フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月31日(金) 曇り

2007-08-31 23:59:16 | Weblog
  猛々しく始まった8月が、今日、ひっそりと終わった。連日の猛暑日も昔のことのような気がする。「でも、そんなの関係ねえ」(夏休みはあと4週間もある)と言ってみたい誘惑にかられるが、小島よしおの海パン姿がすでに季節の移り変わりの中で足裏を焼かない砂浜のように物悲しい。気分としては今日で夏休みは終わり。明日からは・・・秋休みなのだ。どうもスイマセン(by 林家三平)。
  林家いっ平の『老舗味めぐり』(グラフ社)を読んでいたら、「どうもスイマセン」の誕生秘話が紹介されていた。

  「あッ、林家三平さん!!」
  「いえいえ、加山雄三です」
  通りがかりの方に声をかけられると、よくこんなことを言って笑わせていた父。仕事の合間を縫っていろいろなところへ連れて行ってもらううちに私は、父の本名は「加山雄三」なのだと信じ込み始めていた。そんな折、日本テレビのロビーで、
  「三平さん!」
  と男性の声。日頃の習慣とは恐ろしいもので、振り向きながら、
  「加山ゆう・・・」
  と言いかけた父がびっくり。なんと本物の加山さんが立っていたのだ。
  「あッ・・・どうもスイマセン!!」
  咄嗟に出た心からの父の言葉。のちに父のキャッチフレーズとなるこのセリフは、今でも大切な思い出のひとつだ。(40-41頁)

  『老舗味めぐり』は、隠れたる名店とかではなく、東京に生まれ育った人間なら少なくとも名前くらいは知っている老舗のガイドブックだが、類書との違いは、どの店も筆者が「子どもの頃から通っている」という点にある。だから店のご主人とのやりとりも、初対面のグルメレポーターの場合とは全然違う。本書をパラパラとめくりながら、甘味同好会9月例会や、安藤先生の『院単』重版祝賀会(重版が決まったらおごってくれると、ずっと前に彼が私に約束したのだ)に思いが及ぶ。美味しいものを美味しく食べられることは幸せなことである。
  昼過ぎまでブックレットの執筆。昼食は鮪の角煮でお茶漬け。ジムへ行き、筋トレ3セットとウォーキング&ランニングを50分。餃子一皿分のカロリーを消費。その後、ルノアールで二十世紀研究所編『革命』(思索社、1949年)所収の清水幾太郎「社会現象としての革命」を読む。帰宅して風呂に入る。数日前から、シャワーではなく浴槽に湯を張って肩まで浸かるようになった。夕食は鶏の唐揚げと揚げ茄子。前者は葱ソース、後者は醤油でいただく。デザートはぶどう。
  「世界陸上」では男子400メートルリレーでようやく日本新記録が出て、何度も何度もリプレイをしていた。予選3位の記録なので、うまくいけば決勝で銅メダルが獲れそうだ。もしそうなったら荒川静香が金メダルを獲ったときのような、起死回生というか、溜飲を下げるというか、とにかく大騒ぎになるであろう。そうなってほしいものである。
  

8月30日(木) 曇り時々雨

2007-08-31 02:43:41 | Weblog
  清水幾太郎の学習院時代の教え子の集まりを「七九会」という。清水の誕生日が7月9日であることに由来するもので、清水の生前は毎年、誕生日のパーティー(「夏祭り」とも呼ばれていた)を開催していた。清水没後も、毎年集まって同窓会を開いていて、今年は生誕百年ということで記念の文集を作成した。縁あって、その文集には私も寄稿したのだが、今日、「七九会」の世話人である松本晃氏と寺崎上十氏にお会いして、教え子の目から見た清水幾太郎についていろいろとお話をうかがうことができた。清水が学習院大学を辞めたのは1969年3月であったから、「七九会」の一番若いメンバーでも私より5歳は年上であるが、松本氏は1961年卒、寺崎氏は1964年卒、ちょうど加山雄三の若大将シリーズが人気を博していた頃の大学生で、当時、私は小学生であった。清水は60年安保闘争の敗北を機に平和運動の前線から退いて書斎の人になるのであるが、お二人はちょうどその転換期の清水の教え子ということになる。うかがったお話の内容についてここで紹介することはできないが、1つだけ、清水幾太郎の身長は175センチくらいであったという証言を得たことは報告しておこう。清水が痩身長躯の人であったことは知っていたが、具体的に何センチであったのかはどこにも書かれておらず、個人的に気になっていた。私は写真などから180センチくらいあったのではないかと思っていたが、そうか、175センチくらいであったのか。それでも明治40年生れの日本人としては長身といえよう。身長が何センチであったかというのが清水幾太郎研究の上でそんなに重要なのかと思う方もいるだろうが、一人の人間をできるかぎり丸ごと理解したいと思っている者には、重要なことなのである。ディテールも大切なのだ。いや、ディテールこそ大切なのだ。
  帰宅すると、名古屋の古書店「永楽屋」から、注文してあった清水幾太郎『今日の教育』(岩波書店、昭和22年)が届いていた。70頁ほどの小冊子で、「新しき歩みのために」という企画ものの一冊である。長らく探していたのだが、ようやく入手できた。

