退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「時間をかけることにだけ意味を見出すことと嫉妬あるいはかつての夜這いと地震報道への疑問」について

2018-01-05 02:12:24 | Weblog
『晴れ。夜にやや冷える。

仕事初め。

以前は年末年始の休みはもう少し長かったような。
いたずらに時間をかけて「生産性」が上がるのかどうか。

わが国の人々はどうしてこういつまでも「原始的」なのだろう。
もう一度「近代」をやり直す必要がありそう。

本切れで山内昌之「嫉妬の世界史」を古本屋で買って読む。

「嫉妬」という漢字はいずれも「女偏」だけれど
実は「男の嫉妬」の方がややこしいという「歴史の実例」があれこれ。

著者の専門はイスラム。
もっとも洋の東西を問わず歴史には詳しい模様。

個人的には「嫉妬」という感情とはあまりご縁がないと思っているものの。
いざ環境が変わったらそうではなくなるかもしれず。』で昨日も寝る。

晴れ。風はないが夜気が冷たい。

赤松啓介「夜這いの民俗学・夜這いの性愛論」を途中まで再読。

明治四十二年(1909)生まれの著者が描く村の性の在り様はいかにもおおらか。
他にあまり楽しみがないとこういうことになるのか。

少なくとも過去にこうした現実があったのは事実。
それを現在と比べてどう思うかは読者次第。

とりあえず明日読了する予定。

深夜「精霊の守り人 最終章」の再放送の終わりがけが地震のニュースで「消える」。

大した被害がないにもかかわらずやたら「同じ映像と情報」が繰り返されるのはいつものこと。
そのことに「意味」があるのだろうか。

それよりある程度の時間が経過した上で集まった情報を
「今のところ」という限定付きで報じればいいだけのことのように思われるのだけれど。

ここにも何か「決定的な勘違い」があるような。
地震が起きた時の「約束事」だとすれば残念と言うよりなく。

とにかく「集まった情報」を垂れ流すのみ。
「危機管理の本質あるいは情報伝達のポイント」を大きくハズれている感じは否めず。

いたずらに「地震」をすべて「怖ろしいもの」と決め込まずに
ケース・バイ・ケースで対処できないのだとすれば。

結局「本物の大災害」が起きた時にまともに対応できるとは思えないのだが如何。
そもそもその「情報」は誰のために流されているかを考えてみるべきかも。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする