フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月30日(土) 晴れのち曇り

2007-06-30 23:29:28 | Weblog
  卒業生のFさんの結婚披露宴(於.フォーシーズンホテル椿山荘東京)に出席。Fさんとは2年生の演習や3年生の調査実習で一緒だったSさんとMさんも招待されていて、同じテーブルの、私の右隣の席がSさん、左隣の席がMさんであった。Sさんは昨年の11月に結婚したばかりで、私はその小笠原伯爵邸での結婚式に出席したのだが、半年の間にずいぶんと背が伸びていた(ヒールの高い靴を履いていたのだ)。Mさんとは、本当ならSさんの結婚式で顔を合わせるはずだったのだが、体調を崩して欠席されたため、会うのは2年半ぶりである。卒業生の結婚披露宴に呼ばれる場合、「新婦(新郎)の上司・恩師」のテーブルに座る場合と、「新婦(新郎)の大学時代の恩師・友人」のテーブルに座る場合とがあるのだが、前者は気が張り(ずっと社交的会話を心がけていなければならない)、後者はくつろぐ(友人たちがくつろぐかどうかは別として)。以前、会場を見渡して、知り合いが一人もいない結婚式というものに出たことがあるが、あれは手持ち無沙汰であった。新婦のウェディングドレス姿を眺めつつ、卒業生たちと話ができる今日のような座席が一番である。
  Fさんのウェディングドレス姿には凛とした美しさがあった。それは小顔でスリムな体型のせいばかりではなく、これまでの人生を自分の意志でしっかりと歩いてきたFさんの生き方の反映であるように思われた。新郎のS君は、今日初めてお会いしたのだが、職場(NHK)や大学(東工大)時代の友人だけでなく、高校(暁星高)時代のサッカー部の友人たちが多数祝福のために駆けつけていたことからもわかるように、誠実で愛すべき人柄の持ち主であることは間違いない。サッカーの中田(英)選手に似ていると本人は思っているようですとFさんから聞いていたが、確かに特定の角度(それは非常に限定された角度なのだが)から見ると、そのように見えないことはなかった。Fさんがご両親への挨拶として朗読した手紙は実に素晴らしい内容のものであった。私と同じテーブルの女性にはもらい泣きをしている方もいたが、Fさん自身は「泣いてはいけない」と自分に言い聞かせながら朗読していたのであろう、途中で何度か立ち止まりそうな気配があったものの、最後まで気丈に読み上げた。これに比べて、S君の挨拶は「かみかみ」で、これはこれで彼の人柄がにじみ出ていたが、今後、新婚家庭がどのような勢力関係の下で運営されるかは誰の目にも明らかであった。
  披露宴がお開きになったのは午後3時ごろ。Sさんはご主人のお母様が上京されてきているということで直帰しなくてはならないが、Mさんは6時から恵比寿のレストランで予定されている二次会に出席するということなので、それまでの時間が空いている。というわけで、二次会から参加の予定の卒業生のN君をケータイで呼び出して、恵比寿駅の改札を出たところのエクセルシオール・カフェでお茶をする。
  夜、今日からスタートのNHKのドラマ『新マチベン』を観る。夏のドラマはどれもこれも主人公の年齢が低くてあまり食指が動かないのだが、その中で、このドラマはいずれも60代の3人の新米弁護士(渡哲也、石坂浩二、地井武男)が主人公で、なんというか、応援したくなるところがある(番組も主人公も)。

6月29日(金)曇り、一時雨

2007-06-30 09:12:12 | Weblog
  蒸し暑い一日だった。午後から大学へ。地下鉄の駅を出て、「五郎八」の暖簾をくぐる。揚げ餅そば。冷たい蕎麦の上に揚げたての餅と芝海老がいっぱい載っていて、そこに上から冷たい蕎麦汁をとくとくとかけて食べる。餅のもちもち感と海老のぷりぷり感がいい。
  4限の大学院の演習は先週に引き続き清水幾太郎『社会的人間論』(1940年)の講読。日中戦争の最中、太平洋戦争の直前に書かれた本である。「社会と個人の問題」を核にしながら、人間の一生を集団から集団への遍歴としてとらえる一方で、それぞれの集団の歴史的変遷に話は及ぶ。コンパクトな本だが、清水の人間観・社会観・歴史観を知る上で重要な本である。
  6限の「現代人の精神構造」は田島先生の宗教シリーズの初回。宗教というものを人間の自己認識としてとらえつつ、そこでは感情が重要な働きをしていることを強調されていた。
  TAのI君と「秀永」で食事をしてから帰宅。明日は卒業生のFさんの結婚式。Fさんが学生時代に書いたレポート(調査実習の報告書)を読み返しながら、スピーチの原稿を考える。あのときの調査実習のテーマは「幸福」であった。

