フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月30日(月) 晴れ

2010-08-31 09:27:12 | Weblog

  9時、起床。コンビニにパンとジュースを買いに出かける。お向かいの家の朝顔が見事に咲いている。蔓が近くの木に巻きついて高いところまで伸びている。奥様の話では、琉球朝顔という品種だそうで、そう言われてみると、南国の趣がある。ハム、レタス、トースト、オレンジジュースの朝食。

  午前中は原稿書き。昼食は冷やし中華。録画しておいたNHKの土曜ドラマ「チャンス」の初回を観る。主演は藤原紀香。
  午後3時に歯科医院へ。最近、ガリガリ君を食べると右下の歯が沁みるので、ちょっと診てもらおうと(虫歯であれば放っておいて自然に治ることはない)、今日の午前中に電話したら、午後3時からなら空いていますと言われ(キャンセルがあったらしい)、さっそく診てもらえることになったのである。歯科は2ヶ月ぶりで、「少し痩せられましたね」と先生に言われる。そのときと比べると2キロほどの減なのだが、減量の効果というのは最初に顔(顎のあたり)に出るのでそう言われるのである。顔の次はウエストで、ズボンがどれも楽にはけるようになった。歯科衛生士の武蔵村山さんからは、「歯がきれいな状態に維持されてますね」とほめてもらえた。歯間ブラシをいつも手の届くところにおいて、PCの画面を見ながら歯の掃除をしている効果だろう。お盆休みに北海道を旅行されたそうだが、北海道も暑かったとのこと。この夏は日本中どこへいっても暑かったに違いない。彼女は私のブログの読者で、「maruharu」のサンドウィッチにとても惹かれている(そういう人は多いみたいである)。早稲田方面に来られる機会があればご案内いたしましょう。歯の沁みる件は、一目見てわかる虫歯というものはなく、知覚過敏が考えられるので、とりあえず歯の表面に薬を塗って様子をみることになった。
  夕方からジムへ。筋トレ2セット、有酸素運動35分。セットプレスの負荷を35キロから38キロに上げる。どうにか踏ん張って2セットとも20回をクリアー。まだまだ行けそうだ。しかし、ラットプルダウンとバタフライは現状の負荷が精一杯。部位によってのびしろの幅に差がある。腹筋は時間の制約上80回を2セット。
  「シャノアール」で一服し、有隣堂で、森絵都『カラフル』(理論社)と『ロマンアルバム 借りぐらしのアリエッティ』(徳間書店)を購入し、TSUTAYAでジョージ・クルーニー主演の『マイレージ、マイライフ』をレンタルして、帰宅。


本を買ったらエコバッグがもらえた(数に限りがあるとのこと)


8月29日(日) 晴れ

2010-08-30 02:05:24 | Weblog

  9時、起床。鳥篭の覆いを取ると、小雀が止まり木に止まっていた。ギブスをしていてもなんとか片方の足の爪で止まれるようになったのか。えらいぞ、チュン。ウィンナーとキャベツの炒め、ご飯、胡麻のふりかけ、冷麦茶の朝食。

  シンポジウム用の発表原稿(25分)の作成に取り掛かる。全体を5つのパートに分けて、各5分を割り当てるとすると、5分で話せる分量というのは400字詰原稿用紙換算で4枚である。だから全体として4枚×5=20枚の発表原稿を用意すればよいことになる。ただし、本番では原稿を棒読みする訳ではない。それは大学の演習で私が学生たちにそれだけはしてはいけないと口をすっぱくして言っていることである。書かれた文章をスラスラと読み上げる発表ほど聞きにくいものはないからである。「読む」のではなく「語る」こと。そのためには20枚の発表原稿を準備した上で、その内容を箇条書きしたサマリーを作成し(時間配分も記入しておく)、そのメモを手元において「語る」のである。注意すべきは、同じ分量の原稿は「読む」よりも「語る」方が時間がかかることである。「読む」と25分の発表原稿は「語る」と30分はかかる。しかし、元々、25分という設定が5分程度の時間超過を見越したものであるから、それでちょうどよいのである。昼食はカップヌードルで済ませ、仕事を続ける。

