フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2005年3月(後半)

2005-03-31 23:59:59 | Weblog

3.16(水)

一昨日仕上げたつもりの原稿、分析対象サンプルの抽出のやり方にちょっとしたミスがあることが発覚。基本的傾向に大きな変化はないので文章(考察部分)の修正は少ないのだが、集計作業と図表の作成は全部やり直し。明け方近くまでかかる。フゥ~。

 

3.17(木)

 午後2時から全国家族調査(NFRJ-S01)の第二次報告書の検討会。出席者は7名。ほとんど休みなく各原稿の報告と質疑応答が行われ、終了したのは午後7時半。いや、お疲れ様である。今日の検討を踏まえて、修正原稿の締切は3月31日ということになった。メンバーが帰った後、会合の終わるのをずっと待っていてくれた学生の面談。就活と卒論の話を研究室で1時間半ほど。10時、帰宅。腹ぺこでカレーライスのお代わりをした。しかも、2回。これでは体重が落ちないわけです。

 

3.18(金)

 午前中、鶯谷の泰寿院にお彼岸の墓参り。午後、研究室で調査実習の報告書の原稿(5つの班から提出された原稿)の校正作業。A4用紙打ち出し165枚。今日中に終わる予定であったが、一つの班のファイルに不具合があり、開くことも修正することもできるのだが、修正したものを保存したり印字したりができない。パソコンを替えてやってみても結果は同じ。ファイルを作成した学生に電話をして確かめたところ、彼のパソコンの中のファイルも同じ不具合があることがわかった。どうやらファイルを開いて作業をしているときにフリーズしてしまい、強制的に終了した際にファイルの一部が壊れたらしい。ファイルを作成する一段階前の複数のファイルに立ち戻って、もう一度ファイルを作り成してもらうことになった。このところ校正作業にずっとつき合ってもらっているIさんと大学を出たのは、午後10時半(閉門時間)を回った頃だった。夜風が身にしみる。

 

3.19(土)

 午後、大学で会合が2つ。会合の合間に生協文学部店をのぞくと、新学期を控えて、各科目の教科書がうずたかく積まれている。私が二文の基礎演習の教科書に指定したギデンズ『社会学』(第4版)も十数冊平積みになっていた。あの分厚い本(4.5センチ)がそれだけ積まれているとなかなか壮観だ。石柱のようでもあり、道標のようでもある。授業のたびにこの分厚い本を鞄に入れて持ってくるというのは、けっこう大変かもしれない。いや、私は書斎と研究室に一冊ずつ置いてあるからいいんですけどね。でも、その大変さ、その重さが、「よ~し、勉強するぞ」という気持を高めてくれるのではないだろうか。これ、楽観的でしょうかね。もしかしたら、その分厚さと3600円という値段に恐れをなして(私からすれば厚さの割に安いと感じるのだが、新入生はそうは思うまい)、履修者が例年より減るかもしれない。そのときはそのときで、少人数の演習らしい演習になるから決して悪くはない。初回の授業で全員の名前を覚えられる規模というのが演習には最適なのだ。具体的にそれは何人くらいかというと、私の場合、10~15人くらいでしょうか。授業の最初に全員に自己紹介をしてもらって、これからの授業の進め方なんかについて話をして、時間が来たら、「では、また来週。○○君、△△さん、××君・・・・」と一人一人の学生の顔を見ながら(名簿を見ることなく)言えたら、相当にかっこいいんじゃないかと、密かに思っているわけです。

 

3.20(日)

 ホームページの「講義記録」の更新。昨年度分を削除し、新年度の時間割を掲載する。(1)授業は木・金・土の週3日。これに各種の会議(火)が加わって、大学に来るのは原則として週4日である。念のために言っておくと、これは週休3日ということではない。世間からはよく誤解され、あろうことか家族からもよく誤解されるのだが、「自宅にいる日=休日」ではないのである。妻から「明日はお休み?」と聞かれる度に、私は「大学へは行かないが、お休みではない」と答え、妻の啓蒙に努めている。(2)担当科目数は前期が7、後期が8。これ、私が1994年に早稲田大学に来てから最多である。ただし、放送大学から早稲田大学に移籍したその年は、放送大学の面接授業や他大学の非常勤を引きずっていたので、週の担当科目が10(早稲田大学では5)もあった。人間は苦しいとき、過去のもっと苦しかった時期を思い出し、「あのときの苦しさに比べれば、いまは・・・・」と自分を慰め、励ます動物である。回想的=物語的動物なのである。私もそうしようと思うが、当時と現在の年齢を考慮に入れると、40歳のときの10科目と51歳のときの8科目は負荷量にあまり違いはないのではなかろうかという気もする。せめて授業期間中の忙しさを少しでも緩和するため、いまのうちに前期の授業の準備(講義ノートや教材の作成)をできるだけやっておこう。なんて殊勝な心がけだろう。「春休み=休暇」ではないのである。

 

3.21(月)

 あたたかなよい天気の一日だったが、昨日に続いて今日も一歩も外に出なかった。別に風邪気味というわけではない。先週、大学に出る日が多かったので、その反動であろう。二日分の無精髭を見て妻曰く、「解放された韋駄天の船長さんみたい」。ギデンズ『社会学』の読書会の下調べ。第8章「犯罪と逸脱」。訳書で43頁あり、これまでで一番長く(二段組みなので普通の新書の半分の量はある)、関連事項をインターネットで調べながら読んでいたら(これはやりだすと切りがない)、半日かかった。しかし、なかなか興味深い内容だった。社会学の基本問題の1つに秩序問題というのがある。「秩序はなぜ成り立つのか」=「人々はなぜ規範的に行為するのか」という問題である。犯罪や逸脱を扱うということは、この秩序問題に反対の側からアプローチするということである。社会の成員は逸脱者と同調者に二分されるわけではない。われわれはみんな多かれ少なかれ、日常生活の中で、多少の逸脱的行為はしているはずである。ただ、その逸脱的行為が他者の目にふれないでいるため、あるいは逸脱の程度が甚だしくはないため、逸脱者(犯罪者や変質者や危険人物)扱いされずにすんでいるだけの話である。われわれの日常生活は微妙なバランスの上にかろうじて成り立っているのだ。大部分の人間が犯罪を起こさないのは、犯罪を起こした場合に自分や自分の身内が社会からどのように扱われるのかを知っているからであろう。なぜそれを知っているのかといえば、類似の実例をたくさん見聞してきているからである。予想される事態が逸脱の抑制要因として働いているのだ。たとえば、私が今日一歩も外へ出なかったのは、読書の時間を減らしたくないこともあったが、髭を剃るのが面倒だったからもある。無精髭のままで本屋やコンビニに入っていくと、店員から「招かれざる客」を見るような目で見られるのである。少なくともそういう気がするのである。それは自意識過剰だと人は言うかもしれない。しかし、自意識というものは、本来、過剰なものなのである。過剰な自意識、言い換えれば、他者からよく見られたいという気持があるから、大部分の人間は犯罪者の烙印を押されずに一生を終わるのである。では、一部の人間が犯罪を起こしてしまうのはなぜか。ギデンズは、機能主義理論、相互行為理論、葛藤理論、統制理論という社会学の4つの理論からの説明を比較検討している。社会学に関心のある人は、一読されるとよい。社会学的思考の醍醐味を味わうことができるはずだ。