6月28日(木) 晴れ

2007-06-29 03:24:32 | Weblog
  朝の地下鉄の中で田島先生(文学学術院長)と一緒になる。明日の「現代人の精神構造」は田島先生担当の3回シリーズの初回なので、コーディネーターとして講義内容について話をうかがった。「現代人と宗教」というテーマなのだが、周囲の乗客の目にはずいぶんと小難しい話をしている中年男二人連れに映ったことだろう(田島先生、声が大きいんだよね)。
  2限の社会学演習ⅠBは「バーチャルな他者とのかかわり 模倣という快楽と自己承認」(『自己と他者の社会学』10章)という長谷先生の書いた章を担当するグループの発表。長谷先生の文章は途中で何回か、飛躍というか転回というか、予期せぬ方向に進路が切り替わるところがあるので、それに戸惑う学生がけっこういる。しっかりくらいついていくことです。
  昼休みの時間、研究室で合宿へ向けてのフィールドワークの相談を受ける。フィールドワーク=アンケート調査という発想から自由になることを勧める。相談を終えて、昼食をとりに出る。「五郎八」で辛味大根そば。涼味。研究室に戻って、明日の大学院の演習の下準備。
  5限は基礎演習21。最後の2つの班のプレゼンテーション。プレゼンテーション自体はまずまずの出来であったが、質疑応答が不活発だった。ちゃんと教材論文を読んできていない学生がいるようである。これについては以前に注意したことがあるので、同じ注意はくりかえさない。注意しなくてもちゃんとやる学生、注意すればちゃんとやる学生、注意してもちゃんとやらない学生、いつの時代にも3種類の学生がいるものだ。
  7時半ごろ、帰宅。先に夕食、それから風呂。一服しながら「とんねるずのみなさんのおかげでした」を観る。「食わず嫌い王決定戦」は掘北真希と玉山鉄二。(二人とも夏のTVドラマの番宣である)。今回は石橋貴明が絶好調で、大いに笑わせてくれた。勝負の方は一回戦で両者そろって「参りました」。罰ゲームで掘北がやった藤岡弘のモノマネは、似ているとはいえないものの、かわいかったので、OK牧場。

6月27日(水) 晴れ

2007-06-28 02:06:34 | Weblog
  先週の水曜日、京浜東北線の人身事故の影響で大学に着いたのが授業の直前になってしまい、しかもコピー機のトラブルで教材の印刷に手間取り・・・という風に始まったさえない一日について書いたが、今日、またしても午前中に京浜東北線で人身事故があった。自宅にいるときにネットでそのニュースを知ったので、早めに家を出て、お昼休みに約束してあった学生との面談には遅れずに済んだが、3限の質的調査法特論でせっかく準備してきたNHKスペシャル「松田聖子 女性の時代の物語」のDVDをプレーヤーが認識してくれずに使えないというトラブルに見舞われた。自宅で録画したパソコンとは別のDVDプレーヤーでも作動することをちゃんと確認してきたというのに・・・。授業の教材として映像や音楽を使っているとたまにこの種のトラブルに遭遇する(ビデオテープやMDを家に忘れてくるといったミスを含めて)。これは実に困る。授業の段取りがまったく崩れてしまう。山の中で熊と出くわしたときのように、その場で床に倒れて、死んだ振りをしたい気分になる。もちろんそういうわけにもいかず、DVDの内容を「口頭で」紹介しながら(ああ、舌を噛んで死んでしまいたい)、授業は続けたものの、テンションは著しく低下した。こういうとき、授業を盛り立てようとして発言する学生は偉い。きっとよい教育者になるであろう。4限の卒論演習を終え、帰りがけに、生協戸山店で以下の本を購入。

  阿部真大『働きすぎる若者たち』(NHK出版)
  岩田正美『現代の貧困』(ちくま新書)
  門倉貴史『ワーキングプア』(宝島社新書)
  加藤陽子『シリーズ日本近現代史5 満州事変から日中戦争』(岩波新書)

