神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

香川宜子著『アヴェ・マリアのヴァイオリン』

2016年05月08日 19時12分42秒 | 読書
最近、日本とユダヤ関係の本を探して読んでいる。

タイトルにした香川宜子著『アヴェ・マリアのヴァイオリン』も、ネットで探して、ヒットした一冊だ。

現在、この本以外にも、飛鳥昭雄、船井幸雄共著の『日ユ同祖論とミロクの世の真実』などを図書館で借りてきてある。、

返却期日が15日なので、今日は一日で、この『アヴェ・マリアのヴァイオリン』を読み上げた。

著者の香川宜子(よしこ)氏は医師であられるようだ。生年月日の生年は分からないが、2月19日らしいから、私と同じ誕生日だ。

本の内容であるが、

ヴァイオリンの妙手だったユダヤ人少女が、第二次世界大戦中に強制収容所に入れられるが、そのヴァイオリンの才で辛うじて生き延びることができた。

が、それは幸運というようなものではなく、生き延びられたこと自体が非常に過酷なものであった。

戦後、助けられて、昔彼女のヴァイオリンの先生だったドイツ人夫婦に引き取られるが、その頃は精神を病んでしまっていた。

が、その先生夫妻と精神科医の必死の介護の甲斐があって、なんとか立ち直ることができた。

というようなところであろうか。

あらすじを書くと、こういうことになるのかもしれないが、少女は生き延びられたけれども、少女のお祖父さんと弟は収容所に入れられると同時にガス室送りになったし、お父さんとお母さんは死ぬまで働かされて、最期は無残に殺される。

私は、昔、『アンネの日記』を読んだことがあるくらいで、ユダヤ人迫害の詳しいことは知らなかったので、改めて、その残酷な歴史に胸を詰まらせた。

私が最近探訪している、日本とユダヤの関係からは少し傾向の違う物語りであったが、こうして読ませていただけたのも、何かの縁であったのだろう。ことに著者の香川氏が私と同じ誕生日だったということに縁を感じた。

  生(あ)れた日が同じであればえにしあるやうに思へて香川宜子氏  biko

『評伝 河野裕子』を読み上げることができなかった&朝の散歩

2016年05月03日 12時56分52秒 | 読書
昨日が返却日だった永田淳著『評伝 河野裕子』を、昨日の午後からずっと読んだが、読み上げることができないまま、今朝、図書館の開く前に返却してきた。

本当は昨日の午後7時までに返却しないといけなかったのだが、まだまだだったので、朝まで徹夜してでも読もうと思っていた。

決してむずかしいことを書いてあるわけではないので、詰めて読めば読み上げられるのだが、家にいると中々詰めて読めない。ご飯の支度があったり夫が話しかけてきたりで・・・。歳とともに読書力の衰えも痛感する。

それで夫が寝てから読もうと思っていたのだったが、

  リタイヤの夫とともにゐるわれに読書の時間とりがたきかも  biko

  読む力弱くなりにし己とも思ふ読み上げざれしままに返せば  biko

夕食を食べると、夫同様、眠くなる私は、いったん寝て、また夜中の2時ごろから読んだが、あまり捗らず、結局、朝一番に返却に行くことに。

図書館開館前に図書館の返却ポストに投入すれば、昨日ポストに入れたことと同じになると思ってそうしたのだ。

朝も8時半まで読んでいたが、ポストに返却本は開館より前に職員に取り出されると思ったので、早めに家を出た。

午前8時50分に返却ポストに投入しようとすると、投入口の奥には人の手が見えた。

それで、「これ返却です」と声をかけて、お顔を見ないまま、その手にお渡してきた。

  返却本返却ポストに入れるとき見てしまひたり回収の手を  biko

その後、そのまま帰宅するのもなんだから、図書館から自宅と反対方向に朝の散歩としゃれこんだ。

少し歩くと、JR川西池田駅の前あたりから、長尾山に登る道がある。

この道を昇ると、川西市花屋敷の踏切。踏切の向こう側が「花屋敷」、踏切の手前は「寺畑」。「寺畑」というのは、この山を上がると満願寺という古寺があり、昔はその畑であったところだったから、それが地名になっているらしい。

