かつての現地語であるケチュア語の呼称「カパック・ニャ ン(Qapaq Ñan)」で登録されている。 この道は用途に応じて「カパッ ク・ニャン(王の道)」「ハトゥン・ニャン(広い道)」「フチュイ・ニャン(狭い道)」「ルナ・ニャン(庶民の道)」 の4つに区分されていたと言われる。 世界遺産として登録されているカパック・ニャンはこれらの総称で、「広義」のカパック・ニャンである。 このランク分けは、幹線と枝線としての区分だけでなく、利用上も大きな意味を持っており、狭義のカパック・ニャンは、統治や軍事などの公用で主に利用される道であり、一般に広く利用できる道ではなかった。 王の道と呼ばれる由縁である。  

4つの地方を結ぶ十字のネットワーク

帝国の4つの地方は東がアンティスーユ、北西がチン チャイスーユ、南がコリャスーユ、西がクンティスーユと 呼ばれており、クスコを中心にカパック・ニャンがこの4つの地方からなる国土を十字に結んでいる。 日本の五 街道における日本橋のごとく、4本の道の起点(道路元標)はクスコのアルマス広場にあり、各地方の主要都市 を繋いでいた。 

カパック・ニャンは、広大な帝国を一つに束ね繋ぎとめる国土の軸であり、帝国の首都であったクスコからの命令を隅々に行きわたらせるためのネットワークであった。 「血管のように繋がっていた」とはクスコ 文化局の言だが、この道の役割を端的に表現している。 この道路網はすべてがインカ帝国時代に築かれたものではなく、それ以前の道路を吸収統合していったものである。 カパック・ニャンの成立時期は明確ではないが、インカ帝国は15世紀半ばに拡大をはじめ、1532年のスペイン侵略に至るまでの約1世紀が最盛期であり、その間に成立したものと考えられる。

チャスキ、タンボ、コルカ

この道路網には、その機能を果たすため様々な設備や仕組みが備わっていた。 例えばチャスキと呼ばれる公設の飛脚である。 情報を迅速にクスコに届けるためのシステムであり、5kmの 間隔をおいて道沿いに駅が設けられ、そこには常時2名の飛脚が駐在していた。 文字を持たないインカ帝国では、キープと呼ばれる紐の束が情報伝達に使われており、彼らはキープを次から次に引き継ぎ情報を伝えていた。 その速度は駅間を15分、時速20kmに達したとも言われている。 また、タンボと呼ばれる宿場が道沿い30km毎に設置され、皇帝の農地で収穫されたジャガイモなどを収蔵するコルカと呼ぶ倉庫を備え、旅人や兵士に物資を供給 していた。 

まっすぐな道と難所を越える技術

クスコ近郊の標高3600mに残っているカパック・ニャンの一つは、延長約800m、幅4~5mで現在は路面が草に覆われている。 その道は極めてまっすぐにクスコ市街にむかって伸びていることがわかる。 このまっすぐな線形はカパック・ニャンの特徴の一つとされている。 もちろん距離を考えれば道路は極力直線が望ましいが、地形上工事が困難で、急勾配で動きにくくなることもある。 古代の道路であるローマ街道や日本の律令時代の道路も同様に直線が多いと言われているが、これらに比べカパック・ニャンは特に直線性を保ちやすい環境にあった。 それはインカには車輪も馬もなかったことによる。 通行は人やリャマなどの駄獣に限られていたため、道路は勾配を気にせず直線で引くことができ、勾配は階段部分を含め40~80度 まで可能であったと言われている。 また道路の築造には、アンデスの急峻な地形を克服するために様々な技術が用いられた。 凸凹の多い斜面 では山肌を切り盛りして平坦にし、湿地帯を抜けるために周りを石で囲った上で路盤を嵩上げする手法などが用いられた。 橋も多く、狭い川を越える1枚岩の橋や大規模な谷間を抜ける縄で結った橋が造られた。 さらに多くの区間において、ぬかるみを防ぐ石畳舗装 や道路が崩壊しないよう排水溝が備えられていると、ともに、道路の両側に擁壁が設けられている点も特徴である。 擁壁は輸送に用いるリャマの群れが、はぐれたり、転落しないように整備されたものである。 1~2頭であれば問題はないが、数千頭ものリャマを同時に通行させようとした場合、輸送の安全性と確実性を保つためには必要だったのだろう。

