フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

11月15日(木) 晴れ

2012-11-16 10:01:10 | Weblog

  7時半、起床。バタートースト、ハム、レタス、紅茶の朝食。

  11時頃、家を出て大学へ。今日は遅い出勤の娘と駅までの道を歩く。娘は昨日私があげたマフラーを首に巻いている。

  昨日のブログで、「松本で購入して、数日使ったマフラーは、結局、娘にあげることになった。」と書いたが、それを読んだ読者の方からメールをいただいた。「予想が外れました」と書いたあった。娘は父親のマフラーを受け取らないのではないかと予想していたというのである。理由は、自分にも息子がいて、マフラーをプレゼントされたことがあるのだが、何ともいえない気恥ずかしさや、息子への反発から、一度もそのマフラーをしたことはないからだそうだ。

  マフラーのプレゼントという点は同じでも、父親と息子のケースと父親と娘のケースでは関係性が異なるであろうし、また、プレゼントの方向が子どもから親へのケースと、親から子どもへケースではやはり意味合いが異なるであろう。だからその方と私のケースを単純に比較するのは無理があるのだが、そのことはひとまずおくとして、その方は私のケースに「親子の深い心の共有」を見ていらっしゃる。う~ん、どうだろう。たぶん、ここにあるのは、「親子の深い心の共有」というよりも、一種の社交の精神なのではないだろうか。

  人から何かをプレゼントされた場合、それが他人であれば、そのものが気に入る気に入らないはひとまず置いて、普通は受け取るだろう。受け取らない、受け取ったとしても使わない(身につけない)というのは、相手が家族だからこそできることである(あるいは、できると思っていることである)。私の娘は好き嫌いの自己主張がはっきりしている性格である。あのマフラーの柄は、たぶん娘の好みのストライクゾーンとは違うだろうと思う。しかし、「いらない」と言わなかったのは、そして今朝さっそくそれを首に巻いて出勤したのは、娘が持ち前の社交の精神を発揮したから、という部分が(も)大きいと思う。家族の外部での行為規準を家族の内部にも適用しているのである。

  もし息子が私にマフラーをプレゼントしてくれたら(それはありそうもない仮定なのだが)、私の好みの柄ではなかったとしても、やはり私はそれを身につけるだろう。家族の間でも社交の精神は必要である。とくに子どもが成人した後の親子関係においてはそうではないかと思うのである。

  ちなみに妻は私が何か身につけるものをあげても、「う~ん、これはねえ・・・」という反応を示すことが多い。妻に社交の精神が不足しているのか、私のファッションセンスに問題があるのか、あるはその両方なのかもしれない。

  昼食は「五郎八」で力うどん。  

  3限は大学院の演習。

  4限は研究指導。

  5限はゼミ論の個別相談。 


スイートポテトを食べながら

  今日は6限、7限の時間を使って研究室でゼミのライフストーリーインタビュー調査が行われる。MさんとM君、そして対象者の方がやってきた。そそくさと片づけをして、研究室を出る。