昔は、ここに阪急電鉄「花屋敷駅」という駅があった(らしい)。

が、次の宝塚市雲雀丘駅と余りにも距離が近いということで、この踏切より左手のほうに、両方の駅を合わせた「雲雀丘花屋敷駅」ができたということは何度も署いてきた。

私は、この踏切は渡らず、手前の道から家に帰ろうと歩いた。

すると、こんな祠があった。、

「小戸神社拝願所」とあるから、我が家の氏神様、小戸神社拝願所ということだろう。

この拝願所で手を合わせてから、寺畑住宅地の間の道を下った。


下ったところから振り返ると、花屋敷とか雲雀丘のある長尾山に阪急電鉄の高架軌道が架かっているのが分かる。そう、阪急電鉄宝塚線は、川西能勢口駅では高架だが、次駅の雲雀丘花屋敷駅」は高架ではなくなり、電車は山の斜面を走るようになるのだ。

川西能勢口駅が高架に伴って宝塚寄りになったのには、阪急電鉄の軌道を長尾山の斜面に架けるためというのがあったと推測する。高架したお陰で、軌道は宝塚にかけて急傾斜の必要がなくなったのだ。

人の歩く道は長尾山の斜面の道路を降りたところにある団地に続いていて、私は、その中を通らせてもらって、今が見ごろと咲いている五月躑躅を見せてもらった。


さらに歩いて、自宅近くの花屋さんの前を通り過ぎようとすると、このようなポスターが貼られてあった。


我が家は街中で庭がないが、奥の住宅地には広い庭に丹精して花を咲かせて見せてくださる家家があるのだ。5月、13,14、15日のお天気のよい日に、能勢電かバスに乗って見せてもらいにいこうか。

5月は一年中で一番いい季節だ。

  遠出などせずに市内の庭庭に咲く花々を見せてもらはむ  biko

寺田寅彦随筆集より「我が中学時代の勉強法」

2016年04月03日 22時03分16秒 | 読書
4月1日に寺田寅彦邸に行ったときにいただいた冊子を読んだ。

ボランティアの方が夫と私にくださったのだが、表紙に「我が中学時代の勉強法」というのが見えたので、中学2年の孫に読ませたらと思って私のいただいた冊子はこの孫にあげた。

孫達は別の子供向けの冊子をいただいたのだが、中2の孫は、見かけは子供子供しているが、大人の書物も読める読書力があると思ったので、あげたのだ。



「我が中学時代の勉強法」に書かれてある内容は、

作者(寺田寅彦)は、特に頑張って勉強したことはない。

睡眠時間を削って勉強したこともなく、興味の赴くままに勉強をした。

が、特筆するべきことは、何でも教科書に書き込んだという下り。

教科書の内容そのものも、記憶しやすくするために、主要部分を抜き書きしていた。

先生が黒板に板書する図なども、わざわざノートに整理するとかはせずに、教科書の隅に書いておいたらしい。

こうすることで、教科書を開くと、ひとりでにその図が目に飛び込むので、自然に覚えることもできた。

勉強の省エネですね。(笑)

ただ、たくさん本を読んだことは、勉強するうえで、とても力になったらしい。

それから、体は特に丈夫なほうではなかったが、運動などを無理してまではしなかったと。

が、滋養のあるものは食べていたらしい。

つまり、ごく普通の生活を送っていたというわけだ。

対人関係も、特に友人を作ってとかはしなかったらしい。

結局、あれだけの業績を残した人も、特別なことをしていたわけではなく、自然のままに生活していたということを知り、拍子抜けするとともに、納得もした。

  教科書に何でも書きし寅彦の勉強方法特筆すべし  biko

「面会」~瀬戸内寂聴『わかれ』より

2016年03月27日 19時57分25秒 | 読書
この小説は、死刑になった永山則夫や国際テロリストとして現在獄中に囚われている重信房子の弁護士(女性)とのことを書いている。小説というより、実録か。

