フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

11月30日(金) 小雨のち曇り

2007-11-30 23:59:58 | Weblog
  9時起床。小雨が降っている。朝食は抜き、天ぷらそばの昼食をとってから、家を出るときは、雨は止んでいた。今日は夜の授業があり、帰宅は遅くなるので、セーターと革のハーフコートを着ていく。セーター+ジャケット+コート+マフラー+手袋という完全防備になるのはまだまだ先のことだ。
  4限の大学院の演習は清水の『ジャーナリズム』(1948年)の検討。清水はこの本を11日間で書き上げた(と「まえがき」に書いてある)。岩波新書は400字詰換算で約250枚だから、1日25枚弱のペースということになる。相当なスピードだ。自伝『わが人生の断片』の中の記録によると、清水が『ジャーナリズム』執筆のために熱海にある岩波書店の別荘(惜檪荘)に入ったのは同年9月7日で、帰京したのは9月30日であったから、「11日間」というのは計算が合わないが、途中で用事があってたびたび上京していたらしい。また、構想を練っていた最初の3日は「11日間」にはカウントされていない。執筆していたのが正味「11日間」という意味である。

  「九月七日(火) 部屋一杯の日光。・・・午後、筋書を考へるが、一向に纏まらずイライラするのみ。」
  「九月八日(水) 曇つて涼しくなる。決心して筋書を作り始める。」
  「九月九日(木) 重陽の節句。午後、筋書漸く終る。グッタリする。風が出て来る。明日は一寸東京へ出てみよう。」

  筋書(設計図)を作ることがいかにエネルギーを必要とするものであるかをうかがわせる記述である。逆にいえば、ここで筋書をかなり細かく作っているから、この後の執筆のペースが速いのであろう。11日の午後に東京から戻って、本格的に執筆に着手すのは13日からである。

  「9月14日(火) 昨日は半ペラ35枚。今日は(35-84)なり。夕方には病人のやうになつてしまふ。」

  「半ペラ」というのは400字詰原稿用紙の半分のサイズの200詰原稿用紙のこと。作家には400字詰原稿用紙の愛用者が多かったが、ジャーナリストには半ペラが好まれた。半ペラで書いた方が、サクサク進む感覚があったのであろう。原稿用紙を広げるスペースが小さくていいから、どこでも(列車の中や喫茶店)執筆できるという身軽さも受けたのかもしれない。「夕方には病人のようになつてしまふ」というのは大袈裟な表現ではなくて、清水は身体の丈夫な人ではなかったのだ。若い頃、医者から「あなたは30歳までは生きられないでしょう」と言われたそうである。

  「九月二十一日(火) 少し進む(186-232)。」
  「九月二十二日(水) 今日は、ひどく疲れ、頭がボンヤリし、無理に書いているやうなり(237-270)。」
  「九月二十三日(木) 朝から晩まで書き続ける。(270-328)」

  おそらく原稿の締め切りが9月末日だったのであろう。清水は締め切りを守る人であった。一般にジャーナリズムの世界に生きている人は締め切りを守る。それが死活問題であるからだ。製造業の人たちが製品の納期を守るのと同じことだ。これに対してアカデミズムの世界の住人(大学教員)には締め切りを守らない人が多い。彼らは原稿料で食べているわけでないからである。清水は10月中旬に東北大学での1週間の集中講義(公職追放中の新明正道の代行)の予定があり、『ジャーナリズム』の原稿を書き上げたら、ただちに講義ノートの作成に入らねばならなかった。そういう事情もあっての別荘での「缶詰」であった。ああ、私も一度、池波正太郎の定宿であった「山の上ホテル」あたりで「缶詰」にされて、原稿を書いてみたい。そういう奇特な出版社はないものだろうか。

  「九月二十八日(火) 夕方まで書く(409-470)。午後六時四十八分着の汽車にて吉野氏来る。」
  「九月二十九日(水) 朝、家内と電話。午前中に書き終わる(470-494)。午後、原稿を少し整理し、序文を書く。日向が恋しい。夕方、町へ出て、モームのAshendenを買ふ。」
  「九月三十日(木) 昨日は終日深く曇りたるに、今日は非常なる快晴。朝早く窓を開いて海を眺める。初めてこの家へ来りし時、暑さは堪え難く、長く止まるべきにあらずと思ひしに、この数日、涼しさちはより寧ろ寒さを淋しく感じて、久しく止まるべきにあらずと思ふ。午後一時の汽車にて帰京。」

