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知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『帆船日本丸(初代)「総帆展帆」於旧横浜船渠第1号ドック、天気には恵まれたが、周囲が高層ビルでは帆船の撮影は難しい!』

2025-05-02 07:48:58 | 写真

『帆船日本丸(初代)「総帆展帆」於旧横浜船渠第1号ドック、天気には恵まれたが、周囲が高層ビルでは帆船の撮影は難しい!』

『港町「香港・パナマ・シンガポール」に通算22年間も駐在「船」を年がら年中、終日(ひねもす)眺めては、そこで脳裏をかすめたのが、夢と希望の帆船!』

先日(2025/4/29) 日本丸「総帆展帆」の写真撮影に行ってきました。

風速・数メートルの微風でも、帆柱も船体もここまで傾く!
帆を張ったら帆船は走るもの!

 2025/04/30撮影

高層ビル群に封じ込められた帆船!
帆を張ったら帆船は洋上にあるもの!

 2025/04/29撮影

数年前に写真撮影を試みましたが超高層ビル群が周囲に林立していますので、構図に悩んだ記憶がありました。今回も天気には恵まれたのですがやはりロケハンに終わりました。次回に満を持します。

総帆展帆(そうはんてんぱん)とは(ホームページから抜粋引用
全ての帆を広げることをいいます(普段はたたんでいます)。現在の日本丸の帆(セイル)は全部で29枚あります。総帆展帆はすべて手作業で行われます。
作業は訓練を終えて登録されているボランティアの方々の協力で行っています。約2,000人あまりの方が登録されていますが、総帆展帆の時はその中から毎回80人ほどのボランティアの方々に参加いただいております。
※総帆展帆の作業を行う「展帆(てんぱん)ボランティアの養成訓練」を年2回(4月・10月)に行っています。募集はそれぞれ2月頃、8月頃に行います。

日本丸(初代)(ウエブ情報から抜粋引用
日本丸(初代)は、航海練習船で4檣(しょう)バーク型の大型練習帆船。

1930/1/27、兵庫県神戸市の川崎造船所で進水。その美しい姿から、「太平洋の白鳥」や「海の貴婦人」などと呼ばれていた。日本丸は約半世紀にわたり活躍し、1984年に引退。航海練習船としての役割は日本丸II世が引き継いだ。姉妹船として海王丸がある。201年9月に国の重要文化財に指定された。

現在、横浜市西区みなとみらいの「日本丸メモリアルパーク」内の展示ドック(旧横浜船渠第一号船渠〈ドック〉、国の重要文化財)で展示・公開されている。

概要
昭和初期において日本の商船教育機関には、官立商船学校が2校(東京と神戸)、公立商船学校が11校あった。このうち公立商船学校で練習船を保有していたのは5校のみ。

設計は、当時の日本に西洋式帆船の技術的な蓄積が無かったため、スコットランドのラメージ・エンド・ファーガソン(英語版)、建造は神戸の川崎造船所が担当した。1930/1/27に進水した第1船は「日本丸」、1930/2/14に進水した第2船は「海王丸」と名付けられた。

太平洋戦争下、1943年に他の練習船とともに京浜地区の造船所で帆装艤装が撤去され、瀬戸内海航路の緊急物資輸送(若松港から尼崎港への石炭輸送)に従事し、一回に650トン程度の石炭を輸送した。

戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の管理下に置かれ、SCJAP(Shipping Control Authority for Japanese Merchant Marine)ナンバーが付され、指令に基づく航海を通して訓練航海が実施されることになった。

1951年のサンフランシスコ講和条約後、1952年4月に遠洋航海を再開するに当たり、1953年1月から南方八島(南鳥島、サイパン島、テニアン島、グアム島など)への遺骨収集航海を閣議了解の下で実施した。

1974年以降は船体の老朽化に伴い遠洋航海の規模を縮小したものの、1970年代後半に2度の大規模航海を行った。その一つが1976年の「アメリカ建国200年祭」への参加(記念行事「オペレーション・セール」に参。もう一つが1978年)のカナダ・キャプテンクック 200年祭(太平洋横断最終航海)への参加。