小説の中には、弁護されている重信房子や、重信房子の娘さんの話も出てくる。

「面会」の題名は、瀬戸内氏の重信房子との面会を指しているのだろう。

私は、これら事件の内容を、テレビニュースなどで垣間見ただけなので、詳しいところは知らなかった。

この小説を読んで、重信房子のことも知ることができたし、その弁護士、大谷恭子さんのことも知ることができた。

そして、それより何より、瀬戸内さんが、こういう政治犯の人たちに同情して、彼女らの心の支えになっていられることに感心した。

これは、瀬戸内氏その人が、過去、夫と子供を捨てて若い男と駆け落ちした、その良心の呵責からきているものか。

氏は、確か連合赤軍事件の永田洋子(ひろこ)の支援もしていられたと記憶している。

こういう犯罪を犯して世間から疎まれている人たちの気持ちに寄り添ってあげることは、なかなか誰にでもできることではないと思う。

それが、私が瀬戸内氏を尊敬する所以である。

「道づれ」~瀬戸内寂聴『わかれ』より

2016年03月27日 19時25分28秒 | 読書
ごく短い小説である。

が、長い小説にも負けないくらいの余韻を残してくれた。

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よし枝が68歳のときのことだ。京都から乗った徳島行き高速バスの座席で隣り合った男は、ほとんど眠りっぱなしであった。

目覚めたその男の声は、よし枝の亡夫、伍朗とそっくりであったから、よし枝には過去の苦い思い出が蘇ってきた。

約60年前、よし枝は、当時シベリアに抑留されたままだった前夫の帰国が待ちきれず、5歳年下の伍朗と駆け落ちして以来、故郷に足を向けることができずにいた。

終点の徳島駅前についたとき、男はよし枝のキャスターバッグを下ろしてくれただけでなく、バスを降りようとするよし枝の手を受けてくれた。

その後、肩を並べて歩きはじめたが、よし枝は、つかのまのこの道連れと、どこで別れようかと思ったとき、阿波踊りのテープ音が流れてきた。

それを聞いて、その音の軽快なリズムとは裏腹に。よし枝の目には涙が。

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この小説は、瀬戸内氏の自伝に近い小説と思っていいだろうか。

小説家としては、あれほどの成功を納めた瀬戸内氏も、過去の己の行動に対しては、永久に苦い思いが消えないのだろうか。

「百合」瀬戸内寂聴『わかれ』より

2016年03月27日 17時04分00秒 | 読書
レズビアンの物語りである。

私は、世間の人並みにしか、同性愛のことを知らなかった。

が、この小説を読んで、「目から鱗」であった。

異性との交わり以上の快楽がこの世にあるということを教えてもらった。

瀬戸内氏は、どうしてここまで細かく同性愛のことを書けるのだろう?

ひょっとして、体験者?と思わないでもないくらい実感がこもっていた。

人の幸せは見た目では計れないということも学んだ。

読ませてもらって、またひとつ世界が広がったような気分だ。

「わかれ」瀬戸内寂聴『わかれ』より

2016年03月27日 16時47分43秒 | 読書
これは、著者の体験談だろうか。

いや、小説家だから、作り話だろう。

が、それにしては、よくできすぎている。

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私は、90歳を超えた画家である。エッセイなども書く。

ふとしたきっかけで、孫のような年齢の男性となかよくなる。

男性は、耳の遠くなった私に補聴器を買わせたり、ケイタイを買わせたりする。

無理と思っていたケイタイの操作も、この男性が懇切丁寧に教えてくれるものだから、メールも打てるようになる。さらに、スマホまで買わされて、それも使いこなせるようになる。

私は、この男性には何でも話せる。

男性も、私には、他の女性との付き合いとか仕事のこととか、隠さず話してくれる。

私にとっては勿論、この男性にとっても、今や私はなくてはならない異性になっている。

若い男女のような関係ではないが、それでも、やはり、ある意味、男女の関係である。

こんな生活がずっと続くと思っていたのに、ある日突然、この男性はカメラマンとしての仕事のために遠い外国に行ってしまう。

それが、結果的に「わかれ」になってしまうのだ。

長い人生を生きてきた私は、今まで男に捨てられたことは一度もなかった。が、今回のこの孫のような男性には、初めて捨てられた。

というところで、話は終わる。

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晩年に、こういう恋人のような異性を身近における女性を描いて、出色だと思った。