マチュピチュのカパック・ニャン(ハトゥン・ニャン) インカの道路築造の技術がわかるのがマチュピチュ周辺である。 マチュピチュはウルバンバ川に三方を囲まれた急峻な丘の上の街であり、宗教都市であったと言われる。 クスコからアマゾン地方に抜ける場所に位置しており、ウルバンバ川はアマゾン川に合流し最終的に大西洋に注ぎ込む河川であるため、クスコからみると下流側にあたる。 マチュピチュには複数のカパック・ニャンが通り、現在、一部がマチュピチュに至るトレッキングコースとして旅行者に利用されている。 これらは広義のカパック・ニャンであり、ランクとしては狭義のカパック・ニャンの下のハトゥン・ニャンにあたる。 そのうちインカ橋と通称される箇所に至る一本は、まさに山の中腹の断崖絶壁に整備された道であり、一見するだけで当時の工事の厳しさを想像することができる。 この道では、基礎部分は自然の山肌を利用しており、自然石の上に加工した石材を積み上げて絶壁での道路空間を確保している。 この自然石と加工した石材を組み合わせる技法は、マチュピチュの遺跡の中やアンデネス(段々畑)でも使われており、インカの石加工の技術があってこその道であると言える。 この断崖の道は、山の中腹を同程度の高さで貫いて造られているため、山を上り下りして越えるよりもはるか に通行は容易だったはずである。 マチュピチュは山の上 につくられた都市であり、今では専用バスでつづら折りの山道を登らないと辿りつけない。 しかし山中に造られた街道から来る人は、街より高い位置にある入口から入ることになる。 往時の帝国の人々が見たマチュピチュは山の上に見上げる都市ではなく、カパック・ニャンから 眼下に見渡す都市だったのだ。 

カパック・ニャンのその後

インカ帝国を支えてきた広大な道路ネットワークも、 スペイン統治時代の文明の変化に抗しきれずその姿を変容させていった。 スペインは侵略の際にこの道路網を通行し、道々のコルカの物資を活用したが、征服後は そのシステムを引き継がず、チャスキやタンボなどのカパック・ニャンの持つシステムは帝国の崩壊とともに失われていったのである。 さらに車輪や馬の導入により、徒歩やリャマでの行き 来を前提としていたカパック・ニャンは利用できなくなっていった。 システム面でも交通手段でも利用に適さなく なった道路ネットワークは失われ、代わって新たに車輪や馬、そして自動車での移動を前提とした道路ネットワークがその役割を担うようになっていったのである。   

かつて重要な都市であったマチュピチュが幻の 都市となったのも、道路ネットワークの変化に取り残されたためではないだろうか。 現在でもマチュピチュにはクスコなど周辺の地域から自動車では行けず、アクセス手段はカパック・ニャンか20世紀に入ってから敷設された鉄道に限られている。  しかし世界遺産の登録以降、カパック・ニャンの復活に向けた取り組みが関係諸国により進められている。 それは道路の調査や補修、吊り橋の架け替えといった整備だけでなく、ファエーナと呼ばれる共同作業による道路の清掃活動やチャスキを模したレースの開催など、文化的な側面にも、積極的に取り組んでいる。 

道路をはじめとした人々の生活に関わりの深い土木遺産は、その背景としての歴史や伝統習慣も含めた、渾然一体の遺産なのだろう。 カパック・ニャンでもこのような取り組みにより、その価値を一層高めていくことは間違いない。 マチュピチュやクスコを訪れるなら、目の前の遺跡や景色だけでなく、ぜひ足元にも思いを馳せてみていただきたい。 