  「吉野氏」とは岩波書店の吉野源三郎である。駅に出迎えた清水に吉野は3枚ほどの英語の文書を渡した。7月13日にパリのユネスコ本部から発表された「戦争の原因に関する8名の社会科学者の声明」であった。吉野が清水にもちかけたのは、このユネスコの声明に応える形で、日本の学者たちが共同声明を出せないだろうかという相談だった。

  「その場で私が感激したか、大した文書と思わなかったが、今となっては、それは明らかでないが、別荘に戻って、文書を丁寧に読み、吉野氏の話を聞いているうちに、事柄の大きさが判って来た。やがて、このタイプライター用紙三枚ばかりの文書が、それからの十数年間に亙る私の生活を多くの部分を決定することになった。」(『わが人生の断片』著作集14巻、317頁)

  「平和問題談話会」の誕生のエピソードであると同時に、「ジャーナリスト清水幾太郎」から「平和運動家清水幾太郎」への転換点を示すエピソードでもある。それが清水が『ジャーナリズム』を書き終えんとしていたときであったのは、何かの因縁であろう。
  6限の授業(社会と文化)の後、「秀永」で夕食。すっかり定番となった木須肉(ムースーロー)を注文する。カウンターの右隣の男性客も同じものを食べていた。彼もまた一週間の仕事を終えた後の夕食であろう。万国の労働者諸君的連帯を感じながら食べた。

11月29日(木) 曇り

2007-11-30 11:07:44 | Weblog
  昨日の夕方のことだが、帰りがけに、生協戸山店で立ち読みをしていたら、音楽文化論の小沼先生がそばにやってこられて、何やらもじもじした口調で、「ちょうどいま先生にお渡しするお手紙を書いていたところで・・・」と言われる。見ると手にその「お手紙」らしきものを持っている。私は「なんでしょうか?」と尋ねながら、中学校時代、下の学年の女の子から、「大久保先輩、この手紙読んでください!」と言われたときのことを思い出した。私が手紙を受け取ると、ペコリと頭を下げて、一目散に走り去っていったお下げ髪の女の子。夕日に染まる校舎。まさに青春歌謡の一場面であった。一瞬、私がそんな甘味な思い出に耽っていると、小沼先生が言った。
  「大久保先生は詩を読まれると人づてに聞きまして」
  「はい。読むのは好きですが」
  「それで、もしよろしかったら私の詩集を差し上げたいと思いまして」
  「あっ、それはどうもありがとうございます。」
  「では、教員ロビーの先生のメールボックスにお入れしておきますので」
そう言って小沼先生は足早に去っていった。(念のために断っておくと、小沼先生は男性で、もちろんお下げ髪ではない)。
  今日、大学に来て、メールボックスをのぞくと、小沼純一『サイゴンのシド・チャリシー』(書肆山田)が入っていた。
  さっそくその場で開いてみる。「えっ?」「なに?」「へえ」「なるほど」と思った。実験的というか、冒険的というか、こちらがまったく予想していなかった形式の詩がそこに展開されていた。第一に、それは長い詩だった。詩集というのはたいていたくさんの詩が収められているものだが、ここには一編の詩だけが載っている。その唯一の作品のタイトルがそのまま詩集のタイトルなのである。第二に言葉の配列(レイアウト)の仕方が凝っている。たとえば、こんな風に(実物は縦書き表記)。

  おいてけぼり
  ついて
      いけ
         るのは いま

五線譜の上に置かれた音符のようである。字のフォントがところどころ明朝体からゴシック体に変化するのは、「ここはフォルテ」を意味しているのだろうか。第三に、この五線譜には、主旋律以外の旋律が書き込まれている。たとえば、

  このままがいいでしょう、
  ずう、っと、
  ねえ
  やりっぱなしでおわらせたい
  かえって
       ふあんになるなんて
  こと
  ないですから

という主旋律が奏でられている同じページの中段に、

  Bシ
      Gソ
    Aラ
    Aラ

という記号が流れ星の足跡のように書き込まれている。さらにその下段に、

  きこえて る?
  ふ、っ、とい
  や(わ)らかい

という別の旋律が書き込まれている。詩は言葉の音楽。それが確信犯的に、徹底的に意識されている作品である(この作品をもし朗読しようとしたら三人の読み手=演奏者が必要だろう)。いや~、面白い。実に、面白い。小沼先生の詩集は「水牛の本棚」というサイトで読むことができる。ただし、言葉のレイアウトの妙は実物(縦書き)でないと伝わらないだろう。

  2限の社会学演習は格差をテーマにしたグループ発表。提供される素材が豊富で、報告者の意気込みがよく伝わってきたが、発表後のディスカッションがいまひとつなのは前回と同じ。聞き手が聞き手としての役割をちゃんと演じていない。聞き手の役割は「聞く」ことだけではない。合宿(1月5~7日)の報告会は時間にゆとりがあるから、発表後のディスカッションに重点を置きたい。
  昼食はひさしぶりに「ごんべえ」の釜揚げうどんを食べる。汁にあれこれの薬味をたっぷり入れて、熱々のうどんをつけてすする。うまい。一緒についてくる炊き込みご飯は薄味だが、汁が濃いからこのくらいがちょうどいい。
  午後は夕方まで研究室で明日の授業の準備。暖房を弱めに入れ、足元の電気ストーブで暖をとる。ときどき基礎演習の学生が、明日が締め切りのレポートを、メールで、あるいは直接持参して、コメントを求めに来るので、その相手をする。なにしろ明日が締め切りであるから、こちらとしても時間的に修正可能なコメントしか言えない。さすがに明日はもう誰も来ないだろうな。
  帰りがけに、生協戸山店で以下の本を購入。どうやら雨は降らなそうなので、持ち帰ることにした。 

  長谷川公一ほか『社会学』(有斐閣)
  友枝敏雄ほか『社会学のエッセンス(新訂版)』(有斐閣)
  鈴木聡志『会話分析・ディスコース分析』(新曜社)
  羽田功編『民族の表象』(慶応義塾大学出版会)
  鈴木正仁『ゲーム理論で読み解く現代日本』(ミネルヴァ書房)
  ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』(木鐸社)
  張江洋直・大谷栄一編『ソシオロジカル・スタディーズ』(世界思想社)

           
                 記念会堂横の銀杏並木

11月28日(水) 曇り

2007-11-29 02:46:22 | Weblog
  つい先日までの小春日和の日々はどこへやら、一転して、曇天の薄ら寒い日々となった。でも、個人的には、もう少しコートなしでも大丈夫な感じである。北風がピューピュー吹かない限りは、ジャケットの下にセーターを着込んでいれば寒さはしのげる。
  2限の「ライフストーリーの社会学」の授業の後、何人かの学生が試験のやり方について質問しにきた。もうそういう時期になったのだ。残りの講義の回数は4回。4回で戦後の「人生の物語」の変遷を論じなければならないが、無理のようである。80年代くらいまでが精一杯であろう。90年代以降の話をどうしても聴きたい方は、来年度、秋期火曜2限の演習「現代社会とセラピー文化」を履修してください(って番宣か)。
  昼食はTAのI君といつものように「秀永」で。私はレバ肉とニンニクの芽の炒め定食。I君はホンコン飯(先日の私のブログを読んで食べてみたくなったそうだ)。大学の職員の方とおぼしき男性二人組と相席だったが、「先輩、何がお勧めですか?」と聴く後輩に「ここは何を頼んでもうまい。ほんとだから」と先輩が答えていた。確かに、町の中華料理屋さんとしては星2つだろうね。
  午後は、二文の卒論演習(今回で最終回)と、一文のMさんとK君の卒論の個人指導。合間に、牧阿佐美バレエ団事務所に電話して3月の公演(白鳥の湖)のチケットを予約する。帰りがけに生協戸山店で以下の本を購入。

  佐藤正午『彼女について知ることのすべて』(光文社文庫)
  石宮恵子『思春期をめぐる冒険』(新潮文庫)
  保阪正康『自伝の人間学』(新潮文庫)

  『思春期をめぐる冒険』は村上春樹の『羊をめぐる冒険』を連想させるものだが、それはたまたまのものではなく、副題は「心理療法と村上春樹の世界」となっている。

  「物語と心理療法のことを考えていくにあたって、村上春樹の作品を取り上げる理由は三つある。まず、冒頭で紹介したように、対談やエッセイなどで村上春樹自身が、小説を書くときの自分のスタンスが自己治療的なものであるといことについてはっきりと言及していること、第二に、治療場面でかなりのクライエントが彼の小説について話題にすること、そして第三に、(これが一番強い動機だが)村上春樹の小説を読んでいると、まるで心理療法の現場で起こっていることそのもののように感じられるからである。」(5-6頁)