願わくばとまでは思わないが、しかし、歳をとるのも悪くないと思わせてもらえた小説だった。

読書していますが、若いときのようには捗りません

2016年03月26日 20時57分13秒 | 読書
所属短歌結社の中山博史さんという方から歌集を送っていただいたので、早く読み上げて感想を送らせていただかなくてはと思いながら、まだ読み終えていない。

歌集というのは、文字数は少ないが、歌の意味を考えながら読むので、意外と時間がかかる。

もちろん楽しみながら読ませていただくのだが、しかし、主婦には雑用が多く、なかなか読書に没頭できない。

それでも、この歌集だけであれば、もう読み終えているのだが、以前ブログアップした、瀬戸内寂聴氏の『わかれ』の返却期限が迫ってきたから、現在、こちらの方を優先して読んでいる。

この『わかれ』は貸し出しの順番がやっと回ってきて、借りられた本であるのみならず、次の予約者も待っている本なので、貸し出し期限の延長もできない。

今日読んだのは、この本の中の「道具」、「紹興」である。、

「紹興」は、

作家、竹田泰淳氏の、清朝打倒のため活動して紹興で処刑された女性革命家、秋瑾(しゅうきん)のことを書いた小説『秋風秋雨人を愁殺す 秋瑾女士伝』と

瀬戸内寂聴氏の、日本の革命活動家で、やはり処刑された管野須賀子のことを書いた『管野須賀子抄』を

対比させながら、竹田泰淳氏、その人のことを寂聴氏が書いた小説である。

おりしも、昨日、ブロ友のブログに、明治維新のころ、勤皇志士をその草庵にかくまった罪で、玄海灘の孤島姫島の獄舎に幽閉されてしまった、福岡の歌人 野村望東尼(のむらぼうとうに)のことも読ませていただいたところだったので、余計いろいろ考えさせられた。

それにしても、朝、昼、晩のご飯は作らないといけない、ブログはしたい、読書はしたいでは欲張りすぎだろうか?

4月からはNHKのラジオ英語講座も(聞こえないのに)聴こうと、ネット経由のテキストの購読も始めた。

が、最近は、目も衰えて、読書ひとつとっても思うように捗らない。

パソコンに費やす時間を減らさなければと思いながら、これがなかなかむずかしい。

今さっき、やはり、ブロ友の一人が、目の調子が悪いので、しばらくブログを休みますと書かれていた。

私も、なにか削らないと全部が中途半端になってしまいそうだ。

  歌集読み小説を読みブログ書きさらに英語を学びたいつて?  biko

媼には媼の艶~瀬戸内寂聴『山姥』

2016年03月10日 11時25分20秒 | 読書
図書館で借りてきた本を読んでいる。

瀬戸内寂聴氏の最新版『わかれ』の中の「山姥」を昨夜読み終えた。

最近は、図書館で借りてきて、読まないまま期限がきて返却することが多いが、今回のこの『わかれ』は、大分待たされて、やっと順番が回ってきた本なので、読み上げたいと思っている。

で、昨夜は、とりあえず、その最初の作品「山姥」を読み終えた。

あと、「約束」、「道具」、「紹興」、「面会」、「道づれ」、「百合」、「圏外」、わかれ」と小品が続くのであるが、返却期限まで、ゆっくり楽しませていただこうと思う。

瀬戸内寂聴氏は私の母より3歳年長で、今年誕生日を迎えられたら、94歳になられる。

この作品集は数年前から昨年くらいまでのものだから、90歳前後のものか。

この年齢になられて、氏の筆は円熟味が加わって、ますます読み応えがある。

読ませていただいた「山姥」も、老女の艶を描いて名品だと思った。

女性は、いくつになっても女性だということを頷かせる作品である。

90歳を超えた瀬戸内氏でないと書けない作品ともいえるかもしれない。

  媼には媼の艶のあることを教へて卒寿の瀬戸内寂聴  biko

人生100歳時代を迎えて、これからわれわれ団塊の世代の生きていく老後の道案内にもなるかと思う。

やっと読み終えた『死に支度』~幽霊は死なない

2015年12月28日 17時28分51秒 | 読書
12月20日に今夜読み終えますと書いた瀬戸内寂聴さんの『死に支度』をやっと読み終えた。

後半部を読むのに10日も費やした。

私が読むのが遅くなっただけでなく、途切れ途切れに読んだから、こういうことになったのだ。

本は勢いで読まないと、意外と時間を食う。

細切れの時間に続きを読み始めようとするのだが、すぐにそこから読むことはできず、前に遡って読まなければならないからだ。

と、言い訳はこれくらいにして、最終部がよかった。

瀬戸内さんはこの本執筆中は92歳であられるのだが、実は84歳のときに一度「生前葬」なるものをしてあるので、現在は幽霊だといわれる。

幽霊はもう死んでいるのだから、瀬戸内さんは、もう死なないのだそう。

なるほど!