1984/9/16に日本丸II世と交代し、1984/9/17に船籍港を横浜に移した。退役までに約183万kmを航海し、約11,500名の実習生を育てた。海洋練習船としての役割は後継の日本丸II世(現:日本丸)が受け継いだ。1985年から横浜市の所有となり、同市西区みなとみらいの「日本丸メモリアルパーク」内の展示ドックで展示・公開が開始された。
日本丸展示ドックに係留保存された後も、船舶安全法に基づく定期検査を毎年受検しており、平水区域を航行区域とする船舶として船舶検査証明書が交付されている。

日本丸の主要目

建造時
用途廃止時
総トン数
2,283 頓 98
2257.72トン
排水トン数
4,043 頓
4043.00トン
全長
318 ft 41
97.05m
垂線間長
260 ft 00
79.25m
42 ft 50
12.95m
深さ
25 ft 75
7.85m
帆装
4檣バーク型
機関
ディーゼル
出力
600×2HP
速力(機走)
11節4
10.0ノット
定員
186名
196名
ウエブ情報から引用

表題の繰り返しですが、『港町「香港・パナマ・シンガポール」に通算22年間も駐在「船」を年がら年中、終日(ひねもす)眺めては、そこで脳裏をかすめたのが、夢と希望の帆船!』、でした。

最近見つけた本が大杉勇著「帆船讃歌 雲と波そして風 海に学ぶ」です。
冒頭にありました。
『「雲と波そして風 海に学ぶ」何を学んだのか?
10余年を練習帆船日本丸・海王丸で過ごしてきた著者が贈る16編のオマージュ。
『一言でいえば、シーマンシップ。「シーマンシップの教育には帆船に勝る場はない」ということです。帆船には「帆の教化力」があるのです。わずか半年間で若者たちからその潜在能力をフルに抽きだす力をもっているのです。そのことは、遠洋航海を修了し、下船してゆく彼らの眼の輝きを見ればわかります。日本丸や海王丸が遠洋航海から戻ると、我が子を一目見た両親は、思わず「逞しくなった!」というのです。その意味での「帆船讃歌」を綴ったものを、時には実習生自身の手記も引用してここにとりまとめてみました(本書より)。』

と、ありました。 まだまだ、これからも、帆船を『本の上』ではありますが。尋ね調べてみたいと思っています。
(記事投稿日:2025/04/30、#999)

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『万博・EXPOが来れば思い出すのは「アトミウム(1958年ブリュッセル万博」と、「太陽の塔(1970年大阪万博)」)』

2025-04-27 09:16:46 | 写真

『万博・EXPOが来れば思い出すのは「アトミウム(1958年ブリュッセル万博」と、「太陽の塔(1970年大阪万博)」)』

『この二つとの比較は、この度の「大屋根リング(2025年大阪関西万博)は「多様でありながら、ひとつ」という会場デザインの理念を表す」と!』

『国際博、万国博、万博(ばんぱく)などと呼ばれ、最近は万博に落ち着く、英語ではEXPO(エクスポ)一本、日本語の凄さがここにも!』

『これからも万博・EXPOの歴代代表モニュメントの「その後」を探し、「モニュメントのその後」の備忘録作成を!』

この度、EXPO2025が無事に開催(2025/04/13)されました。 そんな中で、昨今の世界のリーダーの方々の、特に三大国の、人道・平等・博愛など少しも感じない発言には、理解がついていけないほどのショックを受けています。 EXPO2025のテーマ・サブテーマ・コンセプトを見ながら、しみじみと考えこみます。

テーマ;いのち輝く未来社会のデザイン
Designing Future Society for Our Lives

サブテーマ;Saving Lives(いのちを救う)
Empowering Lives(いのちに力を与える)  
Connecting Lives(いのちをつなぐ)

コンセプト -People’s Living Lab –

未来社会の実験場
1.展示をみるだけでなく、世界80億人がアイデアを交換し、
未来社会を「共創」(co-create)。
2.万博開催前から、世界中の課題やソリューションを共有できるオンラインプラットフォームを立ち上げ。
3.人類共通の課題解決に向け、先端技術など世界の英知を集め、
新たなアイデアを創造・発信する場に。

開催期間
2025年4月13日(日) – 10月13日(月)184日間

開催場所
大阪 夢洲(ゆめしま)


国際博覧会条約によれば、「博覧会とは、名称のいかんを問わず、公衆の教育を主たる目的とする催しであって、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは二以上の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう」とされています。

