フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

11月30日(日) 晴れ

2008-11-30 23:59:12 | Weblog
  今日は日曜日だが、文化構想学部の夜間特別枠入試の面接試験が午前中にあり、朝から大学へ出かける。休日出勤だ。休日出勤はこれまでも入試関連ではしばしばあった。しかし、来年度からは、半期15回の授業回数を確保するために、国民の祝日をいくつか潰して授業を行うという「嘘でしょ? 嘘だといってよ、あなた」「ワセダよ、おまえもか」的方策がとられようとしている(もちろん教員組合は反対している)。そうなると、こういう朝の風景を目にする機会も増えるということだ。かつて日本人がエコノミック・アニマルと揶揄され、労働時間の削減が声高に叫ばれた時代があった。学校教育にも週休二日制や「ゆとり教育」が導入された。それがいまや国民の祝日を潰して授業をやれと言われる。隔世の感あり。一身二生とはこのことか。

           
                日曜午前9時の丸の内オアゾ

  面接試験は午前中に終わり、長居は無用と蒲田に帰る。昼食は新規開店の「鈴文」で。私が店に入ったときはそれほどでもなかったが、ランチのとんかつ定食を注文して待っている間に、どんどん客がやってきて、カウンター席は全部埋まり、店内で立って待っている客が数人いるという状態になった。前の店はカウンター席の背後はテーブル席で、空間的にゆったりしていたが、今度の店はカウンター席の背後はすぐ壁で、その壁のところに席が空くのを待っている客が立っている。私はゴルゴ13ことデューク東郷と同じで、背後に立たれることを好まない。落ち着かないのだ。久しぶりの「鈴文」のとんかつだったが、じっくり賞味することができなかった。次は平日に来よう。(夜、二文の卒業生のHさんの夫という方から、土曜の夜に夫婦で「鈴文」に行ってきましたという内容のメールが届いた。Hさん夫妻は私のブログの読者で、かつて蒲田に住んでいたこともあって、「鈴文」や「甘味あらい」のファンである。それが「鈴文」閉店のニュースを聞いて落胆していたが、「鈴文」再開のニュースを知ってさっそく昨日の夜に訪れたというわけだ。おりしも私が「鈴文のとんかつ」VS「妻の炒飯」の間で板ばさみになってまだ「鈴文」を訪れていないと知って、レポートしてくだったのである。それにしても、私は基礎演習の受講生だったHさんのことを覚えているが、Hさんの夫という方には面識はないので、卒業した女子学生の夫からメールをもらうというのは不思議な感じがした。いや、別に、後ろめたいようなことは何もないんですけどね)。

         

  食後の珈琲をルノアールで飲みながら、明後日の演習(現代社会のセラピー文化)で取り上げる水野敬也『夢をかなえるゾウ』(飛鳥新社)を読む。小説の形式をとった自己啓発本で、帯に「150万部突破!」と印刷されている。私の『日常生活の社会学』(学文社)の1000倍である。いや、150万部というのは刷った数ではなくて売れた数であろうから、そうなると2000倍である。う~む。私はページをめくりながら、この本が150万部も売れた理由について一生懸命考えた。たぶん発表を担当する学生たちもそのことを考えているはずだ。この本に登場するガネーシャという名前のゾウに似た神様のキャラの面白さというのが理由の1つであることは間違いないが、TVドラマ版ではそれを古田新太が演じていて、実にピッタリのキャスティングなのである。ところがTV版ではガネーシャの特訓を受ける主人公は水川あさみ演じるOLになっている(小説ではサラリーマンの「僕」)。このことがもっている意味についても考えみる価値は十分にあるだろう。いま、ここで、私が自分の意見を書いてしまうと、せっかく学生たちが自分の頭で考えようとしているのを邪魔することになるので、それは控えておく。ただ、1つだけ、深遠なことを述べれば(よ~く、聞きなさい)、もし本のタイトルが『夢をかなえマス』で、神様が魚のマスに似ているという設定であったら、絶対に150万部は出なかったはずである。これは自信をもって言える。
  有隣堂で、新井素子編『ほしのはじまり 決定版星新一ショートショート』(角川書店)、山田邦紀『明治時代の人生相談』(幻冬舎文庫)を購入。それから今夜は妻と娘の合同誕生日会なので、二人にプレゼントするチョコレートの詰め合わせと、バースデーケーキを東急プラザで買って帰る。

11月29日(土) 晴れ

2008-11-30 02:48:01 | Weblog
  今日の昼食は新規開店の「鈴文」のとんかつ定食と決めていた。朝飯抜きでそれに備えていた。しかし、「鈴文」開店の11時半近くになって、私が外出するべく洗面所で髭を剃っていると、妻が「炒飯を作ってありますから」と言った。うっ・・・。私はできるだけ快活な調子で「ああ、昼飯は「鈴文」で食べるから」と答えた。「そうなの・・・」と妻の顔が一瞬こわばった。そりゃ、そうだよな。「鈴文」のとんかつと妻の炒飯の間で、私は煩悶した。とんかつは食べたし、されど妻の機嫌は損ねたくはなし。煩悶している私をおいて、妻は飼い猫の「はる」をキャリーバッグに入れて、検診のため動物病院へ出かけていった。私は長考の末、妻の作ってくれた炒飯を食べることにした。人生には「鈴文」のとんかつよりも大切なものがある、そう自分に言い聞かせながら、私は炒飯を口に運んだ。食後、ソファーに横になって、耳垢を柔らかくする水薬を左の耳に数滴さした。冷たい刺激が中耳あたりに広がり、すぐに耳の穴が水で塞がれた感覚になった。そのままの姿勢で5分間、時計の針を見つめながら、私は人生というものの奥深さに思いをめぐらせたのだった。
  夕方から、大学でライフコース・アーカイブ研究所の会合。東大の社会科学研究所付属日本社会研究情報センター助教の田辺俊介さんをお招きして、「データアーカイブとは何か」というお話をしていただいた。研究会の後は、高田馬場の「天天飯店」で懇親会。ここは広東料理の系統なのだと思うが、出てくるもの出てくるもの全部美味しい。脂っこくないので、いくらでも食べられる感じがする。最後に、私だけデザートに杏仁豆腐を注文する。本当はそんなことはしたくなかったのだが、みんなが勧めるのでそれに従ったのである。私は大学院生の頃から、中華料理のコースの最後に杏仁豆腐をよく食べていたので、先生や先輩から「杏仁王」と呼ばれるようになった。一旦、そういう名称が定着すると、杏仁豆腐が食べたくて食べているのか、「杏仁王」という期待に応えるために食べているのか、判然としないようなところがあった。今夜も、みんなのまなざしの中で、杏仁豆腐を口に運びながら、私は人の世の定めというものについて考えたのだった。

  来年の手帳を大学から支給された。来年もまた能率手帳(早稲田大学仕様)のお世話になる。

         

11月28日(金) 晴れ

2008-11-29 03:19:57 | Weblog
  午前中、自宅で授業の資料作りをしていたら、学文社から書留が届いた。厚味のある封筒だったので、これが現金だったらいいなと思って開けたら、本当に現金で、一万円札が十数枚入っていた。3月に出版された『日常生活の社会学』(1500部)の印税だった。本を出せば印税が入るのは当たり前なのだが、忘れていた上に、いまは銀行振り込みの時代だから、封筒からいきな現金が出きてびっくりした。ちょうど『社会学年誌』の編集の件で電話をしようと思っていたところだったので、その用件のついでに、いま現金書留を受領しましたと報告をする。「今日は妻の誕生日なので、ちょうどよかったです」とお礼を言うと、編集部のOさんはクスリと笑った。そのとき妻も書斎にいたのだが、電話を切った後で、「またいい夫を演じたわね」と言った。さすがに社会学者の妻だけあって批評が社会学的である(ゴフマンの「印象管理」の概念)。はい、今年度の「夫にしたい社会学者ナンバーワン」を狙っているのです。
  3限の授業(ライフストーリーの社会学)の後、TAのI君と「メーヤウ」で昼食。タイ風レッドカリー(ご飯は普通盛)とラッシー。食後に、冬季限定メニューの珈琲とケーキ(ショコラ)のセットを注文した。セットの代金はわずか300円である。これって、食事をした客だけが注文できるのか、それとも単独でも注文できるのだろうか。隣のテーブルの男子学生はカリーを食べ、女子学生はケーキと珈琲だったので、単独でもOKなのかもしれない。だとしたら画期的な安さである。支払いのとき店の人に確認したかったが、聞きそびれた。ケチと思われたくなかったのかもしれない。印象管理は大切だ。
  生協書店とあゆみブックスで以下の本を購入。

  イアン・パーカー『ラディカル質的心理学』(ナカニシヤ書店)
  ネヴィル・シミントン『精神分析とスピリチュアリティ』(創元社)
  榎本博明・岡田努編『自己心理学1 自己心理学研究の歴史と方法』(金子書房)
  山下範久『現代帝国論』(NHKブックス)
  大澤真幸・北田暁大『歴史の<はじまり>』(左右社)
  見田宗介『まなざしの地獄』(河出書房新社)

  「まなざしの地獄」は1973年に雑誌『展望』に発表された論文で、後に『現代社会の社会意識』(弘文堂、1979)に他の論稿と一緒に収められた。大変に有名な論文で、これを読んで感嘆したという社会学者は多い。今回、「新しい望郷の歌」(1965)を併録して単行本化された。解説を弟子の大澤真幸が書いている。

  「大学二年の秋頃であったかと思う。やはり比較社会学演習で、先生は、予定していた講義の準備ができなかったとおっしゃって、どこかの機関が行った日本全国の若者の意識調査の結果を記したプリントを配られた。「講義の準備が間に合わなかったので、今日は、この調査の結果を解釈してみようと思います」、先生は、授業の冒頭でそう宣せられた。私たちの手元に与えられたのは、どこにでもありそうなアンケートの集計結果であり、いかにも平板に感じられた。調査は凡庸だし、いくら見田先生といえども、付け焼刃的な分析では、たいしたことにはなるまい、私はそう思って期待はしなかった。
  ところが、まったくつまらなく見えたアンケートの集計結果を記した数字の一つひとつに対して先生が繰り出してくる解釈は、実に斬新で、当時の私には思いもよらぬものばかりだったのである。斬新ではあるが、しかし、決して奇抜ではなく、言われてみれば、誰もが思いつく平均的な解釈よりもはるかに説得的だった。それは、回答者がそう答えるに至る背景的な経験への、あるいは質問に接した回答者が感じるであろう逡巡や見栄への、繊細で豊かな想像力に裏打ちされた解釈であった。私は心底驚き、舌を巻いた。私には、あの頃、若さからくる傲慢さがあって、どの学者の講義を聴いても、あの程度の水準ならばそう遠くない将来には到達できる、といった思いをもっていたが、このときの見田先生の解釈を聴いて初めて、自分はあの域に達することができるだろうかという畏れを抱いたのであった。あのときの見田先生が若い私にちらりと垣間見せてくれたもの、それこそ、本書で使われている言葉で表現すれば「統計的事実の実存的意味」である。」(100-101頁)
  蒲田には6時ちょっと前に着いて、耳鼻科の診察時間にギリギリ間に合う。鼓膜に付着した耳垢を除去してもらったが、左の耳に手間取った。結局、除去しきれないで、土日の二日間、左の耳に水薬を差して鼓膜に付着した耳垢を柔らかくしてから除去しましょうということになった。それにしても鼓膜って、触ると痛いものなんですね。ちょっとした拷問だった。もしこれが本物の拷問だったら、私、すぐに白状しちゃいますね。