  昼寝をして、夕方、散歩に出る。気持ちのよい風が吹いている。見上げた空はどこかしら秋めいている。

  「緑のコーヒー豆」でボールディング(清水幾太郎訳)『二十世紀の意味』(岩波新書、1967)を読み、くまざわ書店で杉田敦編『丸山真男コレクション』(平凡社ライブラリー)を購入、帰宅してから、そこに収めれている「二十世紀最大のパラドックス」(1965)を読む。


8月28日(土) 晴れ

2010-08-29 02:49:47 | Weblog

  8時半、起床。予定では明日から4泊5日の金沢旅行に出かけることになっていたのだが、諸般の事情でキャンセルせざるを得なくなった。諸般の事情のうち最大のものは小雀の世話である。普段であれば家族に任せて出かけてしまえばよいのだが、なにしろいまは足にギブスをしている状態である。一日に二度、朝夕に、飲み水に二種類の薬を溶いて与えねばならない。書斎は西日が差し込むので、3時頃にはカーテンを下ろさないと室温が高くなる。場合によっては軽く冷房を入れてやる必要がある。広瀬先生によると小鳥は高温多湿が苦手なのだそうだ。そうとは知らず、8月の中旬までは、冷房は小雀によくないと思って、使うのを自粛していた。おかげで仕事の能率が下がってしまった。仕事の進捗状況がはかばかしくないことも旅行をキャンセルした理由なのだが、結局、その背景には小雀の存在があるわけである。


  朝食兼昼食は「テラス・ドルチェ」のアラビアータ

  午後、キネカ大森で『借りぐらしのアリエッティ』を観る。私はとくにジブリのファンというわけではないが、これはいい作品だと思う。佳作という言葉がピッタリだ。『風の谷のナウシカ』のようなスケールの大きな作品ではない。むしろスケールの小さな作品である。ある夏の一週間、心臓の病気をかかえた少年が、静養のため、東京近郊にある祖母の家に滞在する。その家の床下には小人の一家がひっそりと暮らしている。彼らは自分たちの存在を人間に知られてはならず、もし知られてしまったときは、別の居場所を探さなければならない。それが彼らの掟だ。ある晩、小人の父親と娘(アリエッティ)は「借り」に出かける。「狩り」ではなく「借り」である。角砂糖を1つ、ティッシュを1枚・・・自分たちの生活に必要な最低限のものを調達してくるのだ。ところがそこで娘は少年に見つかってしまう。心のやさしい少年は、娘が落としていった角砂糖を床下の通気口のところに「わすれもの」というメモと一緒に置いておく。しかし、小人の一家は人間からの施しを拒否する。そして引越しの準備を始める。その間、いろいろあって、娘と少年の心の交流が生まれる。そして引越しの朝、娘と少年は別れの言葉を交わす。娘はどこまでも前向きだ。そして少年も生きる希望をもって心臓の手術を受けることを決意する。そんな話だ。
  小人の視点からは、われわれが日常使っている家具や生活用品は巨大である。床からテーブルの上に登るのはロッククライミングのようである。小人たちの生活は慎ましく、そしてたくましい。小人たちの生活がかつての日本人の生活のメタファーであることは明らかである。「借りぐらし」とは所有しない生き方である。借家はその象徴であろう。郊外の庭付き一戸建てのマイホームを志向するようになったあたりから、われわれはゆとりを失い始めたのだろう。住まいの空間的ゆとりを追い求めたために、長い通勤時間や大きな住宅ローンといった時間的・経済的ゆとりを犠牲にする生活に入っていった。こうした消費社会批判はジブリの作品に一貫して見られるものだが、本作においては、それが「小さな」スケールで、まるで向田邦子のドラマのような趣で描かれているわけである。


売店で購入してしまいました

  大森駅前からバスに乗り、池上へ。「甘味あらい」で贅沢あんみつを食べる。氷の方は我慢する。中華料理店でラーメンも炒飯もどちらも食べたい客向けに「半炒飯」というのがあるが、あれの応用で、ハーフサイズの「半氷」というメニューがあるとよいのだが。そうすれば、まずは「半氷イチゴミルク」で暑さを解消し、しかるのちに贅沢あんみつをじっくり味わうだろう。

