今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

赤間神宮(山口県下関市阿弥陀寺町)

2018年01月25日 | 神社・仏閣
赤間神宮
壇ノ浦の戦いにおいて幼くして亡くなった安徳天皇を祀る

石造鳥居
額には「赤間神宮」



正面に「水天門」、左側に「太鼓楼」



石段を上がる。中国人の団体がいたので静かな場所に移動する



安徳天皇御陵
壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は現場付近では発見できなかった
赤間関(下関)に建久2年(1191年)、勅命により御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させた



安徳天皇と二位の尼(下関市立歴史博物館展示)
8歳の安徳天皇は「私をどこに連れて行くのですか」と尋ねる
尼(平清盛の妻時子)は、「海の底にも都がある」と幼い天皇を慰め入水した



伊藤博文・陸奥宗光像
日清講和会議において日本側の全権を務めた伊藤内閣総理大臣、陸奥外務大臣の胸像



昔の政治家には威厳を感じる



日清講和記念館



李鴻章道
講和会議のとき清国全権大使「李鴻章」が危難を避けるためにこの道を使用した。



水天門
神門は竜宮城を模した竜宮造の楼門
「水天」の名称は安徳天皇が水天宮の祭神とされることによる



太鼓楼



手水舎






大安殿



境内図によると大安殿となっている。内側に「内拝殿」があり「祝詞殿」「神殿」へと続く









芳一堂
「耳なし芳一」を祀り、芳一の木像を安置する






平家一門の墓



壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓(供養塔)



14名の供養塔が並び、名前に「盛」字の付く者が多いことから「七盛塚」とも称する






高浜虚子歌碑
「七盛の 墓包み降る 椎の露」



鎮守八幡宮






水天宮を通り駐車場へ戻る



駐車場から



何の像か解らなかったが土台に平家物語が…



祗園精舎の鐘の声  諸行無常の響きあり  娑羅双樹の花の色  盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず  唯春の夜の夢のごとし たけき者も遂にはほろびぬ  偏に風の前の塵に同じ



朝鮮通信使上陸港留之地






目の前に関門橋。高所恐怖症なので関門トンネルで九州に入ろうと考えた



撮影 平成29年10月5日

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4 コメント

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すべてが美しいです (@ OTETSUDAI)
2018-01-26 20:44:11
どの写真も(いつもですが)美しいです。赤間神宮の景観は素晴らしいと思います。
耳なし法一の像…何ともいえない表情に感無量です。私事になりますが、我が家のネコ、元々は裏のアパートの人が飼っていた猫で、可愛いので近所の人が皆飼おうと餌をやりましたが食べたら逃げて子を孕み…やがて我が家に子猫と共に居着きました。片方の耳を手術して取りました。私はドラえもんよりも耳なし芳一を思い浮かべていました。
八咫鏡…現役時代を想い出します。体力章検定で八咫鏡をデッサンしたバッジを合格者に渡したことを…
今日は「認知機能検査」に朝早くから行って来ました。一つには、今日の日付を書くこと。次には4×4の画像を見せて、ペーパーに全てを記すと。私は半分しか分かりませんでした。最初の1枚の解説が長いので、それが出ると思ったら計4枚。次にはヒントが有りその画像の名前を書く。最後は時計を書いて指定された時間を針で記すと…出来なかったです。「これは認知症のテストでは有りません」いいつつも最後に「点数が低かったら指定された医療機関で認知症の判断を仰ぐ」と。じゃあ認知症か否かのテストじゃないかと。隣の人は「質問が意地悪だ」と口答えをしていました。結果は三週間後に手紙で来て、出来高で2~3時間の講習を受けて免許証の更新にあたると。私は4~5月に免許証の更新時です。三年後にはまたこのテストがあるとか(OKなら)。この夏は北海道旅行をと思っていましたが、それ以前の問題です。
教習所のバスで送迎してくれましたが、まだ道の両端には雪が凍り付いています。来週辺りまた雪とか…北海道の除雪対策、特に札幌は素晴らしいと思います。確か○○百万予算化されているとか…単位が違いましたか。
あの橋は私も渡ってみたいです。ありがとうございました。
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芳一堂は印象に残っています (2014kurumatabi)
2018-01-26 23:34:19
いつもありがとうございます。
赤間神宮は初めてで歴史的背景も知らずに訪れました。
昔は阿弥陀寺でしたが、廃仏毀釈で赤間神宮になったようです。この場所は阿弥陀町という住所になっていますので、昔の名残が残っています。
現在は下関になっていますが、当時は赤間の関という地名だったようです。
安徳天皇はお亡くなりになりましたが、建礼門院は助けられ、後に京都大原の寂光院に隠遁されていたことを、数年前に寺を訪れた時に知りました。下関から京都まで長い道のりを何を考えていたのでしょうか。
耳なし芳一の話しは昔から知っていましたが、お堂まであるとは知りませんでした。
認知症のテスト、問題ないはずですので北海道旅行にきてください。お待ちしています。
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耳なし芳一 (もののはじめのiina)
2018-02-06 11:47:09
赤間神宮を訪ねた日が、琵琶供養祭で「耳なし芳一」の弾き語りを聴かせていただきました。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/566789f082267213fc7a1a17bd5028a4

下関で、河豚をたらふく食べたいものです。^^

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物語を理解することができました (2014kurumatabi)
2018-02-06 14:57:20
もののはじめのiinaさんコメントありがとうございます。
赤間神宮は「最寄りの観光地」で検索し、初めて訪れた場所で、芳一堂の存在もまったく知りませんでした。
「耳なし芳一」の話しも一部分のみ知っていただけで、貼っていただいたアドレスの内容により、詳細を理解することができました。感謝いたします。
琵琶を弾いていた場所が、この墓の前とは驚きです。知っていればまた違った写真になっていたのかも知れません。
赤間神宮を訪れた日が供養祭とは「偶然以外のもの」を感じます。いつになるか解りませんが、私も機会があったらまた訪れてみたいと強く思いました。刺激を与えていただきありがとうございました。
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