とありました。 このインカ帝国(タワンティン・スウユ・「四つの邦」)とインカ道と調べながら、古大陸にはない、重量200-300トンの石材の『切り出し・運搬方法・組み立て方法』を探ってみたいと思っています。

(記事投稿日:2022/08/19、#562)

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『世界の城郭・宮殿 26(ペルーのサクサイワマン城砦が凄い)』 『石造建築の中の、巨石の、驚異の切り出し方法・運搬方法の謎!』

2022-08-17 08:23:18 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭・宮殿 26(ペルーのサクサイワマン城砦が凄い)』

『石造建築の中の、巨石の、驚異の切り出し方法・運搬方法の謎!』 

 

サクサイワマン城砦の歴史は、インカ帝国の第9代皇帝パチャクティの命によって1438年以降に建設が開始され、約50年後(1488年)の第11代皇帝ワイナ・カパックの在位中に完成したとされる。 フランシスコ・ピサロをはじめとするスペイン人による征服で首都が陥落した後の1536年に行なわれたクスコ奪還戦では、マンコ・インカ・ユパンキ率いるインカ軍の拠点となった。

 

インカ帝国

1200年頃に興り,1532年スペイン人に征服された。 ケチュア語:タワンティン・スウユ(Tawantinsuyo)は、南アメリカのペルー、ボリビア、エクアドルを中心にケチュア族が築いた帝国。 文字を持たない社会・文明で、首都はクスコ。

 

このサクサイワマン城砦は、スペイン人による征服で首都が陥落した後の1536年に行なわれたクスコ奪還戦には使われたが、スペイン人による征服に備えて築城されたのではなかったようにも思われる。

 

サクサイワマン城砦を『①縄張り、②普請、③作事』、に①縄張りは、実際の攻城戦から調べてみましたが、インカには文字のなかったこともあり、かつ、スペインの侵略以外は、平和で戦争もなかったようで記録はりませんでした。

 

サクサイワマン城砦の縄張り・堅城(神殿よりは、詰めの城)

ウエブ情報から引用

インカ帝国の首都であったクスコの北2kmのところにある丘の上に残された巨大な石で作られた城砦跡がサクサイワマンです。 広さは、3,000ha(30平方㎞)、小田原城・大阪城より数倍も大きく、因みに江戸城総構えは、8,000ha(80平方㎞)南京城に次いで世界で第二位よりは小さい。

 

 

サクサイワマン城砦の普請・城壁(想像以上に戦いに備えた築城)

ウエブ情報から引用 

 

ウエブ情報から引用

ウエブ情報から引用

スペイン人がやって来た時には城砦として使われていましたが、近年ではここは城砦というよりもっぱら儀式に使われていた宗教施設であったのではないかと言われています。 クスコ市街を見下す丘の上に、巨石で構築された城砦跡。 3層からなる石垣は22回のジグザグを描きながら360mも続き、中には推定200トン以上の巨石もある。 城壁は高さ20ⅿ以上もあった。 後方(南東)のクスコ市街とサクサイワマン城砦の標高差は約300ⅿもあり山城です。

巨石は切出し、運搬され、積み上げれれた。

ウエブ情報から引用

 

余談ですが、巨石と運搬方法です。

  • 4500年前の大ピラミッドの王の間の天井石、約60トン、丸太滑車と逆レールの橇
  • 700年前のサクサイワマン城壁の巨石、200-300トン、『運搬方法不明』
  • 600年前大阪城の城壁の蛸石、約108トン、横丸太上に橇(修羅)

古代・中世では、巨石運搬は最大100トン前後までだったようです。

 

サクサイワマン城砦の作事・逆さ岩

すべてスペインに破壊か転用されたのか、もともと石造城壁でだけであったのかは今後の調査課題ですが、写真からはこの砦は神事目的もあったようです。

ウエブ情報から引用

比較的新しい数百年前の中世の中南米の鉄器なしでの石造建築技術(切出し・加工・運搬)は理解できないほど凄い、特に、ハンマー石で、隙間なしで面を合わせる加工技術が凄い。 特に巨石材の面合わせ加工は『人間わざ』ではなく『宇宙人わざ』思いたくなります。

