フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2003年1月(後半)

2003-01-14 23:59:59 | Weblog

1.15(水)

 1996年度の人文専修の卒業生で私が卒論指導をしたAさんから久しぶりのメールが届く。彼女は卒論でTVドラマ『北の国から』を取り上げた。私も『北の国から』のファンの一人で(それで卒論指導を引き受けたのだが)、初回の指導のときに『倉本聰研究』(理論社、1990年)という本があるのをご存知ですかと尋ねたら、すでに彼女はその本を読んでいて、「私のバイブルです」と答えたのが印象的だった。卒業後も『北の国から』の新作がTVで放送される度にメールで感想を述べ合ったりしてきたが、その『北の国から』が昨年9月に放送された『‘02遺言』をもってついにシリーズを終了した。本来であれば、すぐに感想のメールの交換があるとろころなのだが、Aさんも私もそれをしなかった。彼女の事情はわからないが、私がそれをしなかった理由は『’02遺言』の作品としての出来に不満があったからである。少なくとも『北の国から』シリーズの最後を飾る作品としては不満であった。『北の国から』は家族の物語である。物語は、妻に浮気をされた男(黒板五郎)が妻と別れて、2人の子供(純と蛍)を連れて故郷の富良野に帰ってくるところから始まる。子供たち(とくに兄の純)は水道も電気もない生活に大いに不満であり、そうした場所に自分たちを連れてきた父親に不満であった。長期的に見れば、物語は父親と2人の子供の絆の回復・強化の過程である。もちろんその過程は単純に一方向的なものではなく、子供たちの成長とそれに伴うさまざまな出来事を通して行きつ戻りつする。行きつ戻りつしながらも、視聴者は彼ら親子がいつか必ず幸福になることを疑わない。事実、『‘02遺言』の結末はそういうものであった。しかし、その展開はあまりにも速すぎた。唐十郎演じる伝説の漁師が五郎に向かって「あんた、凄い人だ。」と言ったり、ラストの駅のホームのシーンで「父さん。あなたはすてきです。」という純のナレーションが流れたり、そういう直接的な説明(台詞)で五郎という人物をあっさり美化してしまった。『北の国から』のファンはそんなことは言われなくてもわかっているのである。言わずもがなのことを言われてしまうと、聞かされるほうは興冷めがするものである。明らかに倉本は焦っていた。本当は最終話まであと数本の構想が彼の頭の中にはあったはずだ。それが突然のシリーズ打ち切りで、その数本のゆるやかな過程を圧縮して脚本にしなくてはならなくなった。その結果、私には『’02 遺言』は放送を見逃した数本の作品の総集編のように見えた。今回のAさんのメールには『北の国から』が終わってしまったことを残念に思う気持ちが書かれていたが、『’02遺言』についての評価はとくに書かれていなかった。だから上記のような負の評価を返信のメールに書くことには多少の躊躇があった。もし彼女が『’02遺言』に満足したのであれば、私の感想はそれにケチを付けることになるからだ。しかし、結局、そのメールを返したのは、きっと彼女も私と同じように感じているだろうと思ったからである。

 

1.16(木)

 Aさんから返信あり(送信時刻を見ると勤務中に書いているものと思われる)。『‘02遺言』への私の感想に同感とのこと。やっぱり、と思う。とろで、彼女はリクルートに勤めているのだが、私がこれまで卒論指導をした学生のうち彼女を含めて5人(社会学3人、人文2人)がリクルートに就職している。一番の年長はAさんの一つ上の学年だったMさんで、彼女は昨年、「東京に近い地方での編集職」を希望して仙台へ転勤となり、そこで結婚情報誌『ゼグシィ』(東北版)の編集の仕事をしている(ただし彼女自身は未婚)。一番の年少は2年前に卒業したT君で、彼は早稲田大学の担当とかでよく大学に顔を出している。リクルートは若い人たちの会社のようで、みんな元気に働いている。

 

1.17(金)

 朝、TUTAYAに返却する予定のCD4枚を忘れて家を出る。これで延滞料(190円×4枚)を取られるはめになった。朝からついてない。雑用が夕方までに終わらず、夕食は食べて帰るからと家に電話して、午後9時頃まで研究室で仕事。帰宅すると、「お父さん、このごろ帰りが遅いけど浮気でもしているんじゃない」と娘が夕食のときに妻に真顔で言ったという話を妻から聞かされる。あのなぁ・・・・。おそらく娘の友達にそういうことでもめている家の子がいるのであろう。しかし、弱ったな、来週は、タイミングの悪いことに、卒業生との食事会やクラス・コンパとかで、夕食を外でとる日がいつもより多いのだ・・・・。

 

1.18(土)

 センター試験の試験監督で一日中立ち通しで足が棒になった。夕方、くたくたになって地下鉄の駅へ向かう途中の道で、携帯電話に伝言が入っていることに気づく。昨日の朝、H君が亡くなったという知らせだった。H君は大学院での私の1年後輩で、当時は、よく一緒に食事をしたり(彼はよく飲み、私はよく食べた)、雀卓を囲んだりした(彼は強く、私は弱かった)。彼とはもう何年も会っていなかったが、某大学の非常勤講師をしていて二日酔いで教室に現れたりするので職員の人が困っているという話を人伝に聞いていた。数ヶ月前、脳梗塞で入院し、半身不随と言語障害が残り、しかし、一時は回復の兆しがみえていたそうなのだが・・・・(後記:実は彼の命を最終的に奪ったのは、脳梗塞ではなく、その後に発見された骨髄腫瘍による敗血症であることを知った)。本人の希望で葬儀は一切行わず、遺体はすでに荼毘にふされたとのことだった。家族は母親と弟が一人で、妻子はいなかった。47歳の死はどんなにか無念の死であったろう。合掌。