 

3.22(火)

 正午から社会・人間系専修の会議。それが終わって、その足で453教室の社会学専修の科目登録ガイダンスへ。調査実習(社会学演習ⅢABCD)の説明。私はDクラスの担当なので4番目に話をするのだと思いこんでいたら、あいうえお順ということで最初に話をさせられる。一人の持ち時間が何分なのかわからないまま、キーワードである「人生の物語」の説明を中心に話をして席に戻ったが、後から他の先生方に、「大久保先生、話が長いです」「講義が始まったのかと思いました」と言われる。えっ、そうだった? 10分くらいしか話してないんじゃないかな。しかし、そう言われてみると、私の後の先生方はみんな3分くらいで話を終えていたような気がしないでもない。今日は夕方から社会学専修の教員懇親会があるので、それまでの時間を生協で買ったばかりの山下清美ほか『ウェブログの心理学』(NTT出版、2005)を読んで過ごす。懇親会は馬場下の交差点からちょっと高田馬場方面へ歩いたところにある「葉歩花亭」(はぶかてい)で。ここは「門波」(もなみ)という名前のイタリアンレストランがあった場所で、一時は毎週のように来ていたのだが、しばらく前に店仕舞いをしてしまった。「葉歩花亭」は和風ビストロとでもいった感じの店で、入るのは今日が初めて。鰹のタタキのマリネが美味しかった。懇親会は9時頃にお開きになり、それから長谷先生と助手の方は大学へ戻って2年生と3年生の演習の振り分け作業をするというので、私もつき合う。大学を出たのは10時半ごろ。あゆみブックスで、小谷野敦『恋愛の昭和史』(文藝春秋)、『文學界』4月号、『小説現代』4月号を購入。

 

3.23(水)

 雨の中、傘を差して、「やぶ久」に昼食を食べに出る。いつものようにすき焼きうどん。サービスでついてくる温泉たまごをぐつぐつの鍋の中に入れる。もともと鍋の中にはたまごが1個入っているので、たまご2つというのは贅沢というか、高カロリーが心配なのだが、関東風の濃い汁で煮込んだうどんにトロリとしたたまごの黄身がからまると実に旨いのだ。ラオックスで注文しておいたプリンターのトナーを受け取り、キシフォートでカラーフィルムを3本購入し、栄松堂書店で新書の新刊を6冊と文芸雑誌を2冊購入。

 『文學界』4月号の「村上春樹ロングインタビュー」を読む。主として『アフターダーク』をめぐっての話だったが、『新潮』3月号で始まった短篇連作『東京奇譚集』のことも話題にされていて、そこで彼が短編小説作法みたいなことを話しているのが興味深かった。

・・・集中して短篇小説を書こうとする場合、書く前にポイントを二十くらいつくって用意しておきます。・・・・何でもいいんです。なるべく意味のないことがいい。たとえば、そうだな、「サルと将棋を指す」とか「靴が脱げて地下鉄に乗り遅れる」とか「五時のあとに三時が来る」とか(笑)。そうやって脈絡なく頭に浮かんがことを二十ほど書き留めておくんです。リストにしておく、それで短篇を五本書くとしたら、そこにある二十の項目の中から三つを取り出し、それを組み合わせて一つの話をつくります。そうすると五本分で十五項目を使うわけですね。そして残った五つは、使わなかったものとして捨てるわけ。不思議だけど、こうやると短篇小説ってわりにすらすら書けてしまいます。いつも多かれ少なかれそういうやり方で短篇を書くんですが、今回はとくに意識的に、そういうシステムをきっちりつくって作業を進めました。・・・・三題噺ってありますね、原理としてはあれに近いかもしれない。僕の場合は誰かから与えられるんじゃくなくて、自分の中から自発的に、潜在的に出ていたものなので、そこは根本的に違いますけど。・・・・そういう一見して脈絡のないランドマークみたいなものを、ところどころにポッと浮かべて話を書いていくというのが、自分でもすごく刺激的で、おもしろいんです。自分の中で浮かび上がってきたブイは、それだけ内的な必然性があるわけだから、結果的にすべては自然におさまっていくというか、そのブイの存在によって話がどんどんインスパイアされていく。ものごとの連続性が明らかになっていく。今回はとくにそういう書き方をしたんです。読んでいる人はたぶんどれがブイなのか、わからないと思いますけれど。なにしろ脈絡みたいなものがないから。枚数もきっちり決めてやっていて、六十枚と決めたら、ぴったりそのとおりに書きます。

 私は彼の短編小説のファンである。もちろん、中編小説も長編小説も全部読んでいるのだが、折に触れて読み返すのは短編小説だ。『中国行きのスロウ・ボート』や『回転木馬のデッドヒート』、最近では『神の子どもたちはみな踊る』、どれも味わい深い短篇小説集だ。それらはこんなふうにして作られていたのか。知らなかったなぁ。実をいうと、私が90分の講義を組み立てるとき(一応、事前にプロットを書いたメモを作成する)、たぶんこれと同じ方法論でやっているのである。つまりあるテーマについて話をする場合、ポイントとなるような話題、素材、データ(これらはふだんから収集している)を書き出して、その中から3つくらいをピックアップする。これは多すぎてもいけないし(話が散漫になる)、少なすぎてもいけない(話が単調になる)。90分の講義であれば、3つくらいが最適であることが経験的にわかっている。次に、その3つほどのポイントをどうつなげて(どういう順序で、どういう論理で、どういう時間配分で)話を展開するかを考える。最後に、話がスラスラ進みすぎて、時間が余ってしまった場合の予備の話と、反対に思ったより話の展開に時間がかかり、そのままだと時間内に結末に辿り着きそうにない場合の割愛箇所をチェックしておく。そうやって授業に臨むのである。・・・・そうか、90分の講義というのは短編作品で、半期の講義というのは十数回の短篇連作みたいなものなのだなと、妙に納得してしまった。

 インタビューを読み終えてから、『新潮』4月号の村上春樹「ハナレイ・ベイ」(東京奇譚集2)を読む。19歳の息子がハワイでサーフィンをしているときに鮫に襲われて死んでしまった女性(サチ)が、毎年、その時期に3週間ほど休暇をとってその町で過ごすという話。前号の「偶然の恋人」より今回の方が物語により奥行きが感じられる。で、読みながら、どうしても、「3つのブイはどれだろう」と考えてしまう。1つはたぶんこの箇所だろう。

 ・・・・彼女は火葬を許可する書類にサインをした。そのための費用を支払った。

 「アメリカン・エクスプレスしかないんですが」とサチは言った。

 「アメリカン・エクスプレスでけっこうです」と警官は言った。

 私はアメリカン・エクスプレスで息子の火葬の料金を支払っているのだ、とサチは思った。それは彼女にとってずいぶん非現実的なことに思えた。息子が鮫に襲われて死んだというのと同じくらい、現実味を欠いていた。火葬は翌日の午前中に行われるということだった。

 この短篇小説を読んでいて、最初にハッとしたのがこの箇所だった。「アメリカン・エクスプレスで息子の火葬料の支払いをする母親」というブイだ。2つ目のブイはたぶん次の箇所にある。それは彼女がプロのジャズピアニストになるのを断念した事情が回想的に語られる箇所だ。

 彼女にはもともと絶対音階が備わっていたし、耳も人並み外れてよかった。どんメロディーでも一度聴けば、それをすぐに鍵盤のパターンに移し替えることができた。そのメロディーに合ったコードを見つけることもできた。誰に習ったわけでもないのに、十本の指は滑らかに動いた。彼女はピアノを弾く才能が生まれつき自然に備わっていたのだ。・・・・(中略)・・・・しかしサチはプロのピアニストにはなれそうになかった。彼女にできるのはオリジナルを正確にコピーすることだけだったからだ。そこにあるものを、そこにあるとおりに弾くことは簡単だった。しかし自分自身の音楽を作り出すことができない。自由に弾いていいと言われても、何をどう弾けばいいのかわからない。自由に弾き始めると、それは結局のところ、何かのコピーになってしまった。彼女はまた、楽譜を読むのが苦手だった。細かく書きこまれた楽譜を前にすると、ひどく息苦しくなった。実際の音を聴いて、それをそのままピアノの鍵盤に移し替える方が遙かに楽だった。これじゃピアニストとしてはとてもやっていけない、と彼女は思った。

 「絶対音階はあるがオリジナリティに欠けるピアニスト」というブイだ。ここを読んでいて、さきほどロングインタビューの中で村上が引用していたシェーンベルクの言葉を思い出した。「音楽というのは楽譜で観念として読むものだ。実際の音は邪魔だ」。さて、2つ目のブイまではかなりの自信をもって「これがブイだ」と指摘できるのだが、3つ目がわからない。それらしきものがいくつかあるのだが、確信がない。その中の1つに「女の子とうまくやる3つの方法」というのがある。知りたいでしょ。男の子なら。でも、引用しません。なぜかというと、読んで驚いたのだが、その3つの方法というのは、私が常日頃半ば意識的に半ば無意識のうちに採用している方法と同じものだったからだ。短編小説と講義の組み立て方の類似といい、村上春樹とはずいぶんと相性がいいわけだ。

 

3.24(木)

 気づいたら私の書斎の壁にディズニーのキャラクターのカレンダーが掛けられていた。妻の仕業である。書斎には机が二つあって、私がいつも座る机の上のプリンターの側面には小さなカレンダーパネル(今月分と来月分)が貼ってあるのだが、妻が通販商品をネットで購入するためにノートパソコンを使う机の周りにはカレンダーがなく、不便だと言っていた。書斎には装飾的なものは持ち込まないのが私の主義なのだが、なんだ、なんだ、このカレンダーは。しかも第一生命からのもらいものじゃないか(企業名の入ったカレンダーを使わないのも私の主義である)。これは書斎の支配権への明らかな介入である。なんとかしなければ。

村上春樹の『東京奇譚集』が掲載されている『新潮』4月号に、村上の小説の翻訳や研究で知られるハーバード大学教授(日本文学)ジェイ・ルービンの「芥川は世界文学となりえるか?」が載っている。イギリスの老舗出版社ペンギンから芥川龍之介選集(収録作品は18、すべてルービンによる新訳)を出すことになった一部始終が書かれているのだが、出版にあたってペンギンの編集者がルービンに注文したことが2つあったそうだ。1つは、序文を村上春樹に書いてもらうこと。もう1つは、選集のタイトルに「ラショーモン」の語を入れること。前者は海外におけるHaruki Murakamiの人気を物語るものであり、後者は芥川龍之介という名前は海外では黒沢明の映画『羅生門』の原作者として知られていることを示すものである。村上はこの仕事を引き受け、選集のタイトルは『ラショーモン:芥川龍之介による十八の物語』となる予定だという。興味深かったのは、ルービンが18の作品を選んだ際の基準である。

 私が選んだのは、小説世界に入っていきやすいー普遍的ということだー自立している作品だった。それは単にこれまで芥川の最も「重要な」作品としてランクされてきた作品ということではない(最終的にそうした代表作のいくつかは、出色の出来ばえという理由で選集に入れる結論を出したのだが)。私が個人的におもしろみを見出せなかった作品(有名どころを挙げれば「芋粥」)、また作品の眼目が、日本の一般読者にのみ知られている事件や人物に対する芥川独自の解釈にあるものーたとえば西郷隆盛や乃木希典といった明治の偉人たちを扱った作品、あるいは「素戔鳴尊」や「袈裟と盛遠」のように伝説を題材とした作品―は翻訳から除くことにした。ロメオの名前を聞いたこともない人間が、実はロメオが死んでいなかったという仮定のもとに書かれた小説を読むことを想像してみればよい。ただ一例(「龍」)においてのみ、小説の導入部と結末部の枠組みをあえて取り去って、愉快な物語の中身だけを提示するようにした。その枠組みは、中世の説話集に詳しい日本人読者以外にはほとんど意味のないものだからである。それ以外はすべて小説の全体を翻訳している。

 芥川をペンギン・クラシックに代表される「世界文学」にふさわしい作家として提示するに際して、私はこのように、日本人読者しか十分に味わえない側面を排除した。しかしそれ以外の物語について、再演ミスはなかったと信じる。私はできるかぎり原作に忠実に翻訳を行い、外国人読者に近づきやすくするために、おびただしい数の註をつけ加えた。今回の訳書に入れた作品は芥川のベストであると信じる。そして私はまた、日本の読者だけに好まれる小説が芥川のベストではないと信じる。

 ルービンは、芥川の前期の傑作は「地獄変」で、後期の傑作は「歯車」だと語っている。そして、もし一作だけを選ぶならば「地獄変」を選ぶとのことだ。書庫で埃をかぶっている『芥川龍之介全集』(筑摩書房、1971)を久しぶりに手に取りたくなった。ちなみにペンギンの本は2006年の初頭に刊行の予定だそうだ。芥川の作品をわざわざ英訳で読みたいとは思わないが、村上の序文はぜひ読んでみたい。ルービンによれば、村上はこの仕事のために膨大な時間を使って芥川を再読再考し、日本の一般的な読書人にとって、そして作家としての自分にとって、芥川がいかなる重要性をもつかをつぶさに語っているそうだ。

 

3.25(金)

 大学の卒業式。まず、一文の社会学専修の学位記(卒業証書)授与式に出る。この代は、2年生のときの演習、3年生のときの調査実習、4年生のときの卒論、そして2年~4年の研究(講義)とけっこう付き合いのあった代である。専修主任の長谷先生がひとりひとりの名前を読み上げて学位記を渡している様子を見ながら、ああ彼か、ああ彼女か、と大小のエピソードを思い出していた。乾杯の後、たくさんの学生と記念写真を撮った。ふと気づくと目の前に、4年前、二文の私の基礎演習の学生だったMさんがいた。彼女は2年生になるとき一文の東洋史専修に転部し、今日、卒業を迎え、わざわざ挨拶に来てくれたのだ。彼女は入学したときから将来は放送業界で働きたいと言っていたが、希望通り、この4月からNHKで働くことが決まった。同じ基礎演習の学生だったY君もNHKに就職したそうで、同じクラスから2人とは驚いた。文カフェで開かれている二文の卒業パーティーに顔を出す。基礎演習のときの学生がいないか会場を見渡していたら、N君、Aさん、もう一人のAさん、Iさん、Yさんが私を見つけてやってきた。久しぶりの顔である。夜、新宿ワシントンホテルで社会学専修の謝恩会。歓談、談笑していても、謝恩会というのはどこかしんみりしたところがある。みんな、お元気で。

 

3.26(土)

 毎年、いまの時期は、気分が沈みがちである。卒業生を送り出し、新しい学生との付き合いが始まるまでの一種のエアポケットのような時期である。ただ、私の周りには花粉症で浮かない顔をしている人が多いので、沈んだ顔をしていてもそれほど目立たずにすむ。午前、妹と甥っ子がやってきた。甥っ子は4月から大学生である。希望していた大学に合格し、清々しい顔をしている。午後、ギデンズ『社会学』の読書会があるので、元気を出して大学に出る。学生の前に出るときは沈んだ気分は払拭しなければならない。いや、おそらく事情は逆で、学生の前に出る機会が多いことが気分の過度の落ち込みを防いでくれているのだろう。中の下くらいの気分で踏みとどまりながら、4月中旬の授業開始までに、徐々に気分を高め、同時に、徐々に体重を落としていなかくてはならない。

 

3.29(火)

 家族とスキーに行ってきた。越後湯沢からバスで50分ほどの中魚沼郡津南町にあるスキー場で、今度高2になる長男が2、3歳の頃から毎年行っている場所だが、去年は長女の大学受験等があって行けなかったので、滑るのは2年ぶりである。天気予報では、2日目の午後から雨とのことだったので、初日の午後と2日目の午前中、休憩らしい休憩もとらず(がそれを許してくれず)目一杯滑ったのだが、2日目の午後になっても天気は一向に崩れず、結局、最終日の午前中までフルに滑った。普段、運動らしい運動をまったくしない私にとっては、ハードな3日間だった。

 スキー場に滞在中、スキー以外に私にはもう一つ課題があった。ワニたたきゲームでハイスコアーを出すことである。ホテル内の大浴場の入口付近はゲームセンターになっていて、ここにワニたたきゲームが一台置かれている。ワニたたきゲームとは、もぐらたたきゲームの系譜に属する動体視力と反射神経を競うゲームであるが、一部の人々の間で、私は若い頃からもぐらたたきゲームの名手として知られていた。ゲーム台に電光掲示されているその日のハイスコアーを更新すること、それが私のミッションだった。2日目の夕方、風呂から上がって、ワニたたきゲームのところに行くと、その日のハイスコアーは「84」と表示されていた。並の数値である。私はハンマーを手にして、ゲーム機に100円硬貨を挿入し、左右の足に体重を均等に乗せ、心持ち腰を落とした。ゲームの開始を知らせる音楽が鳴った。近くにいた子どもたちが集まってきた。舞台は整った。横一列に並んだ穴からワニが次々に顔を出す。その口の部分を正確にハンマーでたたいていく。その度に「イテッ!」という音声が発せられ、電光掲示板の数値が1ポイント上がる。ワニの動作は初め緩慢で、しだいに敏捷になっていく。ハイスコアーが出るかどうかは、「モウオコッタゾ!」という音声を合図に展開される残り20秒の攻防戦にかかっている。途中、その日のハイスコアーの「84」を更新したところで、子どもたちから小さな悲鳴があがった。どうやら「84」は彼らのスコアーだったようだ。悪いな、坊や。スコアーは最終的に「92」まで行った(ヒット数は93だったが、防御ラインを越えられたワニが一匹いたので-1)。悪くない数値だった。子どもたちの畏敬のまなざしの中、私はハンマーを静かに置いて、クリント・イーストウッド演じる伝説のガンマンのように、夕日を背中に浴びながらゲームセンターを立ち去ったのだった。

 

3.30(水)

 スキーに行く列車の中で読み始めた加藤周一・凡人会『テロリズムと日常性』(青木書店、2002)を読み終わる。最初に読んだ加藤周一の本は『羊の歌』(岩波新書)だったと思う。大学に入学して間もない頃のことで、友人から勧められて読んだのだと記憶している。内容は自伝なのだが、とにかくその文体の印象が強烈だった。いや、私に日本語の文体というものを意識させた最初の本が『羊の歌』だったと言った方が適切だろう。それまでも、星新一、北杜夫、志賀直哉、庄司薫・・・・と好きな作家はいた。しかし、彼らの文章が好きというとき、その文章と内容と文体の魅力は分かちがたく結びついていた。それに対して、加藤周一の文体の魅力は文章の内容とは独立に存在するものであった。たとえば、小学生の頃の読書体験を語ったこんな一節。

 私の読んだ本が、自然科学について語り、心理学や歴史と社会の学問について語らなかったのは、私にとっての偶然に過ぎない。社会科学的なもうひとりの原田三夫がいたら、私は銀河系宇宙の構造に対してと全く同様に、黒人アフリカの部落の構造に対しても、好奇心を刺戟されていたことであろう。私の最初に覚えた外国語はーそれは呪文のような響きを備え、神秘的な雰囲気を伴っていたのだがー直立猿人を意味する羅甸語ではなく、たとえば共同体を意味する現代の西洋語、ゲマインシャフトであったかもしれない。しかしそれは大きなちがいではなかった。子供の私は本のなかで、自然科学を学んだのではなく、世界を解釈することのよろこびを知ったのである。その後ながく私は、世界が解釈することのできるものだということを、世界の構造には秩序があるということを、決して疑ったことがなかった。

 たとえば、また、終戦直後の心情を語ったこんな一節。

 焼き払われた東京には、人の心を打つ廃墟も、水火に堪えて生き残った観念も、言葉もない。ただ巨大な徒労の消え去った後に限りない空虚があるばかりだ、と私は思った。しかしもはや、嘘も、にせものもない世界―広い夕焼けの空は、ほんとうの空であり、瓦礫の間にのびた夏草はほんとうの夏草である。ほんとうのものは、たとえ焼跡であっても、嘘でかためた宮殿より、美しいだろう。私はそのとき希望にあふれていた。私はそのときほど日本国の将来について、楽天的であり、みずから何ごとかをなさんとする勇気にみちていたことはなかった。私はまだ何ごともはじめていなかったのだから、悲観的になるはずもなかった。そして東条内閣の閣僚たちは、まだ戦後日本の指導者として返り咲いてはいなかったから、たしかに希望もあったのである。足りなかったのは、食糧である。しかし人はパンのみで生くるものではない。

 一言で言えば、加藤周一の文体の魅力とは、知的なレトリックの魅力である。それは中学生には難しいだろうし、社会人にはおそらく嫌味に感じられるだろう。しかし、大学の文学部の新入生にはとても小気味よいものであった。『羊の歌』に感激した私は、当時加藤が『朝日ジャーナル』に連載していた『日本文学史序説』を毎号貪るようにして読んだ。そして、読むだけでなく、その文体を模倣して文章を書いた。卒論を含めて、私が学部時代に書いたレポートの多くは加藤周一のモノマネであるといっても過言ではない。それにしても、加藤は1919年(大正8年)の生まれだから、今年で86歳になるわけだが、朝日新聞の夕刊に月に一度「夕陽妄語」という評論を寄せていて、この連載は実に20年も続いている。なんと長い夕陽であることだろう。

 

3.31(木)

 調査実習の報告書の印刷・製本の費用の見積が出る。ライフストーリー・インタビュー記録(約400頁)を報告書に盛り込んだ場合と学生のレポート(約300頁)のみの場合、2通り見積を出してもらったところ(数量は200冊)、前者は約91万円、後者は約31万円となった。700頁超の報告書(一文の講義要項並である)となると製本代がかかるそうで、むしろ二分冊にした方が安いくらいなのだが、いずれにしろ実習費の残額から考えて後者でいくほかはない。インタビュー記録はPDFファイルにして付録のCD-Rに収めることにしよう。さっそく量販店に行って、CD-Rとソフトケース(各200枚)を仕入れてこなければ。


2005年3月(前半)

2005-03-15 23:59:59 | Weblog

3.1(火)

 午後、研究室で調査実習の報告書の原稿の校正作業。Iさん、Fさん、Sさん、途中からMさんも参加。同じ原稿を2人が読んでチェックをかける。どの原稿も必ずといっていいほど何かしらミスがある。ミスがあること自体はしかたがない。人間の仕事だからミスはつきものである。発見されたミスは修正すればいい。問題は自分が書いた原稿に対する愛着、こだわり、責任の有無である。そういったものが原稿を読んでいて感じられるかどうかである。感じられない場合、どうするかというと、どうすることもできないのである。これは修正が効かない。技術の問題ではないからだ。いや、ある程度までは技術の問題かもしれない。それなりの文章力があれば、何もない文章を何かしら意味ありげに見せかけることはできる。しかし、それも所詮ある程度までだ。最後にものをいうのは、書き手の思い入れの強さである。「五郎八」で食事をして本日は解散。次回の校正作業は5日の土曜日。たぶんそれで終わるだろう。

 

3.2(水)

 昨日まで土日を含めて6日連続で大学に出ていたが、今日はひさしぶりで自宅で過ごす。寝不足気味なのと校正作業で目を酷使しているせいだろう、昨日から右の瞼がときどきピクピク痙攣する。明後日の読書会の下調べを済ませて、夕方、散歩に出る。ラオックスに「一太郎2005と花子2005(+三四郎2005)」のスペシャルパックのキャンパスキット(学生・教員向けの優待価格)が置いてあったので、購入しようかと思ったが(大学の生協でも購入できるのだが、パッケージが大きいので自宅に持って帰るのが難儀なのである)、パッケージに「店頭でご購入の際は、学生証または身分証明書をご呈示下さい」と書いてあった。あいにく教職員証は定期券入れの中で、散歩のときは携帯していない。思わず舌打ちをする。日常生活の中で教職員証を使うのは大学の図書館に入るときくらいだ。大学の外で使う場面は皆無である。一度、レンタルビデオ屋の会員になるときに、身分を証明するために使おうとしたら(私は運転免許証を持っていない)、それではだめですと言われたことがある。まあ、言われてみればもっともな話で、社員証なんて名刺と同じで偽造しようと思えば簡単にできますからね。しかし、考えてみると、日常生活の中で、自分が何者であるのかを口頭で「大久保と申します」とか「早稲田大学の大久保です」と言うだけで、通用してしまう(相手がそれを疑わない)というのは、不思議といえば不思議である。例外は、レンタルビデオ屋の新規会員になるときと、医者にかかるとき、一般化していえば、何らかの集団・組織のメンバーになるときくらいである。日常生活の中心を占める購買行為において、店側にとって重要なのは、私が商品購入に必要なお金を所持しているかどうかであって、私が何者であるかではない。通勤電車の乗客にとって重要なのは、私がはた迷惑な行為をしない人間であるかどうかであって、私が何者であるかではない。匿名的存在であり、名乗る場合でもその真偽を問われない人生。そうした人生の極北に、たとえば『砂の器』の主人公、和賀英良がいるのであろう。

 

3.3(木)

 午前中、定期検診のため病院へ。思ったより時間がかかり、午後1時からの教授会に30分ほど遅刻。テーブル席は埋まっていたので、テーブルなしの窓際の椅子に座る。第一会議室というのは文学部で一番大きな会議室なのだが、教授会を開くには手狭で、もし教授会のメンバーが全員出席したら、立錐の余地もないのではなかろうか。一定の出席者がいないと教授会は成立しないが、教室の容量の点から、一定の欠席者も必要なのである。同じようなことは授業にもいえる。もし学生が全員授業に出席したら、容量オーバーの教室がけっこうあるはずだ。私の学生時代は、出席率が高いのは最初の数回で、ゴールデンウィークが明けてからは「授業をサボる」という大学生らしい行動をみんながするようになったものだが、いまの学生は年間を通して出席率が高い。「そんなことでいいのか」と心配になるくらいだ。そのため容量オーバーとまではいかなくても、座席と座席の間を一つ空けて座るなんて贅沢は許されず、キッチキチで授業を受けてもらわないとならない。しゃべる側からすると教室の密度の高い方が授業はしやすいのだが、室内の二酸化酸素濃度が上がって息苦しく感じることもある。その点、教授会のメンバーはみんな昔の大学生だから、適度にサボることを心得ている。そのお陰で手狭な第一会議室でもなんとかやっていけるのだ。夕方から文カフェで恒例の入試業務の慰労会がある。しかし、今日はひな祭り。家では妻がちらし寿司を作って待っている。よって慰労会はパス。文学部キャンパスの入口横の桜は、下から見上げる限り、まだ蕾らしきものは見えない。明日の東京は雪になるらしい。

 

3.4(金)

 朝から雪。それも吹雪いている感じ。午後に読書会の予定が入っていたが、こんな日に無理してやるものでもないと、来週に延期する旨のメールを出す。ところが雪はお昼頃には止み、これなら延期にする必要はなかったかもしれないなと思ったが、気温はあいかわらず低いままだったので、延期で正解だったと思うことにした。昼食の焼きそばを食べながら、昨夜ハードディスクに録画しておいた『優しい時間』を観る。今回のタイトルは「吹雪」。これぞ正真正銘の吹雪というやつで、これに比べたら今日の東京の雪は洋菓子の上に降りかける粉砂糖のようなものである。やはり読書会を延期したのは甘かったかもしれない。夜、社会学専修4年のKさんから謝恩会のお知らせのメールが届く。すぐに出席のメールを返す。卒業式まであと20日だ。

 

3.5(土)

 午後、研究室で調査実習の報告書の校正作業。今回の報告書はかなりのボリュームのものになりそうである。学生が書いたレポート部分がA4用紙印字で約300ページ。インタビュー記録を編集した対象者のライフストーリーが同じくA4用紙印字で約400ページ。合計約700ページは400字詰原稿用紙に換算すると約2600枚である。実習の学生は26名なので、一人当たりに400字詰原稿用紙100枚分の文章を書いた計算になる。これがその実物である。夥しい数の付箋紙は1日と本日の校正作業の結果である。もちろんこのすべてが誤字脱字の類ではなく、大部分は、文字のフォントが違うとか、数字の全角・半角の使い分けが違うといった技術的なものである。これを明日明後日でコトコト修正して、印刷し直さないとならない(8日に再校の校正作業がある)。なかなか心躍る作業だが、問題は、昨日から私の自宅のプリンター(エプソンのLP-1400)が、「カートリッジの交換の時機が近づいています」とパソコンの画面に表示されるようになったことだ。去年購入したばかりだから、ずいぶんと消耗のスピードが速い。カートリッジを振るとまだ中身はあるようなので、すぐに印字できなくなることはないと思うが、蒲田のラオックスに電話で問い合わせたら、在庫はなく、取り寄せに1週間ほどかかるという。とりあえず発注したが、もしそれが届く前に印字不能になったら、川崎のビックカメラかサクラ屋あたりに買いに走らねばならないだろう。価格は8000円程度。プリンター本体はずいぶんと安くなっているが、その分をこうした消耗品の価格で回収しているのであろう。「導入費用は安く、メンテナンス費用は高く」というのは現代社会のいたるところで見られる企業戦略である。

 

3.6(日)

 調査実習の報告書の原稿のうち、個人レポート25本(A4用紙で142頁)の修正と二校の印刷。深夜、ハードディスクに録っておいた本日放送のNHKスペシャル(戦後60年企画)「東京大空襲60年目の被災地図」を見る。長らく行方不明になっていて4年前に発見された戦災殉難者霊名簿のデータ(被災者の当時の住所と死亡場所がわかる。つまり、空襲下での彼らの足取りがわかるのである)、生存者の証言、B29のパイロットの証言などを基に、60年前の3月10日の東京大空襲を検証した番組。早乙女勝元氏らの著書を通して東京大空襲については一応の知識はもっているつもりであったが、映像とインタビューで再現される当時の模様は、あまりに圧倒的で、そして悲惨で、ただただ見入ってしまった。死者10万人は、広島の原爆による死者20万人には及ばないが、長崎の原爆による死者7万人を上回り、関東大震災のときの死者14万人に迫る。そのとき九死に一生を得た人々は、同時に、かけがえのない人を失った人々でもあった。目の前で母親と妹のいる防空壕が火に包まれるのを見ていた少年、炎を避けて学校のプールに潜ったもののそこで妹を死なせてしまった兄、冷たい隅田川に飛び込んで気が付いたときには背中におぶった赤ん坊が死んでいた母親、そのときの記憶を携えて、彼らは戦後60年を生きてきたのである。私の父方の祖父母は当時浅草に住んでいて(父は軍隊にいた)、東京大空襲を生き延び、戦後、蒲田に移り住んだのである。私が生まれたのは昭和29年。物心ついたときには、すでに戦争は過去のものとなっており、ときおり街角で見かける白装束に兵隊の帽子を被った「傷痍軍人」だけが、戦争を引きずっているように思われた。映画や少年漫画は戦争を繰り返し描いてはいたが、それは戦争の記憶の保存ではなく、戦争の娯楽化・劇画化ということであった。私はジローズ歌うところの「戦争を知らない子どもたち」であるが、私が日々接する学生たちは、「戦争を知らない子どもたち」を知らない子どもたちである。しかし、戦後の日本社会、そして日本人の生活は、「戦争」を抜きにしては語れない。戦後民主主義やマイホーム主義は軍国主義への反動形成であったし、高度成長を可能にしたのは高度な軍事技術の家電製品への転用であったし、「企業戦士」も「受験戦争」も「戦争」のアナロジーであった。そういう形で、われわれは「戦争」をずっと引きずってきたのだ。戦後60年目の今年、われわれはそのことに自覚的になろう。

 

3.7(月)

 調査実習の報告書の原稿のうち、インタビュー対象者50名のライフストーリー(A4用紙で417頁)の修正。印刷の方は、途中でトナーが切れる可能性があるので、明日、研究室のプリンターを使ってやることにする。横書きの文章なので、数字は基本的に算用数字を使うことにしているのだが、算用数字と漢数字が混在している原稿が多く、しかし、一括置換の機能を使って「四」を「4」に変換すると、「四谷」が「4谷」になってしまったりするので、ひとつひとつキーボード入力していかなくてはならない。ごく稀に、一つも修正箇所のない原稿があったりすると、「君は素晴らしい!」と賞賛の声を上げてしまう。

 昼飯を食べながら、録画しておいたNHKスペシャル「中国コンビニ戦争」を見る。上海を舞台にした、国営コンビニ「好徳」と外資系コンビニのファミリー・マートとローソンの三つ巴の出店競争をレポートしたもの。「生き馬の目を抜く」とはまさにことのことか。市場開放、グローバル化の生きた教材である。思えば、セブン・イレブン1号店が東京都江東区豊洲にオープンしたのは1974年であった。私が大学2年生のときである。あれから30年、コンビニはすっかり街の風景として定着した。単身世帯の増加と生活時間の深夜化がその背景にある。

コンビニを舞台にした山田太一のTVドラマ『深夜にようこそ』が放映されたのは1986年のことだった。ちょうどコンビニ強盗が話題になっていた頃だった。主人公はコンビニでアルバイトをする中年男(千葉真一)で、彼にはコンビニを孤独な都市生活者たちのための深夜のオアシスにしたいという夢があった。その夢は、マニュアルにないことは認めないという本社の方針によって、挫折するのだが、あれはなかなかいいドラマだった。いっとき脱サラした男たちがペンション経営に乗り出すことが流行したことがあったが、『深夜にようこそ』では、高原が都会に、ペンションがコンビニに置き換わっただけで、脱会社と人間的ふれあいへの憧れは共通していたように思う。山田太一の目のつけどころが素晴らしいとも言えるし、コンビニとロマンが結びつく余地のあった時代だったのだともいえる。今日見た番組にはそういうロマンはどこにもない。ひたすら利潤を追求する弱肉強食の世界の光景である。

いま、脱会社と人間的ふれあいへの憧れは、どこへ行ったのだろう。私が知っている場所が一つある。『優しい時間』の主人公、湧井勇吉(寺尾聰)が経営する富良野の林の中の喫茶店「森の時計」のカウンターの周辺だ。そこを訪れる客たちは、自分で珈琲豆を挽きながら、マスターや他の客たちと会話を交わす。いや、そのカウンターには、客だけではなく、交通事故で亡くなったマスターの妻の幽霊だってやってくるのである。「澄んだ作品を書きたかった」と倉本聰は書いている。「人の心を洗うために、僕は作品を書こうと思っている。いわば心の洗濯屋である。森に住んでいる洗濯屋の親爺である。」(シナリオ版『優しい時間』あとがき)。このドラマは今期私が観ている唯一のドラマである。

 

3.8(火)

 午後、研究室で調査実習の報告書の校正作業。インタビュー対象者50名のライフストーリーとそれを分析した25名の学生のレポートの校正は終了。あと残っているのは、読売新聞の戦後の「人生案内」を分析した5つの班のレポート(各班A4用紙で30頁で、合計150頁)の校正であるが、これがなかなかやっかいである。今日、原稿の問題のある箇所に付箋紙を貼ったが、文書ファイルの修正作業は研究室に何度も足を運んでいる一部の編集係がやるのではなく(彼女たちはすでに十分に働いた)、それぞれの班に原稿を差し戻して、班の責任においてやってもらうことにする。

 上野千鶴子『老いる準備 介護すること されること』(学陽書房)を大学への行き帰りの電車の中で読む。上野はここ数年、老人問題、とくに介護問題について積極的に発言するようになった。長年、女の問題を論じてきた上野が、自分の老いを自覚する中で、老いた女の問題とめぐりあったのだ。彼女は「いつまでも若々しく生きよう」といういわゆるアクティブ・エイジングの考え方に反対する。

私の人生は、下り坂である。人生は死ぬまで成長、生涯現役、というかけ声に、私は与しない。そんな強迫に鞭打たれて駆けつづける人生を、自分にも他人にも、強要したくない。老いるという経験は、昨日できたことが今日できなくなり、今日できることが明日できなくなる、という確実な衰えの経験であることは、五〇歳の坂を越えてみれば、骨身に沁みる。

だが、それにしても、かつて味わったことのないこの変化は、新しい経験にはちがいない。それなら新鮮な思いでこの経験を味わい、自分の新しい現実をありのままに受け容れたい。

そう考えていたら、いつのまにか赤い糸に導かれるように、障害者運動や患者学や当事者研究の担い手たちと出会った。出会ってみてら、それが偶然ではなく、必然だったことがよくわかった。

 私もアクティブ・エイジングの思想には反対である。いつまでも元気でいたい、いつまでも元気であってほしい、と個人が願うのはかまわない。しかし、それを高齢化社会の思想(組織原理)にしてはいけない。すべての人間は遅かれ早かれ、自分の意志とは無関係に、健康を損ねていく。健康を損ねた人間が元気でありつづけることは、身心二元論の立場からは可能なのかもしれないが、普通の人間には無理である。それが無理ではない一部の人間をモデルに仕立て上げて、「みんなもこう生きよう!」と呼びかけるのは、健康の(「健康な」ではなく)ファシズムである。

 

3.9(水)

 午後、ギデンズ『社会学』の読書会。今日のEさんは原書持参である。前回、私が翻訳には誤訳がつきものであること、誤訳とまではいかなくてとも翻訳の日本語がわかりにくことはしばしばあること、原書にはたくさん写真が使われているが訳書では割愛されていること、訳書と原書をつきあわせながら読めば社会学と英語の勉強が一石二鳥でできること、などを話したところ、さっそくAmazonで購入(4210円)したのだ。訳書(870頁)、原書(750頁)ともに大部の本を2冊抱えてやってきたその意気やよし。今日は第6章「身体の社会学―健康、病気、高齢化」。訳書にこんな一文があった。

 社会学者や老年学の一部は研究者は、人口統計学の変化を目にして、人口の「白髪化」という言い方をしている。(p.212)

 寡聞にして、そんな言い方、私は聞いたことがない。原書の該当箇所(p.163)を見ると、「白髪化」はgreyingの訳であることがわかった。誤訳ではないが、「老化」と訳せばよいと思う。同じ箇所で、old-age dependency ratioが「高齢者の依存指数」と訳されているが、「老年従属人口指数」(生産年齢人口に対する老年人口の比率)が人口学での定訳ではなかろうか。・・・こんなふうに書くと訳書をけなしているように聞こえるかもしれないが、決してそうではない。訳書があるおかげでわれわれは外国語で書かれた本を非常に短時間で読み終えることができる。それはとても助かる。ただし、完璧な訳書というものは存在しないことを心得て利用しなくてはならない。そういうことだ。

 大学からの帰り、東京駅構内の本屋で、三崎亜紀『となり町戦争』(集英社)を購入。第17回小説すばる新人賞受賞作である。今朝の新聞(読売)に大きな広告が出ていて、たくさんの人のコメントが載っていた。

 素晴らしい!こんな完璧に近い作品は、新人でなくても一年に一つあるかどうか。選考委員は全員「すげえ!」とうなったと思う。うらやましい。(高橋源一郎)

 村上春樹の登場人物が村上龍の小説に入り込んだら、こんな感じかも。静かに寒くなる小説。実際の戦争だって、じつはこんなものかもしれないのだ。(斎藤美奈子)

 一気に読ませる面白さがあり、同時に深く考えさせる真摯さがある。(川本三郎)

 この素晴らしさを伝えるのは百万言費やしても不可能。(井上ひさし)

 卓抜な批評性か、無意識の天才か。いずれにせよ桁はずれの白昼夢だ。(五木寛之)

 この物語の美点は、深遠なテーマを描いていながら、「読み物」としてちゃんと面白いところなのだ。だって、これ、すんごく壮大な「失恋小説」とも言えるのだから。読むべし!(吉田伸子)

 この小説は戦争の実態を書こうとしたものではなく、戦争の現実感を抱けない私たち自身の、不気味な自画像なのだ。(星野智幸)

 芥川賞選考委員の皆々様、首を洗ってお待ちあそばせ。近々、三崎亜紀という十年に一人の逸材がそちらに乗りこんでいきますがゆえに。(豊崎由美)

 ずいぶんの持ち上げようである。いま、半分ほど読んだところだが、現時点での感想は、斎藤美奈子のコメントに一番近い。

 

3.10(木)

 三崎亜紀『となり町戦争』読了。う~ん、結局、村上春樹の亜流だね。大崎善生や本多孝好と同じ。それにしてもこれほどまでに「語り口」が模倣される作家というのは、35年前に『赤頭巾ちゃん気をつけて』で芥川賞を受賞した庄司薫以来ではないだろうか。同時代人に模倣される「語り口」を発明したというのは、やはり大変な偉業といわねばならない。

 アクロバット(PDF作成ソフト)を書斎で使っているメインのパソコンにインストールしようとして、どうしてもうまくいかない。ノートパソコンの方には問題なくインストールできたのだが、ウィンドウズのバージョンの問題なのだろうか。電話でテクニカルサポートを受けながら、いくつかの方法を試みたのだが、いずれもうまくいかず、今日のインストールは諦める。まあ、ノートパソコンの方にはインストールできたので、PDFを作成するときはそっちを使えばいいわけだが、なんだか癪である。おまけにあちこちいじったせいで、「システムの復元」ができなくなってしまった。庄司薫なら、「一日中ゴム長でプカプカ歩いたみたいにぐったり疲れた」とでも書くところだ。村上春樹なら、もちろん、「やれやれ」だ。