  自宅までは歩いて帰る。店を出たのが4時35分。自宅到着は5時ちょっと前。早足で25分ほどの距離である。陽射しさえ厳しくなければ、ちょうどよい散歩である。
  一服してからジムへ行く。筋トレ1セットと有酸素運動35分。着替えのシャツを忘れてしまったので、汗びっしょりのシャツを水洗いし、扇風機とドライヤーである程度まで乾かし、それを来て帰ってくる。水気を含んだシャツが風に吹かれて涼しかった。


8月27日(金) 晴れ

2010-08-28 02:47:04 | Weblog

  8時、起床。挽肉のそぼろ煮、レタス、トースト、アイスカフェオレの朝食。

  昼前に家を出て、恵比寿の東京都写真美術館に出かける。受付で友の会の会員証を提示したら、期限が切れていたので、更新する。年会費は2000円、いつも3つやっている展示会のうち、1つか2つは無料で、有料の展示会も2割引になるので、年に2、3回来る機会があるのであれば、会員になっておいた方がいい。今日の展示会は、「私を見て!―ヌードのポートレイト―」(500円→無料)、「おんな―立ち止まらない女性たち―日本写真家協会創立60周年記念展」(700円→560円)、「オノデラユキ 写真の迷宮へ」(700円→無料)の3本立てである。

  最初に観た「私を見て!―ヌードのポートレイト―」は期待外れだった。展示室の出口の付近で年配の男性が係の女性に「これで終り?なんだか気持ち悪い写真がが多かったなあ」と大きな声で文句(感想?)を言っていたが、おそらく彼は若くて美しい女性モデルのヌード写真を期待していたのであろう。私が期待外れというのは、そういう意味ではなくて、全体の構成に統一感がなく、散漫な印象を受けたからである。展示されている150点の作品はすべて東京都写真美術館のコレクションで、2万5千点のコレクションの中から何らかのテーマを決めて、所蔵作品展を継続的に開いているのだが、今回は編集の意図が散漫であったと思う。「第1章 邂逅」「第2章 表現」「第3章 家族」「第4章 自己」という4部構成で、思わせぶりな言葉が並んではいるが、ただそれだけのことで、作品同士の間に響きあうものがなく(私の感度が鈍かったのかもしないが)、個々の作品には観るべきものがあったとしても、一つの展示会として成立しているとはいいがたい。「ヌード」と「ポートレイト」という人気のある言葉にもたれかかって、それで何とかなるだろうと考え、編集が甘くなったのではないだろうか。
  次に観た「おんな―立ち止まらない女性たち―日本写真家協会創立60周年記念展」、これは文句なく面白かった。戦後65年を、「復興の空の下で 1945-59」「高度成長 光と闇と 1960-79」「均等法とバブルの間 1980-95」「成熟と多様化を求めて」の4期に分けて、女性を被写体にした作品だけで構成し、戦後女性史ないし戦後風俗史として編集した展示会である。一次候補となった作品は10数万点。そこから選び抜かれた211点であるから、個々の作品の質は折り紙付で、それらを歴史の時間軸上に配列するのであるから、自ずと変化のベクトルが浮かび上がってくる仕掛けになっている。私の目から見て、強くひきつけられる作品は戦後のある時期までのものに多く、近年になるにつれて少なくなってくる。その理由の1つは、被写体となる女性の表情の喜怒哀楽の深度が浅くなってきていること、もう1つの理由は、社会性のある作品が少なくなってきていることである。すなわち内向化と個人化。これは単に被写体の側の変化を反映したものではなく、写真家の作品に対する考え方をも反映したものであるだろう。


小倉餡のホットサンド(容器の中のものは塩昆布)

  館内のカフェ「シャンブル・クレール」で一服してから、最後に「オノデラユキ 写真の迷宮へ」を観た。写真で遊んでいる感じがいい。キュートでファンタジックな知的遊戯としての写真。ただし、こうした作風は日本では受容されにくいだろう。活動拠点がパリというのもうなずける。