           

  夜、沖縄在住のI氏という方からメールが届く。面識のない方だが、私のフィールドノートをご覧いただいていて、琉球新報に連載中の「不屈 瀬長亀次郎日記」の今日の記事の中で、1956年9月9日に瀬長が清水幾太郎と会ったときの記述(10行ほど)が紹介されていたので、そのことを知らせて下さったのである。ありがたいことである。瀬長亀次郎は琉球新聞社長、那覇市長、衆議院議員を歴任した沖縄の名士で、県民から「カメさん」の愛称で親しまれていた人物。偶然だが、清水と同じ明治40年の生れである。
  そんなわけで、今日は清水幾太郎デーであった。

8月29日(水) 曇りのち雨

2007-08-30 02:23:36 | Weblog
  9月22日(土)の早稲田大学交響楽団秋季演奏会(於.文京シビックホール)のチケットが届いた。正面、中央よりやや後方のよい席である。6月の演奏会のときとほぼ同じ席ではないかと思うが、偶然なのだろうか。前回は午後2時の開演であったが、今回は午後6時の開演である。昼間にどこかに寄ってから回れるな。どこへ行こうか、と考えることがすでに楽しい(実際は、原稿の締め切りに追われているかも・・・・)。
  昼食は卵かけご飯で簡単に済ます。卵かけご飯が好きということもあるが、週に一度(ときに二度)の「鈴文」のとんかつのせいか、夏痩せの反対の現象が生じているためである(もっとも、私、これまでの人生で夏痩せというものを経験したことがない)。後期の授業開始までにできれば2キロの減量をしたい。というわけで、食後、ジムへ。ただし、出かける時間が普段よりも遅かったので、筋トレ2セットとウォーキング&ランニング45分といつもより軽めのメニューになった。それでも鶏の唐揚げ一皿分のカロリー(約400kcal)を消費したので、卵かけご飯一杯との差は小さくないはずである。思うに、ジム通いには4つの快楽がある。汗をかく快楽、汗を洗い流す(シャワー)快楽、失われた水分を補充する(冷たい水)の快楽、そして体が軽くなる快楽である。よく「疲れないか」と聞かれるが、もちろんウォーキング&ランニングの直後はバテバテである。しかし、シャワーを浴びて水分を補給すると回復する。そして、帰宅の途中の喫茶店での読書は頭がスッキリして捗るのである。今日はルノアールで二十世紀研究所編『社会主義社会の構造』(思索社、昭和23年)所収の清水幾太郎の論文「社会主義社会における社会と個人の問題」を読んだ。これは昨日読んだ「資本主義社会における社会と個人の問題」の続編である。

  「もちろん、社会主義社会になってみたところで人間の不幸はやはり果てしなくあるでありましょう。・・・(中略)・・・社会主義の社会になっても人間は年を取るでありましょうし、病気になるでありましょうし、どうせ死んで土をかぶされるでありましょう。社会主義社会になっても夫婦喧嘩はなくならないし、継子いじめもなくならないし、人間は到るところで涙を流して嘆かねばならならぬ。にもかかわらず、人間の獲得しうるところのミニマムの幸福条件が、資本主義社会におけるよりも社会主義社会における方がよりよく確保できるということは安んじて云い得るのであります。」(250-251頁)

  戦後日本の進歩的知識人にとって「資本主義から社会主義へ」というのはモットーでありスローガンであった。清水もその例外ではなかった。ただし清水の場合は、マルクス主義者とは違って、それを歴史の必然的なコースとは考えていなかった。