万博・EXPOが来れば思い出すのは、先ずはこの二つ、アトミウム(1958年ブリュッセル万博)と、太陽の塔(1970年大阪万博)です。

アトミウム(1958年ブリュッセル万国博覧会)
 
ウエブ情報から引用
アトミウム(Atomium)は、1958年のブリュッセル万国博覧会のために建設されたモニュメントで、現在もブリュッセル北西の万博会場跡地・エゼル公園(Heysel)に建つ。

高さは103mで、鉄の結晶構造(体心立方格子構造)を1650億倍に拡大したものである。アトミウムの形状は、一つの頂点を底にして斜めに倒された立方体になっている。 9つの球体(直径18m)が原子をあらわし、各頂点に位置する8つの球体を結ぶ12の辺と、中心の球体から各頂点へ伸びる8つの軸は鋼鉄のチューブでつながれている。

チューブの中には最長35mのヨーロッパ有数の長さのエスカレータが通り、各球体を結んでいる。最上部の球体は展望レストランになっており、ブリュッセル市街を一望の下に見渡せる。 他の球体では1950年代を振り返る展示が行われている。 球体のうち、上のほうにある3つは垂直の支えがないため、安全上の理由から一般には公開されていない。


アトミウム
歴史
アトミウムは万博のシンボルとして、ベルギーの技術力のシンボルとして企画され、金属工学技師・建築家であったアンドレ・ワーテルケイン(フランス語版)によって設計された。当初はエッフェル塔を逆さにした形状の塔を建てるアイデアもあったが、原子構造のほうがより今の時代にふさわしいとワーテルケインは考えた。

アトミウムは万博の期間中人気を博し、結局閉会後も保存されることになった。

アトミウムの球体表面のアルミニウム板が劣化したため、2004年3月からアルミをステンレス鋼板に張り替える大工事が行われた。修復費用を支えるために古いアルミ板(各々、2m近い大きさの三角形)が1000ユーロで一般に記念品として売り出された。2004年10月に一旦閉鎖し内装や展示なども一新され、2006年2月18日に再びオープンした。新しいアトミウムは子供のための宿泊施設「キッズ・スフェア・ホテル」も備えている。

周辺
アトミウムは小便小僧に匹敵するブリュッセルのシンボルとして親しまれている。アトミウム周辺のエゼル公園にはサッカーや陸上競技が行われるボードゥアン国王競技場やミニチュアパーク「ミニヨーロッパ」がある。

太陽の塔(1970年大阪万国博覧会)

ウエブ情報から引用


 ウエブ情報から引用

芸術家の岡本太郎が制作した芸術作品であり建造物。 岡本太郎の代表作として同時期に制作された『明日の神話』とで双璧をなす。1970年に大阪府吹田市で開催された日本万国博覧会(EXPO'70・大阪万博)のテーマ館の一部として建造され、万博終了後も引き続き万博記念公園に残された。 2018年度グッドデザイン賞受賞。 2020年に国の登録有形文化財に登録された。

今回、ギネス世界記録™に世界最大の木造建築物として認定された
大屋根リング(2025年大阪関西万国博覧会)ですが、どのように歴史の中に残されていくのでしょうか。

 ウエブ情報から引用

日本の神社仏閣などの建築に使用されてきた伝統的な貫(ぬき)接合に、現代の工法を加えて建築しており、大阪・関西万博会場の主動線として円滑な交通空間であると同時に、雨風、日差し等を遮る快適な滞留空間として利用されます。
また、大屋根リングの屋上からは会場全体をさまざまな場所から見渡すことができ、リングの外に目を向ければ、瀬戸内海の豊かな自然や夕陽を浴びた光景、大阪の街並みなど、海と空に囲まれた万博会場の魅力を楽しむことができます。

・建築面積:61,035.55㎡
・内径:約615m 外径:約675m
・全周:約2km
・幅:約30m
・高さ:約12m(外側約20m) ※来場者が歩くことができるスカイウォークの高さ
・使用木材:国産木材7割(スギ、ヒノキ)、外国産木材3割(オウシュウアカマツ)