 

1.19(日)

 ぼんやりと過ごす。

 

1.20(月)

 (この3月末で定年退職される佐藤慶幸教授の最終講義。専修主任として前説を務める。)

佐藤先生の講義に先立ちまして、貴重なお時間を5分ほど頂戴し、佐藤先生のご紹介をさせていただきます。先生は1933年(昭和8年)のお生まれで、岐阜県の中津川のご出身です。1933年という年は日本が国際連盟を脱退した年であり、「暗い谷間の時代」でありました。終戦のとき、先生は12歳でした。地元の県立中津高校を卒業され、早稲田大学第一文学部社会学専修に入学されたのは1952年です。以後、1956年に学部を卒業されて早稲田大学文学研究科に進まれ、1959年(26歳)に文学部助手となられ、1963年(30歳)に文学部専任講師、1966年(33歳) に助教授、そして1971年(38歳)に教授となられました。

 私が早稲田大学第一文学部に入学したのは、先生が教授になられて間もない1973年で、先生の講義を初めて拝聴したのは3年生のときでした。ちなみに現在の社会学専修の先生方の中で私が学部時代に講義を拝聴したのは佐藤先生と正岡先生のお二人だけです。もう30年近く昔のことになります。そのときの先生の印象は、知的で、スマートで、背筋が伸びて姿勢のいい先生だなというものでしたが、それはいまも変わっておりません。

講義の中身でいまでもよく覚えているのは、初回の授業で、いきなりドイツ語の長い文章を黒板いっぱいに書かれたことです。おそらくマックス・ウェーバーの『社会学の根本概念』の一節であったと思います。先生のご専門は理論社会学で、とくにマック・ウェーバーの社会的行為論を深くご研究されており、1982年(49歳)に博士号をお取りになったときの論文のタイトルも『アソシエーションの社会学:行為論の展開』というものでした。

 しかし、先生は理論社会学の書斎にただ閉じこもっているだけの方ではありませんでした。1980年代の中ごろ、先生にひとつの転機が訪れました。それは「生活クラブ生協」という運動との出会いでした。先生はウェーバーの行為論の研究から出発して、目的合理的行為のシステムとしての官僚制や資本主義社会の限界や病理を克服する、乗り越えるための方法論として「アソシエーション」とう社会関係に着目されていたのですが、「生活クラブ生協」の運動はまさにその「アソシエーション」の具体的形態の1つであったのです。この出会いを契機として先生は理論社会学という書斎のドアを開けられて、現実的で実践的な社会活動の展開に研究の眼を向けられるようになったのだと思います。

 本日の最終講義のタイトルは「言語論的転回とアソシエーション」です。私もこれからフロアーで聴衆の一人として、30年前に初めて聴いた先生の講義と本日の講義を結びつけながら、先生の研究者としての歩みを追体験したいと思います。では、佐藤先生、よろしくお願いいたします。

 

1.21(火)

 昨日、我が家にADSLが開通した。無線LANも設定し、娘が自分の部屋で自分のパソコンで利用できるようにした。業者に来てもらって一切をやってもらったのだが、5時間くらいかかった(料金は1万5千円)。さっそく試してみたところ、有線のデスクトップパソコンと無線LANラン内蔵のノートパソコンは問題なくインターネットにつながるのだが、無線LANカードを入れたノートパソコン(娘のパソコン)の接続が不安定で、突然切れたりする。無線アクセスポイントを設置した2階の私の書斎と3階の娘の部屋の距離(および間の遮蔽物)のためか、受信レベルが低い。問題はもう1つあって、どうも近所の家の無線アクセスポイントの電波を拾っていて、おまけにそちらの電波の方が強いのである。試しにこちらの電波を切ってみたところ接続が安定した(!)。こんなのありなのだろうか。やれやれ。

 

1.22(水)

 昼過ぎに日比谷で或る会合があって、少し早めに着いてしまったので、プレスセンター1階の「JUNKUDO(淳久堂)書店」で時間を潰す。ちょうど『村上春樹全作品1990~2000』の第2巻(『国境の南 太陽の西』と『スプートニクの恋人』が収められている)が出ていたので購入する。3時に会合が終わり、研究室に戻る途中、ちょっとお腹が空いたし(朝が遅かったので昼食をとっていなかったのだ)、買ったばかりの本にも目を通したいので、早稲田駅側の「シャノアール」に入り、ハムトーストとコーヒーを注文する。「シャノアール」は蒲田の商店街の中にもあり、散歩の途中で買った古本を読むためによく利用するのだが、コーヒーが250円、ハムトーストが280円と本当に安い。難はテーブルと椅子が小さいこと(座席数を多くするため)と、分煙のシステムがちゃんとできていないことだが、この低料金なのだ、あまり贅沢は言えまい。注文を終えて、さっそく村上春樹の「解題」を読む。彼が中篇小説というものを自分の中でどう位置づけているかという話と、『ねじまき鳥クロニクル』が完成するにあたって彼の妻(彼の作品の最初の読者)が果たした役割についての話が興味深かった。