 

3.11(金)

 午前中から夕方まで間断なく会議、会議、会議。夜、リーガロイヤル・ホテルで人間科学部の嵯峨座晴夫教授の古希のお祝い。嵯峨座先生は私が学部の3年生のとき(1975年)、アジア経済研究所から文学部に来られた。40歳であった。専門は人口学であったが、学部で担当されていたのは社会統計学の講義であったと記憶している。最初の授業のときに、富永健一『社会変動の理論』(1965)のことを話題にされて、「これまで社会変動という言葉をよく意味のわからないままでなんとなく使ってきましたが、この本を読んでようやくそれが何を意味するのかがよくわかりました」と言われた。真摯な方なのだなと私はそのとき思った。たぶんそれは大言壮語してはばからない学者を見なれていたせいであろう。私はさっそく『社会変動の理論』を購入し、一読、なるほど社会変動とはこういうことなのかと納得した。『社会変動の理論』は私が読んだ社会学書ベスト10にいまも入っている。

 

3.12(土)

 義父の四十九日。横浜の三ツ沢墓地に納骨に行く。山村暮鳥に「いちめんのなのはな」というフレーズの繰り返しで有名な「風景」という詩があるが、すり鉢状の土地の斜面は「いちめんのはかいし」である。横浜駅前からタクシーに乗って10分足らずの住宅地の真ん中にこんな場所があるというのは、ちょっと凄い。たぶん墓地ができた当時は未開発の土地で、後から周囲がどんどん宅地化していって、こういうことになったのだろう。納骨の後、近くの蕎麦屋「美善」で食事。あらかじめコースで頼んであったのだが、料理の量が半端ではない。高齢の方はもちろん、20代の甥っ子たちも全部は食べきれず、天ぷらや鰤の照り焼きなどをパックに入れて持ち帰ることになったが、私と娘と息子の3人だけ完食であった。大食いなのではない。日頃、一汁二菜の食卓になれているわれわれには、皿数の多い食卓がもの珍しかったのだ。いちめんのりょうり、いちめんのりょうり、いちめんのりょうり・・・・。

 

3.13(日)

 喉がいがらっぽい。首と肩の筋肉が張っている。少しばかり寒気もする。風邪の初期症状である。でも、散歩には出る。有隣堂で、有吉佐和子の『恍惚の人』と『悪女について』(ともに新潮文庫)を購入。

 中学時代の友人Hのホームページを見ていたら、銀座4丁目の和光ビル(時計塔のあるビル)の壁面のレリーフの写真が載っていて、そこに刻まれている「H2541」とは何だろう、「H」はたぶん服部時計店の頭文字だろうけれど、「2541」がわからない、受付の女性に尋ねたがわからなかった、という記述があった。私は直感的に、それは服部時計店の創業年に違いないと思った。もちろん西暦ではない。皇紀2541年である。皇紀とは、西暦に対抗して、明治5年に制定された日本独自の歴年で、神武天皇即位の年(西暦では紀元前660年)を元年とする。つまり、皇紀2541年は西暦1881年(明治14年)である。早速、インターネットで服部時計店(現在のセイコー株式会社)の創業年を調べたら、思った通りだった。それにしても受付の女性も知らなかったとはね。高校1年の息子に皇紀を知っているか尋ねたが、やはり知らなかった。皇紀って完全に死語なんだね。ちなみに日中戦争のために中止になった第12回東京オリンピック(昭和15年に開催予定だった)は、皇紀2600年の一大記念イベントだったのである。

 

3.14(月)

 自宅で原稿書き。どうにかまとまる。風邪の方は以前に医者からもらって残っていた抗生物質と市販の感冒薬(パブロンゴールド)を併用して対処。あとは十分な睡眠と水分の補給。

 卒業生のUさんから、昨日のフィールドノートを読んで、高校時代に「紀二六」(のりじろ)という名前の先生がいて、その先生が昭和15年生まれでしたというメールをいただいた。なるほど、紀元二千六百年に因んだ名前というわけだ。なんだか展開図の「のりしろ」を連想しますね。ところで、改元のときに新しい元号に因んだ名前が増えるという現象はよく知られている。明治安田生命の調査によれば、大正元年生まれの男の子の名前の第1位は「正一」で、女の子では「正子」が第2位に入っている(第1位は「千代」)。昭和2年(昭和元年は6日間しかなかった)生まれの男の子の名前の第1位は「昭二」で、女の子では第1位が「和子」で、第2位が「昭子」だった。しかし、平成元年生まれの子どもの名前にそうした現象は見られなかった。平成元年生まれの男の子の名前の第1位は「翔」で、女の子の名前の第1位は「愛」だった。現代の親たちは、男の子には「かっこいい」名前を、女の子には「かわいい」名前や「きれいな」名前を、要するにタレントのような名前を付けることに躍起になっている。もはや国家の行く末と個人の人生がシンクロナイズする時代ではなくなったのである。ちなみに社会学専修の長田先生はギリギリ戦中のお生まれだが、名前を「攻一」という。「幸一」「浩一」「公一」「功一」「光一」・・・・「コウイチ」をワープロで変換するといろいろな名前が出てくるが、「攻一」は出てこない。戦時中ならではの命名といえよう。それにしても、あの温厚な長田先生と「攻一」という名前はどうしても結びつかない。名は体を表すというが、嘘ですね。

 

3.15(火)

 午後、ギデンズ『社会学』の読書会。今回は第7章「家族」。家族は社会構造の基本的単位であると同時に、個人生活の中心的領域であり、誰もが家族については語ることができる。しかし、自分の家族的経験を一般化することなしに家族を論じることはけっこう難しい。身近なものを客観的に語るにはそのための方法論が必要である。

 Amazonに注文しておいた。エマ・レイサン『死の会計』(論創社)が届いた。末期医療や葬儀にかかる費用を論じた本ではない。原題はAccounting for Murder、イギリス推理作家協会のシルヴァー・ダガー賞を受賞したミステリー小説である。ミステリーは私の読書の周辺的分野に属し、めったに読まないのだが、本書は特別である。訳者の西山百々子さんが社会学専修の卒業生なのである。西山さんはNPO法人ホロコースト教育資料センターの職員で、本業の傍ら翻訳の勉強を続けて来られ、文芸作品の翻訳としては本書がデビュー作である。今度の週末の楽しみにしたい。

 昨日の新聞に詩人の江間章子さんの訃報が載っていた。91歳だった。江間さんといえば、♪夏が来れば思い出す~の「夏の思い出」(中田喜直作曲)がいつも引き合いに出されるが、私は、♪七色の谷を越えて~の「花の街」(團伊玖麿作曲)が好きである。小学校の音楽室で歌った歌の中では、「冬景色」と並んで、一番好きな歌である。なんという美しい歌であろう。この美しさは幻想的でさえある。それもそのはずで、「花の街」は実在の街の風景を描写したものではない。昭和22年、一面の焼け野原の中に立った江間さんが、大切な人たちを喪った悲しみと、明日への希望を込めて書いた詞なのである。