  心理療法のクライエントたちが村上春樹の小説について話題にすることは知らなかった。でも、いわれてみると、いかにもありそうな話だ。内省的な小説ということだろう。「現代社会とセラピー文化」で村上春樹の小説もとりあげることにしよう。
  夜、明日の授業の準備の傍ら、基礎演習の学生たちからのメール(レポートが添付されている)にコメントを返す。右手でテニスのラケットを振りながら、左手で卓球をやっているような感じがする。けっこう器用だなと、われながら思う。

11月27日(火) 曇り

2007-11-28 03:38:57 | Weblog
  午前中に郵便局に行って、『日本の文学』全80巻(中央公論)と『世界の文学』全38巻(集英社)の代金をそれぞれの古書店に振り込む。財布が急に軽くなる。さ、寒い。銀行でお金を下ろそうと思ったら、月末だからだろうか、機械の前はかなりの行列である。時間がかかりそうなのであきらめた。今日一日は財布に残った千円札数枚でしのごう。「鈴文」でランチのとんかつ定食(950円)を食べてから大学へ。食事はしかたない。本を買わないようにすればいいのだ。
  教員ロビーのメールボックスに長谷正人・太田省一編『テレビだョ!全員集合 自作自演の1970年代』(青弓社)という本が入っていた。長谷先生からだ。特別研究期間中にこういう本を書いていたわけだ。帯はなく、その代わりに、表紙の部分に内容紹介の文章が印刷されている。

  草創期独特の熱気に包まれていた60年代と
  MANZAIブームで幕を開ける
  華々しい80年代とに挟まれ、
  奇妙なまでに静かな印象がある70年代のテレビ文化。
  だがその時代のテレビをめぐる
  一つ一つの出来事を見ていくと、
  「テレビの外部」を映していたテレビが
  テレビ自身を自作自演するようになった
  歴史的プロセスが浮かび上がってくる。
  テレビ史の転換点としての70年代を
  照射するメディア論。

  1970年代は私の人生でいうと高校・大学・大学院修士時代に対応する。時代のせいなのか、そういう年齢だったのか、判然としないが、当時はよくTVドラマを観た。えっ、いまだってよく観ているじゃないかって? はい、観てますけど、それが何か? 確かにいまでも観ているのだが、のめりこみ方に大きな違いがある。TVドラマが人生に影響を与えるような仕方で当時の私はTVドラマを観ていたのだ。そうしたTVドラマ視聴の集大成が『北の国から』(1981年10月から82年3月までの連続ドラマの方)であり、このドラマの放送期間中に私が妻となる女性にプロポーズしたのは田中邦衛演じる黒板五郎の生き方に影響されたからである。細かい論理は省いてキーワードだけをいえば、「じゃりン子チエ」と「スパゲッティ・バジリコ」なのである。そういえば、わかる人にはわかるであろう。その不器用でひたむきな愛というものに私は感動してしまったのである。感化されてしまったのである。う~む、間もなく時刻は午前3時半になろうとしている。もう寝なくてはならないが、とにかく、70年代は私にとってTVドラマの時代だった。その意味で、長谷先生の論稿「日常性と非日常性の相克-七〇年代テレビドラマ論」はとても興味がある。「相克」という言葉が古風というか、ちょっと気恥ずかしいが、長谷先生のことだ、きっと70年代っぽい言葉をわざと使ったのだろう。
  夕方から現代人間論系の教室会議。あれこれのことがテキパキと決まる。論系進級希望者が「153名」だったので、みんな機嫌がいいのだ。なんと新年会の予定まで決まってしまった。幹事は安藤先生が買って出てくれた。

11月26日(月) 晴れたり曇ったり

2007-11-27 02:47:54 | Weblog
  今日は外出をしなかった。外出しようと思ってはいたのだが、いざ外出しようとすると、学生からコメントを求めるレポートが添付されたメールが届いたり、教務主任から至急の意見を求めるメールが届いたり、事務所から来年度の授業の担当曜限についてのアンケートのメールが届いたり、女の人からケータイに電話がかかってきたりして、結局、外出するタイミングを失ってしまった。でも、いいのである。昨日、古本屋で購入した長田弘『私の好きな孤独』を、ゆっくり読むことができたから。詩人の書く文章(散文)はいい。選ばれる言葉の一つ一つに神経がゆきわたっている。谷川の水を手ですくって飲んでいるような清々しい気分になる。全部で79編の短いエッセーが収められているが、どの文章も、最初の数行で読み手の心をいきなりつかんでしまう力をもっている。いくつか紹介しよう。