  丸善丸の内店に寄り道。こういう日は買物が一番手軽な気分転換である。ロディアのエピュレのブラック(大小)を購入。オレンジは蒲田の東急の文房具店にも置いてあるのだが、ブラックは川崎や大森の丸善でも置いていない。さすがに本店である。それからロディアのロゴが刻印された合皮カヴァー(オレンジ)とセットになったブロックロディアのNo.12とNo.13を購入。私はブロックロディアは一番小さいNo.11を携帯して使っているのだが、本当は一回り大きいNo.12の方が使い易いような気がしている。しかし好みのカヴァーがないので(No.11用のカヴァーは豊富に出回っているのに)、No.11を使ってきたようなところがある。今日購入したオレンジ(裏はブラック)のカヴァーは一目でデザインが気に入った。No.13の方は机上に置いて使う。机上のメモ用としてはNo.13が最適だと思う。
  蒲田に着いて、東急プラザのユーハイムでケーキを買って帰る。29日が息子の19歳の誕生日なのだが、その日は家族全員が夕食のテーブルに着くことができないので、二日早いが、今夜誕生祝をすることにしたのである。メニューは息子の大好物の餃子である。母が、やはり息子の大好物の、赤飯を炊いてくれた。それにしても、あっという間に二十歳目前ということろまで来てしまった。子供の成長はそのままわが身の老いでもあるわけだが、困ったことに(いや、誰が困るということもないだろうが)、その自覚があまりない。やりたいことは山ほどあり、それをするための時間も十分にあるような気がしている。あきらかに錯覚なのであるが、人間というものは各自の欲求というフィルターを通して世界を見ているわけで、それで世界が生き生きと輝いて見えるのであれば、欲求の羊たちの放し飼い(あれもしたい、これもしたい)を止める必要はないだろう。ときに忘れそうになるが、人生は一度しかないのである。

6月26日(火) 曇り

2007-06-27 02:25:27 | Weblog
  今日は会議の予定の入っていない火曜日。会議のない火曜日は8週間ぶりである(前回は5月1日)。もしかして手帳に書き忘れているだけで、何かの会議があるのではなかったかと疑心暗鬼になる。一体、自分がいくつの会議体に所属しているのか、直ぐには思い出せない。週の授業は6つだが、これよりも多いことは間違いない。たぶん。
  今日の午後はずっと自宅でデスクワーク。散歩にも出ず(コンビニに飲み物を買いに出た以外は)、夕食を間に挟んで、5時間ほど大量の書類に目を通す。このペースでいったら全部に目を通すにはこの10倍の時間がかかりそうだ。いや、いくらなんでもそれはあるまい。だんだんペースが上がっていくはずだ、と信じたい。それにしても役所務めをしていたらこういう仕事が日常茶飯なのだろうか。
  深夜、昨日レンタルしておいた『トーク・トゥ・ハー』のDVDを観る。傑作との評判は聞いていたが、見そびれていた作品。先日購入した沢木耕太郎の映画エッセイ『「愛」という言葉を口にできなかった二人のために』の中でも取り上げられていて、それを読んで、これはやはり見ておかねばと思ったしだい。うん、観てよかった。主要な登場人物は4人の男女。4年前の交通事故で昏睡状態にあるバレリーナのアリシン。その世話に当たる看護師のベニグノ。競技中の事故で植物人間になってしまった女闘牛士のリディア。彼女の恋人でフリージャーナリストのマルコ。ベニグノはアリシンの身体を拭きながら彼女にいつも話しかけている。ベニグノにそうするように言われて、マルコもリディアに話しかけるようになる。二組の「トーク・トゥ・ハー」だ。しかし、それぞれの原因で二組の「トーク・トゥ・ハー」に終止符が打たれる。ペニグノは刑務所に入れられ、マルコが面会に行く。話をする二人。その二人の会話にも終止符が打たれるときがくる。しかし最後の最後にアルモドバル監督(脚本も)はもう一つの会話をわれわれに見せてくれる。驚きと救済。そして人生の不思議さ。そういえば二週間前に飯田橋ギンレイホールで観た『あなたになら言える秘密のこと』もアルモドバル監督の作品だった。この人とは相性が良さそうだ。

  「いつかあなたと話したいわ」
  「そうだな。話すことは意外と簡単だ」
  「何事も簡単にはいかないわ」