未曾有の困難な時代に、突入しつつありますが、国際博、万国博、万博(ばんぱく)と呼ばれる、『人類の活動の達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すもの』、EXPOの開催を機会に少しは、より住みやすい地球にできるよう皆で期待しております。
(記事投稿日:2025/04/25、#998)
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『写真は「一期一会」とか「TPO・テーピーオー」と言うけど! 14』 『不思議な形の素晴らしい夕日を背景にしたヒガンバナ・曼殊沙華』

2024-12-05 21:31:13 | 写真
『写真は「一期一会」とか「TPO・テーピーオー」と言うけど! 14』

『不思議な形の素晴らしい夕日を背景にしたヒガンバナ・曼殊沙華』

この花の異名は沢山、「葬式花、墓花、死人花、地獄花、幽霊花、火事 花、
 蛇花、剃刀花、狐花、捨て子花、灯籠花、天蓋花」等となぜ、これからの
 調査課題! 中国では「曼殊沙華」のみ、日本と日本文化・日本語は不思議!

『この写真では、花の6本のおしべと1本のめしべの区別はつかず!』

茨城県利根町の栄橋付近の堤防のヒガンバナを1000㎜反射式レンズで、撮ったものです。 この『くびれた夕日』は、夕日にフォーカスを合わせていたものを、手前のヒガンバナに焦点を戻したときに、夕日にかかった横一線の細い雲が影響した偶然の結果でした。 これは『一期一会』よりは、レンズの構造のなせる業でしょうか。


ヒガンバナ(彼岸花、石蒜)は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草で、別名は曼珠沙華(マンジュシャゲ)。 原産地は中国大陸で、日本では帰化植物に分類。分布は日本全国、秋の彼岸(9月)の頃に、花茎の先に強く反り返った鮮やかな赤い花を咲かせ、秋の終わりに葉が伸びて翌年の初夏に枯れるという、多年草としては珍しい性質を持っている。 地下の鱗茎(球根)に強い毒性を有する有毒植物であるが、かつて救荒植物(きゅうこうしょくぶつ)として鱗茎のデンプンを毒抜きして食べられていた。
救荒作物
飢饉、戦争その他で食料が不足した時に、その不足をしのぐために間に合わせに食料(救荒食)として利用される植物

この花の異名、
『日本では各地方のみで通じた異名が派生し、別名・地方名・方言は数百から1000種以上あると言われている。「葬式花、墓花、死人花、地獄花、幽霊花、火事花、蛇花、剃刀花、狐花、捨て子花、灯籠花、天蓋花」などがその例で、不吉な別名が多く見られる。 それに加え、開花時に葉が無く花と葉を同時に見られないため、葉見ず花見ずの別称も有する。』 

この花の原産地は、漢字の国・中国ですが、日本では、これほど多くの呼び名が付きました。 表意文字・漢字と、ひらがな、カタカナ、ローマ字を使いこなす日本は凄いと思います。

昔は、この花の異名の一部を聞いていましたので、良い印象は持っておりませんでしたが、最近は、この花・ヒガンバナ・曼殊沙華を、被写体で見るようになって大きくイメージが変わりました。 
(記事投稿日:2023/12/05、最終更新日:2024/12/05、#705)



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『来た、見た、分かった 7(御宿の月の沙漠、終日最高の被写体)』 『太陽を撮るのは、いつでも夕景を、今後は改め、朝の風景も狙う』

2024-03-05 10:30:03 | 写真
『来た、見た、分かった 7 御宿の月の沙漠、終日最高の被写体』
『太陽を撮るのは、いつでも夕景を、今後は改め、朝の風景も狙う』
『思い出すのは、童謡「月の沙漠」1923年は、佐々木すぐるが作曲し、柳井 はるみ歌唱でレコード化「月の沙漠記念像」は1990年(初代1969年)完成』

表題に、名言『来た、見た、勝った』(古典ラテン語:Veni, vidi, vici)を真似させて頂きました。 共和制ローマの将軍・政治家のユリウス・カエサルが、ゼラの戦いの勝利を、ローマにいるガイウス・マティウスに知らせた有名な言葉です。 今回は『来た、見た、分かった 7(御宿の月の沙漠、終日最高の被写体)』です。