 夜、渋谷の「DOMA」という居酒屋で、社会学専修の卒業生のY君、H君、Tさんと会食。卒業生といっても「教え子」ではなく、私が大学院生の頃、正岡先生の調査実習の授業の手伝いをしていて、そのとき学生だった人たちで私は「先輩」のようなものである。卒業してちょうど20年で、3人とも40代の前半の年齢である。Y君は鉄道会社の広報課長、H君は出版社の営業部長、Tさんはベンチャー企業のディレクターである。彼らはときどき連絡を取り合って会っているらしいのだが、私が彼らに会うのは20年ぶりなのである。先日、Y君が会社の昼休みに(本当に昼休みなのだろうか?)インターネットを検索していて私のホームページを発見し、その感想をメールで送ってくれたのが今回の会食の発端である。ホームページを公開していると、たまにこういうことがあるから楽しい。Y君からはお土産に彼の会社の関連の映画(小さな中国のお針子)のチケット2枚、美術展(メトロポリタン美術展)のチケット2枚、そしてT電鉄の無料乗車券1枚をいただいた。無料乗車券は「終点まで乗っても無料です」とのことだったが、行ったら帰ってこなくてはならないのだから、できれば他のチケット同様に2枚いただきたかったが、「先輩」の株が下がるので言わずにおいた。私の方からは早稲田グッズの店で買った「ビッグベア」の携帯ストラップ(400円)を3人に進呈した。

 

1.23(木)

 午前10時からK君の修士論文の最終試験(面接審査)。K君は博士課程には進まず、4月からNHKの記者になることが決まっている。就職口が決まっている人の試験というのは気分的に楽である。

 

1.24(金)

 1週間の疲れが出たのであろう、昼まで熟睡。

 

1.25(土)

 風邪が抜けきっていないような感じなり。少し寒気がする。終日、自宅で過ごす。

 

1.26(日)

 学会の機関紙の投稿論文の査読の締切が昨日であった。徹夜で、論文を読み、査読のコメントを書き、明け方、近所のポストに速達で投函する。その後、昼近くまで寝て、散歩に出る。「南天堂書店」で岩波文庫版の『道草』と、これも岩波文庫でH.G.ウェルズ『タイム・マシン』を購入。『道草』はもちろん筑摩書房の『夏目漱石全集』に入っているが、電車の中で読むにはやはり文庫に限る。『タイム・マシン』の方は映画のDVDを借りる前に原作を読んでおこうと思って。

 

1.27(月)

 起きたら午後1時近かった。テレビを付けると「笑っていいとも」のエンディングの場面だった。い、いけない。私は、というか人間は、本来夜行性の動物なので、「今日は2限の授業があるから8時には起きなくてはいけない」といった外的強制力が消滅すると(学部の授業は先週で終わったのだ)、起床時間がどうしても徐々に遅くなっていくのである。昨日も(という表現は正しくないだろう)寝たのは午前6時だった。だから睡眠時間としては7時間で、とくに寝すぎているわけではない。しかし、やはり、午前中には起床しないといけないだろう。誰に迷惑をかけているわけではないのだが、何となく世間に申し訳ないという感じで、寝覚めがよくないのである。

 

1.28(火)

 来年度の講義要綱の校正作業。自分の授業の分だけなら簡単なのだが、今年は専修主任なので、社会学専修の49科目全部の初稿に目を通さなくてはならない。疲れたが、面白かった。実を言うと、たぶんこれはわが専修だけのことではないと思うのだが、同僚が来年度どんな内容で授業をやるのかわれわれは知らないのである。もちろん社会学の授業をやるということはわかっているが、具体的にどんなテーマでやるのかはふたを開けてみるまでは、つまり3月下旬に出来上がる講義要綱を見るまではわからないのである。別に秘密にしているわけではない。聞けば答えるし、聞かれれば答えます。でも、聞かないんですね。マナーなのか、無関心なのか、たぶん自分のことだけで精一杯なんでしょう。ところが、今回は、専修主任の役得(?)で、いまの時点で全科目の内容がわかってしまった。感想は・・・・面白かった。自分が学生なら出てみたい授業がいくつもあった。そうか、みんな面白そうな授業をやっているんだと、変に感心してしまった。その上、自分もしっかりしなくちゃなと、殊勝な気持ちになってしまった。ちなみに私が学生なら出てみたい授業(社会学専修科目)のベスト5を順不同で言うと(言っちゃっていいのか?)、「社会科学論」(森先生)、「社会学概論2」(長谷先生)、「社会学研究11・12」(土井先生)、「社会学演習ⅢB」(長田先生)、「社会学原典講読5」(道場先生)である。もちろんこれはあくまでも講義要綱を読んでの判断ですからね、実際に授業に出て、「なんだ、面白くないじゃないか」と言われても責任は取れませんからね。えっ? 自分の授業が入ってないじゃないかって? はい、私はその程度には謙虚な人間なのです。

 

1.29(水)

 終日、書斎に篭って卒論を読む。ひたすら読む。なにしろ20本である。これが終わったら(まだ数日かかるが)、「社会学研究10」の試験の採点が待っている。なにしろ250枚である。おまけに成績評価の事務所提出は2月3日である。前期試験の成績評価は夏休みを間にはさんで10月末までと超余裕なのに(もっとも、私、数日遅れましたが)、なんで後期試験の成績評価はこんなに短期間に出さねばならないのだ!(・・・・なんてことを書くと、では、前期試験の成績評価を8月3日にしますなんて言われかねないので、はい、頑張って採点しま~す)。