  「心の余白に、思いだすままに、いくつかの言葉を書く。ふっとその言葉を書いてみたくなって書く言葉。「樹」とうい言葉は、わたしにはそんな一つの言葉だ。」(言葉の樹)

  「二十五歳の冬だった。わたしはじぶんが四半世紀をすでに生きたことに突然気づいて、ひどく途方に暮れていた。そして、いつもおなじようなことを考えていた。二十五歳までに自殺しなければ、四十歳までは生きられる。四十歳まで生きられれば、死ぬまで生きられるだろう。」(ランドフスカ夫人)
  
  「拒絶のなかでしか生きられないような生のかたちを、どこまでつらぬいてゆくのか。息を深く吸い込むと、思わず咳きこんでしまう。そんな日の繰りかえしを、どこまで膝を立てた姿勢に負ってゆくのか。」(モーツァルトのように)

  「何かをしながら、音楽を聴くということができない。いつも、していたことを中断したまま、じっと音を聴いているじぶんを見つけてしまう。音を聴いているというより、音のなかに手を探しているじぶんを見つけてしまう。/音楽を聴くのが好きなのは、それが手のつくりだす言葉であるからだ。」(手)

  「何もすることがないときは、言葉で旅をする。一冊の本と一杯のコーヒー。騒がしい街の店にかたすみに座って、一人ぶんの沈黙を探す。」(アイリッシュ・コーヒー)

  「はじめに言葉があり、街の言葉は窓だった。/街は窓でできている。窓のない街はない。街とよばれるのは、窓のある風景なのだ。」(窓)

  「いつも上機嫌だった。にこにこして、人混みのなかをゆっくりと歩いた。/どこへゆくわけでもない。ただ往来を駅までぶらぶらと歩き、もどってくる。また、繰りかえす。それだけでいい。それだけのことが、彼にはひどく楽しいのだ。」(オーイ)

  「市街地の静かな住宅地のあいだに、何もない場所がある。/雑草の茂りをふせぐためだろう、砂利がびっしり敷きつめられて放置されたきり、もうずいぶん長いあいだ空地のままだ。かなりの広さなのだが、金網で人ははいれない。そこでけ、まったく日々の気配がない。」(何もない場所)

  「立ちどまったことがない。足をとめたこともない。地下道では、いつも急ぐように歩く。急ぐ気もちが、傾いた姿勢になる。傾いた後ろすがたが、幾つも重なる。重なって、人の流れをつくっている。/周りに、いつも変わらない明るさがある。明るさのなかをゆく人びとの格好は、明るい影のようだ。影になった人が、急ぎ足で歩いてゆく。足先に転がっている、こころもとなさを蹴とばして歩く。地下道にはそんな感じがある。」(地下道にて)

  「手紙というものはいったい信じられるものだろうか。せいぜいが用箋に用件を認めるだけで、旅の絵葉書をのぞけば、親しい言葉を他人に宛てて書くというような習慣は、もうすっかり疎いものになってしまった。いつから、手紙という内密な言葉のかたちが、こんなにも遠いものになってしまったのか。」(ラブレター)

  「本屋が好きだ。書店ではなく、本屋だ。「本屋さん」という雰囲気をもった街の店が好きだ。/わたしのゆくのは、ほとんどがちいさな本屋だ。街角を曲がって、ふとその店を見かける。そんな小さな本屋に足がむく。ちいさな本屋には本がすくない。しかし、かまわない。わたしは本屋に、本を探しにゆくのではない。なんとなく本の顔を見にゆく。」(本屋さん)

  「飾りのない壁に時計が一つ。何のふしぎもない時計のようでいて、それは実におかしな時計だ。時計の文字盤が、左右すっかり逆になっている。うっかりすると、気づかない。しかし、よく見ると、三時が九時で、九時が三時に、十一時が一時なのだ。/いい味のコーヒーといい音楽があって、いい椅子がある。ゆきなれた街の好きな店。午後の七時にその店にいったのだった。ゆっくりコーヒーを飲んだ。音楽を聴き、本を少し読んだ。午後五時にその店をでた。」(時計と時間)