  「社会主義社会といっても、何も決まっておるものではない。これを美しく光輝くものにしようと思うならばある程度までできる。しかし、これを何ら努力しないでうっちゃり放しにしておれば、暴力と野蛮と無知との犠牲を払って社会主義が実現する。もしもこれにわれわれが積極的な手を加えて努力するならば、社会主義はその統制と計画の原理が人間の自由と権利と調和し、両立しながら実現できるんだ。何も決まっていない。もしもこれを決めるものがあるならば、実に今生きておる諸君の気持ちと諸君の積極的な動きによって決まるのであって、まだ何一つ決まっているんではないんだということ、この事は私の話の節々でご了解頂けたかと思うのであります。」(251-252頁)

  清水と同年生れの作家、高見順の言葉をもじって言えば、「必然性の後ろに寝ていらねない」ということであろう。清水がソビエトや東欧の社会主義諸国の実態や、国内の社会主義陣営の運動方針に愛想を尽かして、「資本主義から社会主義へ」という公式への決別を宣言するのは、それから15年ほど後のことである。
  ルノアールを出ると、雨が降っていた。秋雨前線が停滞し、季節が大きく移り変わろうとしている。九月、季節の移り変わり。九月、移り変わりの季節。そう堀口大学は「九月」という詩に書いている。

           

8月28日(火) 晴れ一時雷雨

2007-08-29 03:18:06 | Weblog
  昼寝から覚めてジムへ。ところがジムの入り口近くまで来て、トレパンをバッグに入れ忘れたことに気がつく。いまから家に戻るのは億劫だったので、ジムは止めにして、ルノアールで持参した本(ジムの帰りに読むつもりだった)を読む。二十世紀研究所編『資本主義社会の構造』(思索社、昭和23年)。二十世紀研究所とは終戦の翌年に清水幾太郎らが始めたカルチャーセンターのようなものである。講座のうちのいくつかは本になって出版されているが、本書はその一冊。清水を含めて4人の講師によるオムニバスの講座だが、清水の講義のタイトルは「資本主義社会における社会と個人」。「社会と個人」は清水の社会学(あるいは社会思想)における中心的なテーマの1つである。です・ます調の読みやすい文章だが、分量は多くて、65頁もある。これで一回分の講義なのだろうか。だとしたら何時間の講義なのだろうか。まさか私が日頃大学でやっている講義と同じ90分ということはあるまい。少なくとも3時間はかかる分量である。話す方も大変だが、聞く方も大変だったであろう。いや、これが普通だったのかもしれない。戦後わずかに3年、地熱のまだ冷めやらぬ時代の話だ。

           

  半分ちょっと読んだところで、冷房で体が冷えてきたので、ルノアールを出る。暮れ方の商店街を散歩し、南天堂書店で以下の本(古本)を購入。

  堀秀彦『残された主体性の世界 賭博と性における人間』(大和書房、1970年)
  ちくま文学の森『賭けと人生』(筑摩書房、1988年)
  小倉知加子『セックス神話解体新書』(学陽書房、1988年)
  林家いっ平『老舗味めぐり』(グラフ社、2006年)

  偶然だが、性、食、賭け事という人間の原初的な欲求にまつわる本を選んだことになる。「掘秀彦」という名前には見覚えがあった。清水幾太郎の自伝『わが人生の断片』の中に登場する名前だ。東大の社会学研究室を追われるように飛び出した清水が、食っていくためにやっていたアルバイトの1つに、刀江書院の『児童』という雑誌への寄稿があった。いま風に言えば、フリーランスのライターで、不安定な仕事である。原稿の売り込みのために刀江書店にやってきて、社長の前で卑屈に振舞う人たちの姿を見て、「僕もあんな風になるのかな」とつぶやいた清水に、「君は違う、大丈夫だ」と強く言ってくれたのが、当時、編集者のような立場で『児童』の仕事にかかわっていた堀秀彦だった。堀秀彦は、東大の哲学科の出身で清水の5歳年長。戦後は東洋大学の教授になり、学長も務めた。『残された主体性の世界』は、その堀秀彦が初めてアメリカを旅行して、賭博と性に夢中になっている人々を見て、強いショックを受け、そのことについて考えたことを書き連ねた本である。同じ頃、清水幾太郎は岩波書店の雑誌『思想』に「倫理学ノート」を連載していた。大衆社会における人間性とモラルの問題は、当時(高度成長期)の知識人たちの共通の関心事だったのだろう。