11月27日(木) 雨のち曇り

2008-11-28 02:38:24 | Weblog
  首・肩の凝りと耳鳴りが辛いので、今日の大学院の演習は休講にする。受講生はそれぞれ卒論、修論、博論報告会の準備に追われている時期なので、休講を残念に思う者はいないだろう。その点は気が楽だ。それにしてもこんなにひどい首・肩の凝り(+耳鳴り)は久しぶりだ。夏休み明け以来の運動不足に加えて、かかわっている仕事のいくつかで少々面倒な事態が発生していることが原因かもしれない。できるだけシンプルライフを心がけているつもりだが、浮世の義理で引き受けざるを得ない仕事というものがあり、それでも自分一人の裁量で切り盛りできる仕事ならば気楽だが、チームを組んでやる仕事の場合は当初のプラン通りに進まなくてイライラ、ヤキモキすることがある。たまに胃が痛み、しばしば首・肩が凝る。胃の痛みには「温めた牛乳に蜂蜜をスプーン一杯」という特効薬があるのだが、首・肩の凝りはやっかいで、貼り薬もマッサージチェアもあまり効かない。ジムでの運動が筋肉をほぐし血行をよくするので一番いいように思えるのだが、いかんせん学期中はジムに行く時間がなかなかとれない。せいぜい風呂にゆっくり浸かるくらいである。鍼とか試してみようかしら。ちなみに「薬石効なく」の「石」とは「石鍼」(石で作った鍼)のことである。
  昼食(インスタントラーメン)のとき、TVを点けたら、ヒッチコックの『鳥』をやっていた。1963年の作品で、子どもの頃に見たときは鳥の攻撃の場面ばかりが記憶に残ったが、いま観ると、人間関係を描いている部分も興味深い。若い女がサンフランシスコで知り合った男を追いかけて町にやってきた日と鳥の攻撃が始まった日がたまたま同じだったことから、住民たちがその女を魔性の女としてみるようになる場面は、ちょっとゾッとした。反対に、最初はその若い女のことを嫌っていて男の母親がしだいに女のことを気遣うようになっていくのは、困難な状況を一緒に体験した者同士の間でしばしば見られる現象だ。男は全力で女子供を守る。女たちが彼に惚れるのもわかるというものだ。
  夜、明日の授業(ライフストーリーの社会学)の資料をコースナビにアップロードしてから、「風のガーデン」を観る。次回はいよいよ父(緒形拳)と息子(中井貴一)が対面する。

11月26日(水) 晴れ

2008-11-27 01:53:24 | Weblog
  最近、耳の調子が悪い。耳が遠くなったとかではなく、耳鳴りがするのである。耳鳴り自体は子どもの頃からあって、聴力検査で無音の部屋に入ったりすると周囲の音がカットされるぶんだけ耳鳴りの音が大きくなる。聴力検査の信号音とは波長が違うので、検査に支障はないのだが、それでもかなりの集中を必要とする。耳鳴りの原因はわからないが、首の筋肉が凝っているときは耳鳴りも大きくなるので、自律神経と関係しているのかもしれない。基本的に始終鳴っているので馴れてしてまっているが、それでも大小の波があり、このところ大きいのである。慣れてしまっているといえば、それは目の方にもあてはまる。30代の頃に蚊文症というやつにかかり、視界に糸くずのようなものが見えて、最初はひどくうっとうしかったが、しばらくしたら気にならなくなった。馴れ、すなわち人間の適応能力はすごいと妙に感心してしまった。他にも、右肩は10年ほど前のスキーの怪我の後遺症でボールの遠投ができない。左の足首は高校生のときにバスケットボールをやっているときに捻挫をしてから捻挫しやすい状態になっている。たぶんみんな似たようなもので、一つしかない身体をだましだまし使っているのだろう。
  母が島忠家具センター(千鳥町)で玄関前に飾る鉢植えの花を買いたいというので、運搬係として自転車を漕いで行く(母はバスで)。これまでは「サッチモ」さんに頼んでいたのだが、「サッチモ」さんが閉店したので、かといってすぐに別の花屋さんに乗り換えるのもおっくうなのだろう。自転車の前と後ろの籠に積めるだけ積んで、残りの数鉢は母が手に提げて帰宅した。私は花より団子、いや、ケーキで、帰り道、女塚通り商店街の「ルモンド」でマロンケーキとエクレアを購入した。