  蒲田に戻り、「石川家食堂」でラーメンを食べる。スープはあっさり醤油味で、麺は細麺でいくらか縮れている。つまり東京の昔ながらのラーメンである。470円。

  夕方からジムに行こうかとも考えたが、少々疲労が身体に残っている感じなので、トレーニングは止めて、美術館のショップで購入した『おんな 立ち止まらない女性たち』(朝日新聞社)を持って「緑のコーヒー豆」へ行き、パラパラと眺めた(展示会で観た211作品が全部収められている)。

  深夜、小雀と戯れる。


Tシャツの袖にしがみつく


雀がゴロリとお腹を見せるのは珍しいのではなかろうか(おまえは犬猫か?) 

 
参考資料(ゴロリとお腹を見せる野良猫なつ)


8月26日(木) 晴れ

2010-08-27 02:44:58 | Weblog

  5時、起床。就寝時刻がいつもより早かったこともあるが(0時頃)、区民会議から帰ってから食べた夕食で、浅利の佃煮をたくさん食べたために、喉が渇いて目が覚めたのである。冷たい麦茶を2杯ほど飲んだら目がはっきり覚めてしまったので、そのまま起きることにした。窓の外を見て、今日は曇り日かと思ったが、そうではなくて、時間が早いためにまだ空が薄暗いのだった。こんな早い時間に起きることがないので、時刻と空の明るさの関係がわからないのである。ちなみに本日の日の出の時刻は5時8分。夏至のときが4時25分だったから、それよりも43分遅くなっている。コンビニにパンを買い出たついでに明け方の街を散歩する。バタートーストと牛乳の朝食。

  朝食をとりながらメールやブログのチェックをしていたら、卒業生のNさんのブログに読み応えのある文章が載っていた。不妊治療を始める決意をしたことを書いたものなのだが、私が感嘆したのは、そうした決意をブログに書こうと決意したことに対してである。
  当初、Nさんはこのことはブログに書かないでおこうと思っていた。けれど最近の自分の心の中の半分くらいを占めていることがらをブログに書かないというのは、ブログがすかすかになるということであり、それは心がすかすかになることだと気がついたというのである。だから自分にとって大切なことは、それを書きたいと思ったときには、書くことにしたと。
  ここには2段階の論理展開がある。第一に、自分の生活の中の大切なこと(気がかりなこと)を書かないでいるとブログがすかすかになるということ。この感覚はブログをやっている者にはわかる。あたりさわりのないことだけを書いているとブログが自分という人間から遊離していってしまう。自分で書いていながら自分のブログだという感覚に乏しくなるのだ。第二に、すかすかのブログを書いていると心がすかすかになってしまうということ。この部分の論理展開がNさん独特のものだ。普通に考えると、心の中の半分くらいを占めていることがらは、たとえブログに書かなくても、あいかわらず心の中の半分くらいを占めているはずである。そうではないとNさんが考えるのはなぜか。Nさんのブログではこの点の説明は省略されているので、私なりに補うと、書くという行為は書こうとしている対象と対峙すること、その対象から目をそらさないで正面から見すえることだからであろう。心の中を占めているものは、それを言語化することによって、輪郭を与えられ、はっきりとした存在になる。逆に、言語化することを避け続けていると、その輪郭は薄れてゆき、存在しないかの如くになっていく。心がすかすかになるとはそういうことをいうのだろう。
  私のインターネットエクスプローラーの「お気に入り」には15人ほどのブログが登録されているが、ブログを修養のための手段として活用している点においてNさんのブログは際立っている。 

  午後、自転車に乗って「甘味あらい」に言ったのだが、入口に貼紙がしてあって、昨日(定休日)と今日の二日間お休みしますとあった。炎天下、自転車を漕ぎながら、「氷イチゴミルクにしようか、氷宇治金時ミルクにしようか・・・」とずっと考えていたので、落胆の度合いは大きい。身体も心もからからになりそうだった。


真昼の決闘の舞台になりそうな人気のない商店街