 私の講義をとっている学生Yさんからメールが届く。この「フィールドノート」の愛読者ですが、要望が1つと、質問が1つありますとのこと。要望は「フィールドノート」は更新した分を先頭に掲示してほしいというもの。質問はなぜ「日記」を公開しているのかというもの。もっともな要望であり、質問である。まず、要望の方だが、多くのホームページの日記は確かに新しいものが先頭に置かれている。私もそれに従おうと考えなかったわけではなかった。しかし、頻繁にアクセスして下さっている方には申し訳ないが、「現在」を先頭に置いて「過去」に遡及するという形式は日記というものが本質的にもっている時系列性あるいは因果性というものにマッチしないのではなかろうか。ただし、折衷案として、過去のバックナンバー(1ヶ月単位)は時系列的な形式で保存しておいて、当月分は遡及的な形式で掲載するという方法はあるかもしれない。次に、質問の方だが、公開される日記は通常の日記とは違うものである。私は通常の日記は付けていないが、もし付けていたとしても、それをそのまま公開するということはありえないだろう。通常の日記(もしそれがあったとして)を私が公開しない理由は、恥ずかしいからではなくて、それでは読み手にとって面白くないだろうと思うからである。永井荷風も高見順も(この二人の日記は日記文学の双璧である)「作品としての日記」を公開したのである。二人の文豪の名前を出した後で恐縮だが、「フィールドノート」も日記という形式(文体と言ってもいい)を借りた作品なのである。そしてすべて作品というものは、人の目にさらされることを前提にして制作に取り組まなければ、「たるむ」ものである。

 

1.30(木)

 授業と研究会で大学へ出る。帰宅後、卒論をひたすら読む。合間にインターネットで買物。洋書を1冊とCDを2枚。洋書は、Jay Rubin, Haruki Murakami and the Music of Words, 2002, The Harvill Press. アメリカの文芸評論家(村上春樹の作品の翻訳家でもある)による村上春樹論である。CDの方は、永井龍雲の「ベスト’97」と「龍雲ベスト2002『25色の肖像』」。永井龍雲は以前から気になっていた歌手である。フォーク大全集といった類の10数枚組のCDには必ず彼の「道標ない旅」(1979年)が収められている。美しい高音で伸びやかに歌い上げたその曲は「健康的な尾崎豊」といった印象を私に与えた。しかし、その後の彼については何も知らなかった。それがふと思いついてインターネットで検索してみたところ、彼はいまも現役の歌手でアルバムも出していることがわかった。それが上記の2枚のCDである。

 

1. 31(金)

 午前、修士論文の面接試験を1件。午後、卒業論文の口述試験を9件。今日の分の卒論で一番面白かったのは、電車内という空間における規範をテーマにしたAさんのものだった。アンケート調査と観察に加えて、実験を行ったところがポイントである。向かいの座席に座っている人の顔をずっと見つめたり、車内がガラガラのときにあえて人の隣に密着して座ったり、といった「おかしな」行動をして、そのときの相手の反応を観察したのである。そういう実験を一見清楚で大人しそうなAさんが平気な顔でしている情景を想像して、私は論文を読みながら可笑しくてたまらなかった。さぞや相手は面食らったことであろう。「よくやれたね」と私が言うと、Aさんは「面白かったです」としとやかな口調で答えた。これだから人はみかけによらないというのだ。ちなみにAさんは4月から日本航空のスチュワーデスになる。「グッド・ラック」と私が言うと、Aさんはにっこり笑って、「あちらは全日空ですから」と言った。れ、冷静だ。

 


2003年1月(前半)

2003-01-14 23:59:59 | Weblog

1.1(水)

小雨の元旦の朝である。遅めの朝食をとり、年賀状の返信を書いていたら夕方近くになった。もらって一番嬉しい年賀状は卒業生からのものだ。早稲田大学で教えるようになってから9年が経過し、最初の教え子は30歳に手が届こうとしている。東大の大学院へ進んだT君は日大で非常勤講師として教え始めた。都立大の大学院へ進んで都の老人総合研究所に勤めたH君はもうすぐ調査の結果が論文にまとまるそうだ。高校時代の同級生と結婚したTさんは病身の夫の世話と育児で大変そうだ。出版社に就職したIさんは結婚退職してフリーターになった。毎日放送に就職したOさんはラジオ報道からラジオ営業に配置転換になった。NTTコミュニケーションズに就職したFさんは入社3年目にしてすでに中堅社員でゴルフに温泉にとすっかり「親父化」しているそうだ。入社1年目のAさんはコピー機の営業で早稲田大学の研究室を回ってようやく2台が売れたそうだ。・・・・20代は人生上の変化の激しい時期だ。荒海を行く彼ら彼女らの航海の無事を祈る。

返信を投函しがてら散歩に出る。雨はすでに上がって陽も出ていたが、人出はまばらだ。元旦から店開きしている古本屋「書林大黒」に敬意を払って100円本を3冊購入。

ロレンス『息子と恋人』(河出書房版『世界文学全集』第38巻、1960年)

脇本平也『叢書現代の宗教3 死の比較宗教学』(岩波書店、1997年)

所沢高校卒業生有志『所沢高校の730日』(創出版、1999年)

 

1.2(木)