それで、いつまでもお元気であられるのだ。

話が変わるが、私は、短歌の結社を辞めるつもりで、今月12月は、退会の歌を10首並べて出詠した。

ところが別の結社にメールで入会のお願いをしたのだが、お返事がいただけない。

たぶん、年末年始に取り紛れて担当者がほったらかしにしているのだろう。

こういう短歌の会は、大概ボランティアで運営されているから、一般の商業ペースのようにはことが運ばないのだ。

それで、1月からは現在の結社誌は購読会員になるべく郵便局の振り替え用紙にも、その金額を記入してあったが、急遽、会員の継続に書き換えて支払ってきた。

短歌の友人にそのことを話したら、会員の継続をしたのなら、引き続きペンネームでも使って出詠すれば、という。

うん、それも面白いと思って、そうしようと思いかけていたが、今日、瀬戸内さんのこの幽霊云々の箇所を読ませていただいて、また気が変わった。

1月からは幽霊になって出詠しようと。

12月に退会の弁を詠ったのだから、1月は幽霊が出詠しますと詠えばいいのだ。

短歌は、別に社会の物差しで作ることはない。

さまざまな考えで、それぞれが歌を作り、それを読む人が、またさまざまな読みをするのが、その醍醐味なのだ。

  ほととぎす正岡子規は血みどろで俳句を作り歌を詠みたり  biko

  生前葬すましし瀬戸内寂聴は幽霊なりとみづから言へり  biko

読書しています。『死に支度』瀬戸内寂聴

2015年12月20日 17時41分24秒 | 読書
図書館で本をたくさん借りてきているので、今日は一日読書していました。

現在、読んでいるのは、瀬戸内寂聴氏の『死に支度』。

なかなか面白いです。

今日中に読み終えることができると思います。

『静かな爆弾』吉田修一著

2015年11月09日 23時11分52秒 | 読書
今日図書館に返却の本が数冊あった。

最近は、借りてきても読まないで返すことが多い。ブログに時間をとられすぎるのだ。

しかし、ブログを止めようとも思わない。生きがいだから。

せっかく借りてきたのだから少しでも読んでおこうと読んだのがタイトルにした吉田修一著の『静かな爆弾』だ。

あらすじは、ごく簡単にいえば、テレビ局に勤める主人公が聞こえない女性を愛する物語りである。ほかにも複合的に事件が絡まりあってはいるが・・・。

聴覚障害者を観察する立場から書かれているから、私には、人が私達聴覚に障害のある人間をどのように捉えるか参考になった。

主人公に愛される女性は、透明感があって、美しい。

それは、同じ障害をもつ私から見て、変に頑張らないところが魅力になっているように感じた。

私などは、聞こえないことに対しての劣等感が強いので、馬鹿にされるまいと身構えてしまうところがあるが、この女性には、それが感じられない。

羨ましく思ったのは、身構えなくても、そのままでいても、深く愛されることである。

(必ずしも事実を小説にしたわけではないと思うが)見た目の美しい女性なのだろう。

私などのように中途半端に聞こえるより、いっそ全く聞こえないほうが潔いというようなことも思った。

時代も変わったと感じた。最近は、聴覚障害が、昔ほど偏見の目で見られることはなくなってきたかもしれない。

主人公、早川俊平の言葉で印象に残ったところを抜書きしておく。

 最小限の言葉。
 少なければ少ないほど、相手に確実に届く言葉。響子と付き合うようになって、俺は、そんなことを考えるようになった。


彼女、響子とのコミュニケーションは、主に筆談である。

メモ用紙に書く話は、実際の会話と比べると、当然、言葉は吟味される。

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読み上げたあと、図書館に返しにいった。

図書館はアステというショッピングセンターのあるビルの4、5階にある。

↓この写真の明りのついている4、5階が図書館だ。

↑一階部分にはケンタッキーフライドチキンとかミスタードーナツなどのファーストフードの店が入っている。

↓これが図書館の入り口。。

今日が返却日の図書館で借りている本

2015年10月12日 06時24分58秒 | 読書
カレンダーを見ると、「図書館」と書いてある。

そうだ、今日返却しなければならない本が6冊ある。

