だれでも安らかに死にたいだろう。
さっきブログ「みゆきな日々」を読ませてもらっていると、その中に、「快楽さえ感じる? 最も苦しまない『穏やかな死に方』とは」というのがあって、読ませてもらった。
それによると、穏やかな死を迎えたければ、老衰することなのだそう。
ただ老衰するだけでなく、大病にならずに年をとることが肝要らしい。
死期が近づいたら、自然に食欲がなくなって苦しまずに、というより、脳内麻薬で気持ちよく死ねるという。
わかるような気がする。
私は老衰でではないが、過去何度か死にかけた。
心臓弁膜症で死にかけたときは、まったく食べ物が食べられなくなっていた。
あのままずっと何も食べなければ、きっと死ねていたと思うが、しかし、次男がまだ大学2年になったばかりだったから、置いて死ぬのはかわいそうという気持ちが強かった。
結局、手術を受けて、閉じなくなっていた心臓の弁は人工弁に置換してもらって生き返った。
あのまま死ねていたら、その後、さるメーリングリストでのいじめにあうこともなく、楽しい思い出のままで死ねていたのにと思うこともある。
昔であれば、あれが寿命であっただろう。
現代は、医学の進歩で、昔なら死ぬ運命だった人間が、このように生きている。
神様からごらんになって、こういう命をどう思われるだろう?
あのまま死んでいたら、孫の顔を見ることもできなかったし、次男の結婚を見届けることもできなかった。
その点では、神様に感謝しないといけないのかもしれない。
しかし、いずれにしても、今の最大関心ごとは、楽に死ねるかどうかということである。
さっきブログ「みゆきな日々」を読ませてもらっていると、その中に、「快楽さえ感じる? 最も苦しまない『穏やかな死に方』とは」というのがあって、読ませてもらった。
それによると、穏やかな死を迎えたければ、老衰することなのだそう。
ただ老衰するだけでなく、大病にならずに年をとることが肝要らしい。
死期が近づいたら、自然に食欲がなくなって苦しまずに、というより、脳内麻薬で気持ちよく死ねるという。
わかるような気がする。
私は老衰でではないが、過去何度か死にかけた。
心臓弁膜症で死にかけたときは、まったく食べ物が食べられなくなっていた。
あのままずっと何も食べなければ、きっと死ねていたと思うが、しかし、次男がまだ大学2年になったばかりだったから、置いて死ぬのはかわいそうという気持ちが強かった。
結局、手術を受けて、閉じなくなっていた心臓の弁は人工弁に置換してもらって生き返った。
あのまま死ねていたら、その後、さるメーリングリストでのいじめにあうこともなく、楽しい思い出のままで死ねていたのにと思うこともある。
昔であれば、あれが寿命であっただろう。
現代は、医学の進歩で、昔なら死ぬ運命だった人間が、このように生きている。
神様からごらんになって、こういう命をどう思われるだろう?
あのまま死んでいたら、孫の顔を見ることもできなかったし、次男の結婚を見届けることもできなかった。
その点では、神様に感謝しないといけないのかもしれない。
しかし、いずれにしても、今の最大関心ごとは、楽に死ねるかどうかということである。
義母も元気なころは、よくぴんぴんころりのお願いに寺社詣でをしていました。最後まで歩けたのは、その功徳だったかもしれませんが、認知症になったのは辛かったと思います。
私は、ときどき膝が痛いときがあるから、歩けなくなることを心配しています。
人間も動物。介護の必要になる場合 多し。
ハイジもピンピンコロリ希望。長生き希望なし。
でも 残念ながら 希望は希望。先はわからず。
運を天にまかせるのみ。
人生 難しいですよね。
なるようになれと達観できるといいのですが。
ジタバタ。
せめて神だのみ。少々のお賽銭で高宮神社。
よろしく。