 快晴だが風の冷たい正月2日目である。2日は年賀状の配達がないので―昔はあったように記憶しているのだがいつからなくなったのだろう―だらだらとTVを見る。箱根駅伝の往路、早稲田は10位と振るわなかったが、ラグビーは全日本学生選手権準決勝で法政に43-7で快勝した。テレビ東京恒例の10時間(14:00~24:00)時代劇は今年は「忠臣蔵」。ふつうは見ないのだが、主役が「鬼平」中村吉右衛門なので、断続的にー途中で散歩に出たり、「さんまのまんま」を見たりしながらー最後まで見る。討ち入りの場面を見ていつも思うのだが、赤穂浪士側に一人の死者も出なかったというのが不思議でならない。もしそれが史実だとすると、寝込みを襲われた吉良側はほとんど無抵抗で降参してしまった(芝居にあるような激しいチャンバラの場面は実際はなかった)のではなろうか。

 『シングル・ライフ』の著者として知られる仏文学者、海老坂武が『<戦後>が若かった頃』(岩波書店)という本を出した。先月読んだ関口夏央の『昭和が明るかった頃』とタイトルがよく似ている。関口の言う「昭和が明るかった頃」とは昭和30年代(1955-64年)の「高度経済成長前期」のことで、海老坂の言う「<戦後>が明るかった頃」とは1945~70年の「戦後日本の青年期」のことである。関口は1949年生まれで、昭和30年代は彼の小・中学校時代だった。一方、海老坂は1934年生まれで、1945~1970年は彼の中学・高校・大学・フランス留学時代である。二人にとってそれぞれの時代が「明るく」「若かった」のは、確かに当時の日本の社会経済的状況が「右肩上がり」(昭和版「坂の上の雲」)だったであろう。しかし、それだけではなく、彼らが人生の「若く、明るい」時代を生きていたからでもあろう。たとえば、「失われた10年」と呼ばれる1990年代であっても、その時代に子供であり青年であった者たちが中高年になったとき、われわれが決して感じることのない「明るさ」と「若さ」をその時代に感じるのではなかろうか。(余談だが、海老坂武は私の母校、都立小山台高校の先輩である。私はそれを『<戦後>が若かった頃』の最初の章のタイトル「感情教育―小山台高校」を見て初めて知った)。

 

1.3(金)

 駅伝の選手たちと一緒に箱根の雪が東京にやってきた正月3日目である。昨年3位で「古豪復活」と騒がれた早稲田は結局15位で、来年は予選会から出直しとなった。やれやれ。早稲田では4月から従来の人間科学部からスポーツ科学科が独立してスポーツ科学部が生まれる。世間ではこれを「早稲田スポーツ」の復活の兆しと見ているが、スポーツ科学部の教員(の少なくとも一部)はスポーツ科学部が体育学部のようにみられることを迷惑千万と思っている。

 

1.4(土)

 「3月下旬の暖かさ」とテレビで天気予報士が言っていた正月4日目である。妻の実家(田園都市線の鷺沼)に一家で出かける。義妹と二人の甥も来ていた。昼食の後、近所の新明社にみんなで初詣に行く。娘と甥の一人が御神籤を引いて「凶」が出た。「珍しいから目出度い」と慰めたが、三箇日が終わったから「凶」を増やしたに違いないと思う。

 

1.5(日)

 娘が『心』を読み終わって感想文を書かなくてはならないのだが何を書いたらよいか弱っている。それは弱るだろう。「私」にしろ「先生」にしろ、そこそこの財産があって、食うために必死で働かなくてもよい人間、漱石の言う「高等遊民」である。そういう人間は自分という人間の存在価値についてあれこれ神経質に悩むものである。悩みながら、悩むことに、すなわち悩める能力を有していることに自分という人間の意味をかろうじて見出しているのである。しかも物語の背景には明治天皇の崩御、そして乃木将軍の殉死という一つの時代の終わりを象徴する事件が存在するのだ。本離れが叫ばれる現代の高校生に『心』を読ませるのは時代錯誤の文学趣味というほかはない。しかも読書と感想文をワンセットにするからますます子供たちの本離れが加速するのである。国文科出身の人間が国語を教えるという制度はそろそろ考え直した方がよかろうと思う。

 もちろん私には『心』は面白かった。ただし「私」や「先生」の悩みに共感したからではなく、歴史的資料として興味深く読んだのである。たとえば、「感傷」に「センチメント」、「感傷的」に「センチメンタル」と振り仮名をした箇所が数箇所出てくる。「今迄の奥さんの訴えは感傷を弄ぶためにとくに私を相手に拵(こしら)えた、徒な女性の遊戯と取れない事もなかった。」/「それが何時の間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。」/「彼は段々感傷的になって来たのです。」・・・・という具合である。また、「幽欝」と書いて「ゆううつ」と振り仮名を振っている箇所もある。「私は不平と幽欝と孤独の淋しさとを一つ胸に抱いて、九月に入って、又Kと逢いました。」・・・・以前(11.29)、このフィールドノートで磯田光一の『近代の感情革命』を紹介したが、感傷(センチメント)や憂鬱(メランコリー)という感情はすぐれて近代的=都市的なものである。そして『心』にはそうした近代的=都市的な感情とは無縁な「田舎者」に対する嫌悪がそこここに見られる。「私は電車の中で汗を拭きながら、他(ひと)の時間と手数に気の毒という観念を丸で有っていない田舎者を憎らしいと思った。」/「私は田舎の客が嫌いだった。飲んだり食ったりするのを、最後の目的として遣って来る彼等は、何か事があれば好いといった風な人ばかり揃っていた。」・・・・という具合である。東京生まれで東京育ちの漱石は、松山中学と第五高等学校(熊本)で教鞭を取った5年間に「田舎者」が嫌いになったのであろう。・・・・こんな調子で書いていったらきりがないが、私はそんなことを考えながら『心』を読んだのである。