決して忘れていたわけではないが、最近、読書に時間がとれない。

といって何かをしているわけではない。

主な仕事は主婦業だが、その合間に楽しんでいるネットが面白すぎて時間を食われるのだ。

これをだらしないという人には、そういわせておこう。

パソコンの操作ができるようになるまでは、読書が一番の楽しみだった。

家事の合間の時間を惜しみながら読書したものだったが、今では家事の合間の時間をこのネットという化け物(?笑)に吸い取られている。

ネットする合間に家事をしているような・・・。

ネットすることによってリアルな情報が私の中にいて入ってくる。

知らなかった世界をどんどん知ることができる。

中には怪しい情報も含まれているが、しかし、それも含めて興味は尽きない。

われわれのような情報難民である聴覚障害者にはたまらない魅力だ。

読書には読書のよさがあることは今更いうまでもないことだし、以前はその中に浸っていた人間なので、十分その価値も喜びも知り尽くしているはず、だった。

が、ネットの魔力には抗いがたい。

で、最初の話に戻るが、今日返却しなければならない本は、やはりネットで知りえた本で、聴覚障害者が事件の推理をするという設定の小説数冊と、聴覚障害者ながらホステスをしていた女性の半生を綴った本と、あと私の所属している短歌結社の前主宰者、永田和宏氏の奥さんといってしまうには余りにも有名な歌人、河野裕子さんの特集記事の載った短歌雑誌である。短歌雑誌は当月号は貸し出し不可なので、旧号になるのを待って借りたものだ。

筆談ホステスさんの本だけ借りてきた翌日に読み上げたが、あとは、そのうちそのうちと思っているうちに日が経ってしまった。

当然読みたいと思って借りてきた本なのだが、ネットが私の時間を食べてしまうから、読むところまでいかなかった。

ので、いまパソコンの図書館のホームページを開いて貸し出し延長をした。

なるべく早く読み上げて返却するようにしなければ!

  借りてこし図書館の本六冊の一冊のみしか読み上げられず  biko

  本好きを自認してゐしわれなれどネットに時間は食はれてしまふ  biko

  読書する代はりにネットするわけではあらぬがネットの魔力  biko

  だんだんと深入りしていくパソコンのネットに絡みとられてわれは  biko

  目は二つあれども一つしか見れずパソコン見れば本見る間なし  biko

水村美苗『本格小説』上・下

2015年08月04日 13時22分08秒 | 読書
タイトルにした水村美苗さんの『本格小説 上・下』を読了した。

読了直前の昨日ご紹介したから、もう書くつもりはなかったが、最後の最後まで、どんでん返しがあって、面白く読めたから、改めてご紹介したくなってアップした。

私くらいの年齢になると、もう恋愛小説をきちきち読むのは卒業したと自覚しているが、この『本格小説』は例外であった。

その面白さは、水村美苗の筆力によるところが大きいのだが、それ以外にも主人公が同年輩というところが大きいと思う。

また、語り手が、二重、三重になっていて、それが話を重層的にして深みをもたらす。

まず最初の語り手は、水村美苗、その人である。

ここで、読者は、その話が実話と錯覚させられる。実際、モデルになった人物はいるのだが、しかし、それは飽くまでモデルで、実話ではない。

モデルは、水村さんのお父様の部下だった人だ。これが事実であるから、読者は全て事実であると騙されてしまう。一種のトリックなのだが、これが作者の巧さでもあろう。

次の語り手は、水村美苗をアメリカまで訪ねてきた出版社を退職した青年である。

その青年の語りから、次は、主人公に深く関わった女性が現れて、次の語り手になる。

最終的には、この女性がメーンの語り手になるのだが、最後の最後にどんでん返しがあって、もう一度、この小説の上下巻を読み直したくなる結末が待っている。

ここからは、ネタバレになるので、それがいやな人はここからは読まないでください。

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この小説の年代は、1985年から1995年あたりで、主人公の年齢は、35歳くらいから45歳くらいまでと読めるから、現在の年齢に換算すると、65歳くらいか。
 