           

  帰宅すると、家の前の道路に「なつ」の奴がいた。名前を呼ぶとやってきたので、抱き上げる。まるで野良猫らしくない。夜、大きな雷を伴う雨が降った。まるで近所で花火大会でもやっているようであった。飼い猫の「はる」はびっくりして食卓の下の椅子の上で縮こまっていた。野良猫たちもどこかで縮こまっているのだろうか。雷雨が通り過ぎると、そこかしこから虫の声が聞こえ始めた。

           

8月27日(月) 晴れ

2007-08-28 02:47:59 | Weblog
  昨日、庭木に毛虫がいるのを母が発見した。というわけで、今朝、暑くなる前に、私と妻とで庭木の消毒作業。その後、妻はジムへ。私は息子を誘って昼食をとりに出る。月曜は「鈴文の日」であるが、朝食が自家製コロッケサンドだったので、揚げ物が続くのはどうかと思い、喜多方ラーメンにする。食べ終えて、息子は帰宅し、私はそのまま散歩へ。
  ディスカウントチケット店の前を通ったら、9月8日封切りの木村拓哉主演の映画『HERO』の前売り券が目に入った。TVドラマ『HERO』は毎回楽しみに観ていた。ただ、映画となると、どうしても事件が大仕掛けになりがちで、TVドラマのときの味わいが失われてしまうのではないか。そういう懸念はあるが、購入。1300円也。
  新星堂でメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」の入っているCDを探す。日曜日に「N響アワー」を視聴して、そこで気に入った曲を月曜日に購入するといういつものパターンである。「スコットランド」の入ったCDは2枚あり、1つはクレンペラー指揮のもの、もう1つはバーンスタイン指揮のもの。両方とも一緒に収められているのは交響曲第4番「イタリア」である。値段はクレンペラーの方が1300円、バーンスタインの方が1000円だったので、後者を購入した。帰宅して早速聴いてみた。悲哀と祈りと安らぎに満ちた音楽である。イ短調の作品で、本国ではイ長調の「イタリア」の方が人気があるそうだが、たぶん日本では逆だろう。

           

  ところで、岩城宏之が『音の影』でメンデルスゾーンについてこんなことを書いている。

  「ぼくの知る限りの西洋音楽史の中では、生まれたときから裕福で、死ぬまで金持ちだった作曲家は、メンデルスゾーンだけのようである。ほかはたいてい貧乏出身で、全盛期にはけっこう金を稼いでも、晩年には悲惨な状況というのが、多いようである。」(183頁)

  メンデルスゾーン家は銀行家の一族だったのである。日本でいえば、三井・住友みたいなものである。ただしユダヤ系だったので、いろいろと不快なことはあったらしい。

  「メンデルスゾーンは、モーツァルトとともに、「歌うアレグロ」を書くことができた、二人だけの作曲家だと言われている。歌に満ち溢れている曲は、たいてい、テンポが遅い。だからゆっくり歌えるのだ。これは西洋の一八~一九世紀の音楽でも、わが国の演歌の世界でも同じことだ。テンポの速い曲と、メンメンと歌う音楽は、相反する。これを自然に、すんなり書いているのが、この二人なのだ。」(188頁)

  メンデルスゾーンとモーツァルトにはあと2つ共通点がある。曲を書き上げるのが早かったことと、若くして亡くなったことだ(メンデルスゾーンは38歳、モーツァルトは35歳)。この2つはもしかすると関連があるのかもしれない。ところが、例外的に「スコットランド」は着手してから完成まで十数年かかっている。これは一体どうしたことだろう。多忙のため、というだけでは説明できないだろう。星野宏美『メンデルスゾーンのスコットランド交響曲』(音楽の友社、2003年)という本がある。私は未読だが、「自筆譜や書簡など、数々の原典資料にもとづき、スコットランド交響曲の着想から完成まで14年間の成立史を詳細に考察。他の交響作品との関連をも明らかにし、作曲家メンデルスゾーンの成長の軌跡をたどる。メンデルスゾーンの生涯と創作に迫る初の本格的研究書」(「BOOK」データベースより)とのことである。500頁近い大作で、メンデルスゾーンの評伝ならそれもわかるが、彼のたった一つの作品だけを題材にしてのことだから恐れ入る。まったくの専門外の書物だが、清水幾太郎研究の何かの参考になるかもしれぬと考えて、Amazonで注文することにした。