 

1.6(月)

 すでに正月気分はないが、まだ年賀状がパラパラと届く。それも私の出した年賀状への返信ならまだしもなのだが、新たに返信を書かなくてはならないものが届いたりする。年末が多忙で、年賀状を書く暇がなかったのであろうが、いまから返信を書いても相手に届くのは松の内を過ぎてからだろうと思うと気が重くなる。こういうとき年賀状にメールアドレス書いておいてくれると、瞬時に返信を送ることができるのでありがたい。

 今度買ったデスクトップ・パソコンにはDVDドライブが内蔵されている。それを使ってみようと、TUTAYAで『大統領の陰謀』のDVDを借りた。DVDのせいかドライブのせいか、ときどき映像が飛んでコマ送りのようになることがあるが(しかし音声に影響はない)、それを除けば、すこぶる快適である。一番いいのは、字幕を「なし」「英語」「日本語」「英語・日本語併記」から自由に選択できるところだ。従来のビデオテープでは、俳優の喋っているセリフ(英語)と字幕の日本語のズレが気になることがあるが(知らない外国語の場合は気になりようがない)、字幕を「英語」にすると俳優のセリフそのものが表示され、疑問が解消する。また、任意のチャプター(『大統領の陰謀』は32のチャプターに分割されている)に瞬時に移動できる機能も便利だ。映画を楽しむだけでなく、英語の教材としても使える。ところで『大統領の陰謀』は、最終的にニクソン大統領の辞任にまで発展したウォーターゲート事件を取材したワシントン・ポストの2人の記者(ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマン)を主人公にした映画だが、レッドフォードがいろいろな人物にガンガン電話で取材を申し込む場面が印象に残る。電話の相手にまず「ワシントン・ポストのボブ・ウッドワードと申しますが・・・・」と早口で(と私には聞こえる)名乗るわけだが、このとき「ワシントン・ポスト」という肩書きはまさに「第4の権力」そのものである。その一言で、電話の向こう側の人間は、質問に素直に、あるいは渋々答えざるをえなくなる。まさに「開けゴマ」。もちろん応対を拒否したり、嘘の回答をしたり、怒り出したりする人もいる。しかし、そうした反応もすべて「ワシントン・ポスト」という権力を意識した反応である。

 

1.7(火)

 今日は研究室で仕事をしようと思い、朝、髭を剃っていたら、取り替えたばかりの剃刀の刃が新しいものでなかったらしく、気がついたら顎、頬、鼻の下の皮膚が血だらけになっていた。バンドエイドを3枚貼ったが、なかなか血がとまらず、この顔で電車に乗ったらどう見ても危ないおじさんだ(しかもバンドエイドにはキティちゃんの絵が描いてあるときている)。大学に行くのは中止にして、散歩にも行かず、終日自宅で過ごす。

 長谷先生たちの仲間が出した『文化社会学への招待』という本を読む。映画『丹下左膳余話・百万両の壷』や『リング』、ポール・オースターや夏目漱石の小説、高野悦子『二十歳の原点』と南条あや『卒業式まで死にません』という自殺した2人の女性の日記、それらを素材にした興味深い論考が並んでいる。しかし、やたらと井上俊の業績に言及するなと思ったら、実はこの本は京都大学を定年退官する井上に対して捧げられた本、いわゆる定年退官記念論文集なのであった。私も学生時代、井上の著作を何冊か読み、面白いと思った記憶がある。とくに『死にがいの喪失』(1973年)は出版された直後に読んで(私はそのとき学部の1年生だった)、鋭い考察がエッセーのように読みやすい文章で展開されていることに新鮮なショックを受けた。

 

1.8(水)

 今日は水曜日だが大学では月曜の授業が行われている。月曜に祝日が多いための補填措置である。水曜でも月曜。1本でもニンジン(関係ありませんが)。変な感じである。私は早稲田に来てからの9年間、月曜の授業をもったことがない。偶然ではなく意図的にそうしてきたのだ。教員の中には月曜に授業を入れると休みが多いから得した気分になるという人もいるが、多少休みが多くとも私は月曜に授業を入れるのは気がすすまない。土曜・日曜・月曜と3連休でないとリフレッシュしないのだ。こんなことを言うと、「何を贅沢なことを」という声が聞こえてきそうだが、だめなものはだめなのである。土曜に1週間の疲れをとり、日曜に新刊本を読み、月曜にその週の授業の下準備をするーそういうパターンなのだ。だから土曜に学会なんかの会合が入ったりしたときは、このパターンが乱れ、疲れが十分に取れないか、新刊本を読む楽しみが犠牲になるか、授業の下準備が不十分になるかのいずれかになる。もしこれで月曜に授業があったりしたら、間違いなく体調を崩すであろう。というわけで、来年度も私は月曜の授業はない。しかし、前期だけだが、土曜1限に授業(社会学基礎講義)をもつことになった。1限の授業はひさしぶりである。はっきりいって夜型の私には辛いが、生きのいい新入生を教えるのはやりがいがある。それに土曜なら朝のラッシュもないであろうし、午前中に仕事を追えて、神田の古本屋街を歩くのも悪くない。

 

1.9(木)