  「時間ができると、よく古本屋をのぞく。古本のあいだにいると、時間というものがちがって感じられる。街の新しい時間とは違う時間が、古本屋にはあるのだ。/古い本は、古い時計のかたちをしている。手にとってひらく。ページのあいだに、忘れてきた時間が挟まっている。それが思いがけなく新鮮に、目にとびこんでくることがある。」(古くて新しい)

  「「おじさん」という呼び方は奇妙だ。父や母の兄弟もおじさんなら、父母の知りあいもおじさんだ。友人の父親もおじさんだし、ゆきずりのよその知らない大人のひともおじさんだ。みんなおじさんなのだ。おじさんはどこにでもいる。世のなかに一番おおいのはおじさんとよばれる大人なのだ。おじさんには伯父さんと叔父さんと小父さんがいるというのも、奇妙だった。」(伯父さん)

  「気もちのいい沈黙があれば、それだけでいいのだ。たとえ音楽が流れていても、いい音楽であれば、あとにきれいな無がのこる。気に入った街のコーヒー屋では、黙って、コーヒーを飲む。/街のコーヒー屋へは、一人の時間を過ごしに、必ず一人でゆく。周りの声が遠のき、やがて頭上からざわめいて降ってくるようになるまで、ぼんやりしている。」(空飛ぶ猫の店)

  「北アメリカのいい街には、かならずいいカフェが一軒ある。おいしいコーヒーが飲めて、おいしいケーキがたべられる。明るく清潔なカフェ。こころがひろくなってくるようなカフェのある街が好きだ。/カフェの一番いい時間は、朝だ。明るい光りをまぶしく感じながら、やわらかなコーヒーをゆっくりとすすることから、一日をはじめる。」(朝のカフェ)

  「誰だって間違うことはあるし、間違う権利はひとの大切な権利だ。しかし、どうしようない間違いというものもまた確かにあって、たとえばアイスクリームについて、たかがアイスクリームと軽蔑することは、どうしようない間違いのひとつだ。」(アイスクリームの風景)

  「アメリカのロースト・コーヒーは、淡くてかるい。朝にふさわしい味だ。ぐっと一息に飲む。一杯目で舌を熱く灼いて、二杯目はゆっくりと読む。」(四角いドーナツ)

  「小さな店だった。コーヒーとビールを飲ませるだけの店だ。ちいさな椅子が七つ、八つ。それから奥に、古いソファーが一つ。二階へゆく階段が低い天井にせりだしているので、立ちあがるときは頭に注意しなければならない。話をしにゆく店ではなかった。」(ママとモリタート)

  「『真夏の夜のジャズ』が、引き金だった。始めから終わりまでおそろしく素敵な映画で、見終わっても席を立つ気になれなかった。結局、その日の最終回まで、新宿の映画館で一人で見つづけた。夢中になったのはそれからだった。」(何かが変わった)

  「おなじ歌をくりかえしうたう。けれども、二度とけっしておなじにうたわない。おなじ一つの歌が、うたいかえされるたびに、そっくりちがった歌になる。聴くたびに新しくなる。歌はおなじだ。おなじ歌だけれども、どれもがおよそちがった歌だ。ちがった歌であって、しかもおなじ一つの歌である。/ボブ・ディランの歌はそうした歌だ。」(ライク・ア・ローリング・ディラン)

  「フライパンに油をひく。熱くしておいて、卵を割って、静かに落とす。それだけである。簡単だ。工夫もいらない。誰にでもつくれて、平凡で、ごくごくあたりまえにすぎなくて、それでいて・・・目玉焼きには、なんとも言えぬへんなおかしみがある。」(サニーサイド・アップ)

  ずいぶんとたくさん引用してしまった。しかし、これでもまだ79編中の22編だ。いい文章を写しているとそれだけで気分がいい。念のために、再度断っておくが、引用したのはいずれもそれぞれの文章の最初の数行だ。文章中のとくに印象的な部分ではない。中身は推して知るべし。『私の好きな孤独』は1999年の出版である。定価2500円だが、版元では品切れである。だから古本でしか手に入らない。私はこれを1000円で入手した。探して入手したのではなく、散歩の途中で立ち寄った古本屋で偶然入手したのである。古本屋というのは素晴らしい場所である。

           
                   装丁は平野甲賀