メーンの語り手は、この主人公達より10歳ほど年長のようだから、現在は75歳くらいの人ということになる。

あらすじは、その主人公達が子供のころは、まだ貧富の差によって、身分の差のようなものがあった。

主人公の男の子は極端に貧乏な家庭の、しかも実子でないという設定である。だから、大学は愚か、高校も卒業することができなかった。

一方、主人公の女の子は、軽井沢に別荘のあるような、お金持ちの家庭のお嬢様だ。

男の子は、その女の子の家の貸家に住んでいて、いつも兄達から苛められている。それを見かねた女の子のお祖母さんは、男の子の世話をして、その女の子の遊び相手をさせる。

小さい間は問題がなかったが、その子達が中学生くらいになったころ、お互いが異性として意識するようになる。

女の子は、その貧しいけれど利発な男の子を好きになるのだが、子供ながら、そんな貧しい、学歴もない人とは結婚できないと思っているし、その男の子にもはっきり言う。

男の子は発奮してアメリカに渡って英語力を磨き、同時にカメラの技術を身につける。

男の子は、本人の懸命の努力プラス、バブルに差しかかろうとしていた時代の後押しもあり、異例の出世をすることができた。

その間、女の子は昔から付き合いのある良家の、東大を出たエリート男性と結婚する。

アメリカで大金持ちになった男の子が帰国したときは、その女の子は子供もいる良家の奥さんになっていたが、アメリカから帰国したその男性と昔の縒りを戻す。

ここからが、特異な話になるのだが、その交際を、現夫は認めて、その女性は、夫とは今までどおり夫婦として過ごしながら、アメリカから幼友達が帰国したときは、昔どおり仲良く過ごす。いわゆる三角関係なのだが、そうせざるを得ない必然があって、読者は納得させられる。

ということで、ある均衡を保ちながら続いていたのだったが、あるとき、ふとしたことで、その均衡が崩れる。

いったん均衡が崩れてしまうと、それまでの関係が尋常でなかっただけに、様々な問題が浮き彫りになってくる。

その男女は自殺か心中をするかと読みすすめていったのだが、心中はしなかったが、女性は肺炎になって死んでしまうし、その夫も後を追うように癌になって死んでしまう。

遺されたのはアメリカで大金持ちになった男性と語り手の女性だが、この二人が最後の最後でどんでん返しを見せてくれるのである。

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最後まで一度も退屈させられることなく中途半端な推理小説よりずっと面白く読ませていただいた。

水村美苗さんには脱帽です。

『中卒の組立工、NYの億万長者になる』&『高台にある家』

2015年08月03日 21時58分01秒 | 読書
夫と喧嘩していると、読書が捗る。(苦笑)

現在、水村美苗さんの『本格小説・下』を読んでいるが、もうすぐ読了だ。

これは読者登録させていただいているブログ「駅前糸脈」さんの記事にあった本で、糸脈さんのおもしろいという言葉を信用して読み始めた。

(駅前糸脈さん、勝手にリンク貼ってすみません)

読み終えるのが惜しいくらい、本当に面白い。

こういう長編小説は、どこかで綻びが見えたりするものだが、今までのところ、そういう箇所は一箇所もない。緻密に書き込まれていると思う。

長編だが、おもしろいので、時間さえ許せば一気に読める小説だ。

少し種明かしをすれば、この小説はイギリスの作家エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を翻案したものらしい。

で、今日アップした本は、上の写真の『中卒の組立工、NYの億万長者になる』は、この『本格小説』のモデルになっている男性の自伝である。

ネットで、この自伝を読ませてもらえば、水村さんが、どれだけ上手に実話を小説化しているか分かると書かれてあったから、読んでみようと思って借りてきた。

下の写真の本は、水村さんのご母堂の書かれた小説で、これを読めば、水村さんが『本格小説』を書くにいたった経緯が分かると、これもネットのサイトに書かれてあったから、借りてきた。



しばらく読書に没頭できる。