 新年最初の授業は大学院の演習。今日から清水幾太郎の『倫理学ノート』(岩波書店、1972年)を読み始める。テキストには講談社学術文庫版(2000年)を使っているが、川本隆史氏の「解説」の中には私が1998年に発表した論文「忘れられつつある思想家―清水幾太郎論の系譜」が参考文献として載っている。川本氏は文庫が出版される前にゲラのコピーを私に送ってきてくれたが、マイナーなテーマの論文でも関心をもって読んでくれている人がいるのだなと感じ入った。『倫理学ノート』はこの前まで読んでいた『現代思想』とは違って、全体の構成が最初からカッチリとあるわけではなく、高度に知的な連作エッセーという感じの著作である。序文で清水はこう言っている。「本書は、倫理学のための予備的なノートである。どこから見ても、全く体系的ではないし、思想史と呼ぶためにも、時間的順序が狂い過ぎている。倫理学の諸問題を中心とする読書および思索の放浪記のようなものである。それを目指して到達した成果というより、そこへ自然に辿りついた結果である。(中略)いろいろと読み、あれこれと考えて、そこから得た僅かなものを書くというのが、結局、私の性に合っているのであろう。」論じられている内容の抽象度はきわめて高いが、清水の文章力とサービス精神のおかげで、わくわくしながら面白く読める。文庫版で400頁を越える大作だが、読み通すのにそれほど時間はかかるまい。「私は、読者が散歩を楽しんでいる間に、今度こそ、本当に『倫理学』を書かねばならないであろう。」しかし、3年後、実際に清水が次に書いたのは、『倫理学』ではなく、彼の人生で3冊目の自伝『わが人生の断片』(文藝春秋、1975年)だった。結局、『倫理学』は書かれることはなかった。

 

1.10(金)

 今夜から本上まなみ主演の時代劇「人情とどけます」(NHK)が始まった。彼女の役は娘飛脚(ただし男だと偽っている)。必然的に走るシーンがよく出てくるのだが、奇妙な走り方をする。体の前で両腕でペダルを漕ぐような動作をしながら走るのである。他の飛脚たちも同様の動作で走る。そうなのである。飛脚も忍者も、決していまのわれわれのように腕を前後に大きく振って走ったりしなかったのである。いまのわれわれの走り方は、自然のものではなく、明治期に西洋から軍隊や学校教育(体育)を通して入ってきて、しだいに日本人の間に浸透したものである。時代劇には時代考証がつきもので、その時代には存在しなかった事物が劇中に登場することがないように気を配っている。飛脚の奇妙な走り方もそうした時代考証の結果である。しかし、役者自身は現代人であるから、すぐにそんな奇妙な走り方が板に付くものではない。そのため奇妙な走り方の奇妙さが倍加するのである。本上まなみは役に合わせて体を絞り込んできたようで、本来のすっきりとした美しさが戻っていた。彼女は、今期、もう1本ドラマに主演している。ビデオに録ってあっていまこれを書きながら見ているのだが、『恋は戦い!』というタイトルのドラマ(テレ朝、木9時)で、彼女の役はクリスマスイブの夜に離婚届を出したバツイチのフリーライターだ。共演は宝生舞(派遣社員)と坂井真紀(弁護士)と室井滋(動物行動学者)。女4人の群像ドラマだ(だから本上も時代劇と二股かけられるのだろう)。どちらのドラマも本上がナレーションを務めており、私は彼女の喋り方が好きである。それにしても彼女が45歳の男と結婚したこと、心の中で、まだ納得がいかないでいる。

 

1.11(土)

 学会関係の会合で大学に出る。急にセッティングされた会合であったが、電話かメールで済むような内容の会合であった。午前中の会合だったので、午後は研究室で夕方まで仕事。

 帰宅すると、昨夜、リビングのソファーで読んでテーブルの上においたままにしてあった沢木耕太郎『激しく倒れよ』―刊行が開始されたばかりの「沢木耕太郎ノンフィクション」シリーズの第1巻である―を娘が読んでいる。以前、彼の小説『血の味』も私の書斎に入って読んでいたことがある。「沢木耕太郎が好きなのか」と聞くと、「教科書でも読んだことがある」という。東京タワーに上って電球を取り替える仕事をしている人の話だったという。それなら『彼らの流儀』の中の一話だ。書庫から『彼らの流儀』を持ってきて渡すと、「あっ、これこれ」と言って最初から読み始めた。たぶん飛ばし読みをしているのではないかと思うが(本人はそんなことはないというが)、読むスピードは私より速い。これは娘だけでなく、息子も妻もそうなのである。もちろん読んでいる量は私が一番なのだが(そりゃあそうだよね)、しかし、読む量と読むスピードは必ずしも関係ないようだ。

 

1.12(日)

 マイケル・J・フォックスの自伝『ラッキーマン』(ソフトバンク、2003)を読み始める。数年前、自分がパーキンソン病患者であることを彼が公表したことは知っていた。上院の公聴会で彼がパーキンソン病研究へ助成を政府に求める意見陳述をしたことも知っていた。去年、彼が出版した自伝の一部も『リーダース・ダイジェスト』で読んでいた。そして自伝の翻訳が出版されたらぜひ読んでみたいと思っていた。その自伝が出版された。通常、スターの自伝はゴーストライターの作と決まっているが、この自伝は基本的に彼自身が書いている。本人にして始めて書ける率直で繊細な表現でこの自伝は満ちている。たとえば、パーキンソン病の自覚症状(左手の小指の震え)が出る前から、彼は俳優としてのキャリアの危機に直面していたのだが、その心境を彼は次のように書いている。