(記事投稿日:2022/08/17、#561)

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『山は美しい 12(榛名山はひとつの山体の総称で、同名の山は存在せず)』 『榛名湖はアイススケートの印象が強く女性的、榛名山も同様?』

2022-08-14 21:08:32 | 山・山岳

『山は美しい 12(榛名山はひとつの山体の総称で、同名の山は存在せず)

『榛名湖はアイススケートの印象が強く女性的、榛名山も同様?』 

『雪山だ、岩だ』と空意地ばかり張っていた駆け出し山男でしたが、長い海外駐在を命ぜられ、3カ国で延べ20年余になりました。 駐在先は、山らしい山などほとんどない、香港・パナマ・シンガポールでした。 欧州に駐在している仲間を羨ましく思いながら、それでも九十九里海岸の東北端の飯岡の土用波で鍛えていましたので、山はあきらめ代わりに海のスポーツを堪能できました。 

長い駐在を終えて、日本に落ち着いたときは、まさに『今浦島太郎』で『雪山だ、岩だ』は『夢のまた夢』でした。 暫くは標高度計付き腕時計をつけ『下手な横好き』のカメラをぶら提げて、近場の丘・低山を歩きました。  

その内に、良き時代に生まれましたことに気が付きました。 体力的に登山は無理ですが、今は、グーグルマップ(標高表示・航空写真・赤色立体地図)と国土地理院地図がありますので、地図上の登山が簡単にできます。 今回の榛名山は、傘寿爺でも榛名湖界隈は散策できそうですので楽しみです。

榛名山

関東地方の北部の群馬県にある上毛三山(赤城山(1828m),榛名山(1449m),妙義山(1104m)の 3名山の総称)の一つであり、古来山岳信仰を受けてきた山で、山の南西麓に榛名神社が祀られている。 

東側の箱田城(渋川市北橘町)より望む榛名山群

ウキペデイア情報から引用

  

榛名山群山頂部地形図

ウキペデイア情報から引用

 

榛名湖と榛名富士

ウキペデイア情報から引用

 

榛名山カルデラ付近の空中写真

ウキペデイア情報から引用

 

山頂にはカルデラ湖である榛名湖と中央火口丘の榛名富士溶岩ドーム(標高1,390.3 m)があり、 495年頃と約30年後に大きな噴火をしたと見られている。中央のカルデラと榛名富士を中心に、

  • 最高峰の掃部ヶ岳(標高1,449 m)、
  • 天目山(1,303 m)、
  • 相馬山、尖った峰(1,411 m)、
  • 二ッ岳(1,344 m)、
  • 烏帽子岳、典型的な溶岩円頂丘(1,363 m)、
  • 鬢櫛山(1,350 m)などが囲み、更に外側にも
  • 水沢山(浅間山 1,194 m)、
  • 鷹ノ巣山(956 m)、
  • 三ッ峰山(1,315 m)、
  • 杏が岳(1,292 m)、
  • 古賀良山(982 m)、
  • 五万石(1,060 m)

など数多くの側火山があり、非常に多くの峰をもつ複雑な山容・山群です。

このように素晴らしい榛名山群を『縦走』ならぬ『回走』し損なった、側火山・外輪山群は、傘寿には遠い!