二十年も昔のことですが、友人から頂いた定年退職の挨拶状の写真が、この『月の沙漠記念像』の風景でした。 その強烈な印象を忘れずに今日まで覚えていましたが、今日まで十数回、一泊旅行で勝浦の保養所に行っておりましたが、もったいないことに、ここ『月の沙漠記念像』撮影には往かず仕舞いでした。
これからは勝浦に泊まる機会があったら、ぜひ『御宿の月の沙漠、終日最高の被写体)、太陽を撮るのは、いつでも夕景でしたが、今後は改め、朝の風景も狙う』ことを徹底したいと思いました。

月の沙漠記念像にカイト凧が舞う
カイト凧を操縦する方が最高のチャンス数分間与えてくれました。 結果的には2~3分間でしたが、撮影中は、その時間を全く想像できず、夢中になって目まぐるしく回転するカイト凧を撮りました。



20240303撮影  

月の沙漠記念館は1990年7月8日にオープン。 1階は企画展示室と売店、2階に「加藤まさを」展示室です。 展示室には御宿の海岸がモデルとなっている童謡『月の沙漠』をはじめとする加藤まさをのさまざまな作品、遺品が展示されています。

今もなお、歌い継がれている「月の沙漠」
童謡「月の沙漠」は、佐々木すぐるが作曲し、柳井はるみ歌唱でレコード化され、今もなお、多くの歌い手に歌い継がれています。 また、「加藤まさを」は岩和田小学校(2007年3月閉校し御宿小学校と統合)の校歌も作詞・作曲しているそうです。

1階の企画展示室では、企画展やイベントが開催
御宿にゆかりを持つ画家や文人たちの企画展や「おんじゅくまちかどつるし雛めぐり」等のイベントが企画、開催されています。 

月の沙漠記念館の目の前には月の沙漠記念像
月の沙漠記念館の目の前には月の沙漠記念公園があり、そこには月の沙漠記念像もあります。

御宿町観光協会公式サイトより引用

朝焼け


砂紋


夕焼け

このメルヘンティックな砂漠の風景は、十数年間、脳裏にやきつぃていたもので、『感激もひとしお(一入・一塩)』でした。
(記事投稿日:2024/03/05、#732)
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『来た、見た、分かった 6(勝浦のひな祭り・日本文化は凄い)』 『圧巻は、遠見岬神社の石段60段に並ぶ約1,800体のひな人形だ!』

2024-03-04 23:08:13 | 写真
『来た、見た、分かった 6(勝浦のひな祭り・日本文化は凄い)』
『圧巻は、遠見岬神社の石段60段に並ぶ約1,800体のひな人形だ!』

表題に、名言『来た、見た、勝った』(古典ラテン語:Veni, vidi, vici)を真似させて頂きました。 共和制ローマの将軍・政治家のユリウス・カエサルが、ゼラの戦いの勝利を、ローマにいるガイウス・マティウスに知らせた有名な言葉です。 今回は『来た、見た、分かった 6(勝浦のひな祭り・日本文化は凄い)』です。

傘寿プラスが、はじめて見ました凄いスケールの雛さま飾りの、『かつうらビッグひな祭り』ですが、全国から寄贈されたひな人形が勝浦市内に飾られる、ひな祭りシーズンの盛大なイベントです。 かなり想像を超えた難しい寄贈もあるようで、ご苦労も多いと察します。 

勝浦中央商店街をはじめ墨名交差点に約1,000体、覚翁寺(かくおうじ)に約600体など、随所に飾られた沢山のひな人形が町じゅうを春の雰囲気に彩ります。
 
 20240303撮影
なかでも圧巻の光景は、遠見岬(とみさき)神社の石段60段に並ぶ約1,800体のひな人形。 一つひとつは可憐ながら、その数は迫力満点!ここまでたくさんのひな人形を一度に見られる機会は、そうそうないでしょう。 夕暮れ時からはライトアップも行われ、昼とは違った幻想的な雰囲気が楽しめます。

20240303撮影

日本最大級の「享保風雛(きょうほふうびな )」や東西での違いなど、ひな人形文化の奥深さに感銘を受ける展示が勢揃い。 中には「三歌人付き」や「鶴亀雛」など、あまり出回らない貴重なものもあります。 それぞれの家庭で子どもの健やかな成長を見守ってきたひな人形。今は勝浦の春の風物詩として、多くの人々の目を楽しませています。

この度は、維持され続ける日本の文化のすばらしさを再認識しました。
(記事投稿日:2024/03/04、#731)
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