 「俳優は自信にあふれているから俳優になったのではない。中学時代の演劇の教師、ロス・ジョーンズは構内の公演が決まるたびにキャストを発表してこう言っていた。『覚えておけ。おれたちがここにいるのは、よその場所にいなかったからなんだぞ』と。俳優という者は、できるだけ多くの時間をだれか別の人間の振りをして過ごしたくてたまらないのだ。プロの俳優になれたラッキーな(というか、不安定な)ぼくたちにとって、ほんとうは自分は何者なのかという不安はどんどん増していく。多くの俳優にとって、この自信喪失はどんどん自分を蝕んでいき、その人の成功の度合いに応じて不条理なほど大きくなっていく。どんなに受け入れても、お世辞を言われても、冨が蓄積されても、本人は『おまえなんかにせものだ、いんちきだ』という信念に深く蝕まれているのだ。仮にいまやっている仕事をはったりで推し進めることができたとしても、次の仕事にはありつけないかもしれない、というときのために常に心の準備だけはしておいたほうがいいのだ。/そうでない証拠がすべてそろっているのに、一九九〇年、ぼくは自分の仕事についてまさにそう感じていた。」(25頁)

 私はこの一節を読んで、学生の頃読んだ伊丹十三の『再び女たちよ!』の中の一編のエッセーを思い出した。いま、書庫からその本を持ってきた。そのエッセーのタイトルは「クワセモノ」。そこにはこんなことが書かれていた。

 「作家なり俳優なりとして、世の中で通用するということと、自分の中で通用するということとはまるで違う。/世の中での通用がいかに追いかけても、自分の中での通用というものは、決してそれに追いつかれてはならぬし、ましてや追い抜かれたりしてはならぬものである。いわんや、世の中での通用というものが、自分の中での通用の代わりに住みついている心なんぞは、初めから論外というべきだろう。/しかし、なんですね、世の中というのは寛大というか、たとえば私なんぞを、なんとなく生かしておいてくれる。実に不思議なものだ。なんで私なんぞが、仮にも通用できるのか。/私は『クワセモノ』ではないだろうか。若い時から心の中に立ち篭めていた、このもやもやとした疑惑が、今や疑ってひとつの固い黒光りのする確信となって私の心の中に残ったね。『然り。私はクワセモノである』」

 後年、伊丹がビルの屋上から飛び降り自殺をしたとき、私は彼がとうとう自分がクワセモノであることに絶えられなくなったのだ、クワセモノであることが世間の目に明らかになる前に自ら命を立ったのだと直感した。

 マイケル・J・フォックスの場合は、突然に目の前に現れたパーキンソン病という強敵のおかげで、「おまえなんかにせものだ、いんちきだ」という自虐的な問いとの消耗戦はひとまず休戦となった。彼は、神経の病にかかったことで、結果として、精神の病から救われることになった。

 

1.13(月)

 『ラッキーマン』を読み終わったのは夕方だった。散歩に出ると、通りには振袖姿の女性たちが目に付いた。TUTAYAでマイケル・J・フォックスが出演している映画『アメリカン・プレジデント』(1995)のDVDを借りる。この映画は以前テレビで観たのことがある。主演俳優は同じマイケルでも、マイケル・ダグラスで、彼は脇役の一人に過ぎなかった(彼自身の見せ場は2ヶ所しかない)。しかし、『マイキー』、『バラ色の選択』、『遺産相続は命がけ!?』という一連の主演映画がことごとく失敗に終わった直後の彼にとっては、主役であるどうかはどうでもよいことだった。「ニューヨークからの機中で何度も読み返したためにページの角がよれていまい、ソーダ缶の茶色く丸いしみがついてしまった『アメリカン・プレジデント』の脚本をしっかりとわきの下にはさんで、ぼくはロブ・ライナーのオフィスに入っていった。こんなすばらしい脚本がぼくのところにまわってきたなんて信じられないという思いがあったからだろう、ぼくはこれをなんとか死守したかった。取り上げられてしまうという可能性もまだあったので、これをなんとか守り抜きたいと思っていた。」(297-8頁)。彼はこの映画の撮影を、パーキンソン病であることを隠しながら、サイネメットという薬で左半身の震えを抑えながら、終えたのである。現在、彼は「マイケル・J・フォックス パーキンソン病リサーチ財団」の活動に多忙な日々を送っている。財団のホームページのURLはhttp://www.michaeljfox.org/である。

 

1.14(火)

 1997年度の社会学専修卒業生の同窓会(3月8日)の案内状が幹事のSさんから届いた。卒業して5年が経つが、彼らのことはよく覚えている。才気煥発、才色兼備の学生たちがそろっていたという印象がある。当時は、社会学の研究授業は学年と対応していたので、学年ごとの印象がいまよりも鮮明に記憶に残るのである。手元に1996年度の社会学研究ⅢAの名簿がある。そこには87名の学生(人文、文芸の3年生を含む)の名前が載っているが、いま、「浅沼亨」君から「米本良子」さんまでの名前を眺めてみて、67名は顔を思い浮かべることができた。記憶残存率77%はなかなかの数字で、その半分は私の記憶力に寄っているが、後の半分は彼らの個性に寄っている。もっとも、逆は真ならずで、5年後のいま再会して、彼らの顔から一人一人の名前を77%の確率で思い出すことはたぶんできないだろう。同窓会ではぜひ胸に名札を付けていだだきたい。そんなことを考えながら、Sさんに出席のメールを送った。