(記事投稿日2022/08/14、#560)

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『歩くことは考えること、「小さな村の物語 イタリア」の中の老婦人の一言』 『日本のテレビ番組は、お笑い・哄笑、怒鳴り・悲憤慷慨オンパレード』

2022-08-13 16:29:54 | 健康

『歩くことは考えること、「小さな村の物語 イタリア」の中の老婦人の一言』

『日本のテレビ番組は、お笑い・哄笑、怒鳴り・悲憤慷慨オンパレード』 

いつも女房殿に付き合わされて、見ているこの番組ですが、今の日本と比較してため息が出ることが多くなりました。

 

ウエブ情報から引用

先日は、物語の中で、ある老婦人の一言『歩くことは考えること』が印象的でした。  

今までは、自分は、次のような理屈先行の散歩をしていましたが、散歩途上時々『考えること』がありましたので、『歩くことは考えること』が十分思い当たりました。 先行した理屈は、『足全体が第二の心臓と言われています。 静脈には逆流を防止するための弁(静脈弁)がついていて、血液が一方向にしか流れないようになっている。 そして、足を動かしたときに筋肉が静脈を圧迫し、血液が上に押し上げられる。 下肢静脈の太さ、直径15-25㎜にも驚き。 この理屈で、立ち続けは、あまりよくないことが分かります。  散歩中に、静脈弁の動きが想像出来るようになれば、「しめしめ」です。  「散歩」・「歩くこと自体がやめられない」ということになります。 下肢静脈瘤の予防と治療に有効です。 また、膝関節症にも適度の散歩が有効です。 膝の関節液から関節軟骨に、特に酸素と、栄養が、散歩中に関節軟骨に行き渡っていると、すぐに、感じるようになります。』 

さらにウエブ情報には次のようにありました。

『人類にとって「歩く」とは、「足を片方ずつ交互に出して前方に進むこと」ですが、実はとても高度な技なのです。歩いている間、私たちのカラダの中では、めまぐるしいやりとりが交わされています。脳は五感からフィードバックを受け続け、筋肉や関節を動かす神経系に指令を出し続けます。そしてたくさんの筋肉と関節が動き、バランスをとり、まわりの状況に応じて判断していきます。 

「歩く」「階段を上がる」など、普段の「歩く」からはカロリー消費、メタボ対策などを連想しますが、歩くことを習慣づけると、足腰に筋力がつき、また骨に適度な刺激が与えられて骨密度の維持やアップも期待できます。血液の循環もよくなって、脳が活性化するというのもうれしいですね。いつもと違う道を歩いてみたり、あえて回り道をしてみたりすれば、あらたな発見にも出会えて、さらなる脳の活性化が望めます。歩く生活は、カラダ全体によい効果をもたらしてくれるのですね。 

歩くことによる効果を得るためには、「歩数」「時間」に加えて大切なポイントがあることが研究でわかってきました。まず一つ目は「速度」。速い方では1kmあたり約7分で歩けるという方もいます。その方達は、より健康的に70代を迎えられた、という研究結果も。腕を後ろに大きく引き、いつもより10cm広い歩幅で歩くことを心がけると、速度が上がりやすくなります。もうひとつは「バランス」です。足のつま先の向きや手の振り方が左右で違ったり、片側に負荷がかかったりしないよう、できるだけ左右均等に歩くことを意識してみてください。姿勢をよくするとのびのび歩けますよ。 

「今日は歩くことが多そうだな」という日は、いくつか工夫をしてみましょう。まずは、「関節の自由が確保できる服を着ること」。腕を振りやすく、歩幅も大きくとれるので、カラダへの負荷が少なく歩くことができます。次に「ヒールの低い、歩きやすい靴を選ぶこと」。足の指がしっかり曲げ伸ばしできる靴で歩きましょう。そして「カラダの片側に負担をかけないこと」。荷物は左右交互で持ち替えるか、リュックにすることをオススメします。また普段の外出でも「水分補給を意識すること」が大切です。運動として「ウォーキング」する場合は、特にこまめに水分を摂り、長時間歩く場合には休憩地点を決めておきましょう。その日のご自身の体調に合わせて歩き、心臓や関節などに痛みや違和感を感じたら、専門家の診察を受けてください。』

まさに、人間は『二本足歩行』を始めた時から、それを止めたら倒れ・寝込むという『自転車操業』になりました。 これからもずっと、歩け歩けで頑張ります。

(記事投稿日2022/08/13、#559)

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