永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(115)

2016年04月10日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (115) 2016.4.10

「木蔭いとあはれなり。山陰の暗がりたるところを見れば、蛍はおどろくまで照らすめり。里にて、むかしもの思ひ薄かりしとき、『二声と聞くとはなしに』と腹だたかりし時鳥もうちとけて鳴く。水鶏はそこと思ふまでたたく。いといみじげさまさる物思ひのすみかなり。」
◆◆木蔭はまた一層趣きふかい。山陰の暗いところをみると、蛍がたくさんいて光を放っています。京の家で、昔、あまり物思いにふけることがないときに、「二声と聞くとはなしに」とうるさく鳴いて腹立たしかったほととぎすも、ここではゆったりと鳴いています。水鶏はすぐそこにという近いところで鳴いています。ここはいよいよわびしさの募るものおもいの多い住いです。◆◆



「人やりならぬわざなれば、問ひ訪はぬ人ありとも、ゆめにつらくなど思ふべきならねば、いと心安くてあるを、ただかかる住ひをさへせんと構へたりける、身の宿世ばかりをながむるに添へてかなしきことは、日ごろの長精進しつる人のたのもしげなけれど、見譲る人もなければ、頭もさし出でず、松の葉ばかりに思ひなりにたる身の同じさまにて食はせたれば、えも食ひやらぬを見るたびにぞ、涙はこぼれまさる。」
◆◆山籠りは私の一存でしたことなので、見舞いに来てくれたり、訪ねて来る人がいないとしても、ゆめゆめ恨みに思うべき筋合いでもないので、とても気が楽ではありますが、ただこのような山住いまでしようと企てた私自身の前世からの因縁をばつくづく思うにつけ、さらに悲しいことは、幾日も私と一緒に長精進をしている大夫(道綱)がすっかりやつれてしまっているけれど、私に代わって面倒をみてくれる人もいないので、外出もせず、松の葉ばかり食べる山伏になったつもりの私と同じように道綱にもさせているので、食事がなかなかのどを通らないでいるのを見るにつけては、涙が後からあとからこぼれ落ちる始末です。◆◆



「かくてあるはいと心安かりけるを、ただ涙もろなるこそいと苦しかりけれ。夕暮れの入相の声、ひぐらしの音、めぐりの小寺のちひさき鐘ども、我もわれもとうちたたき鳴らし、前なる岡に神の社もあれば法師ばら読経たてまつりなどする声を聞くにぞ、いとせんかたなくものはおぼゆる。」
◆◆こうしているのは、とても気楽ではありましたが、ただもう涙もろいことがとても辛く苦しいことでした。夕暮れの入相の鐘の音、蜩の声、まわりにある小寺の小さい鐘の音を、われもわれもと一斉に打ち鳴らす音、前の岡には神社もあるので、法師たちが読経をしたりする声を耳にすると、どうしようもなく切ない気持ちになるのでした。◆◆



「かく不浄なるほどは夜昼のいとまもあれば、端の方に出でゐてながむるを、このをさなき人、『入りね入りね』といふけしきを見れば、物を深く思ひ入れさせじとなるべし。『など、かくはのたまふ』、『なほいと悪し、ねぶたくもはべり』など言へば、『ひた心になくもなりつべき身を、そこに障りて今まであるを、いかがせんずる。世の人の言ふなるさまにもなりなん。むげに世になからんよりは、さてあらばおぼつかなからぬほどに通ひつつ、かなしき物に思ひなして見給へ。かくていとありぬべかりけりと身ひとつに思ふを、ただいとかく悪しきものして物をまゐれば、いといたく痩せ給ふを見るなん、いといみじき。形ことにても京にある人こそはと思へど、それなんいともどかしう見ゆることなれば、かくかく思ふ』と言へば、いらへもせでさくりもよよに泣く。」
◆◆このように月の障りで穢れている間は、夜も昼も暇があるので、縁側に出て座り、ぼんやりと物思いにふけっていると、このおさない道綱が「中へおはいりなさいよ、さあさあ」と言う様子をみると、私に物を深く思いいれさせなまいとするようです。「どうして、そんなことをおっしゃるの」というと、「でもそれはいけません。それに私はもう眠うございます」などと言うので、「一思いに死んでしまっても良い身を、あなたがいるばかりに今日まで長らえてきましたが、これからどうしたらよいものでしょうか。世間の人が言うように尼にでもなってしまいましょう。全くこの世から姿を消してしまうよりは、尼として生きているならば、寂しくない程度にあなたが顔を見せてくださって、私をかわいそうな者と思ってくださいね。こうして山寺に籠って十分やっていけるのだったと私自身は思うのですが、ただあなたがこんなひどい粗末な食事を召し上がるので、ひどくお痩せになるのがとても辛いのです。私が尼姿になっても京にいれば(道綱の世話もできよう)と思うけれど、そんなことは感心できないことなので、あれこれ思案に暮れるのですよ」言うと、道綱はお返事もできずにオイオイと泣きじゃくるのでした。◆◆


■『二声と聞くとはなしに』=本歌「二声と聞くとはなしにほととぎす夜深く目をもさましつるかな」

■時鳥(ほととぎす)=不如帰。杜鵑の字も。

■水鶏(くひな)がそこ思ふまでたたく=鳴き声がものをたたくように聞こえる。「水鶏だに叩けばあくる夏の夜を心短き人や帰りし」も参考に。

■入相(いりあい)の声=日没時の鐘の音。

■かくかく思ふ=作者が山寺で尼になって、道綱がそこへ会いにくるということ。