フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2002年11月

2002-11-30 23:59:59 | Weblog

フィールドノート0211

11.1(金)

ホームページのトップページに「フィールドノート(準備中)」と新しいコンテンツの予告をついうっかり書いてしまったのは、夏休み前のことだった。以来、「一体いつになったら始まるのか」「一体どんな内容なのか」という質問をごく少数の方から繰り返し受けて、身の縮む思いの数ヶ月だった。

私のホームページで最も頻繁に更新されるのは「講義記録」で、原則として週1回、新しい講義記録が付け加わる。しかし、夏休みに入って授業がなくなると、これがストップする。他のコンテンツ、たとえば「研究室だより」は本来3ヶ月に1度のペースで更新していたのだが、昨年7月に「研究室だより」を連載していた雑誌が終刊となって以来更新されていない(当初は締切から解放されて自由に書けると楽観していたのだが、やはり怠け者というのは情けないもので、締め切りという外的強制力が消滅すると書くのが億劫になる)。このままではホームページが夏休み中に砂漠化してしまう恐れがある。それを避けるために、もう少し頻繁に(そのためにはお手軽に)更新できる新たなコンテンツとして構想されたのが「フィールドノート」であった。

 元来、フィールドノートというのは、人類学者や民俗学者が具体的なフィールド(現場)に出向いていって、そこで調査したことがらを書き留めておくノートのことだが、この「フィールドノート」は、読んでいただければすぐにわかることだが、私自身の日常生活をフィールドとした「日記」のようなものである。正面切って「日記」としないのは、第一に、毎日更新するつもりはないこと(1週間ごとの予定)、第二に、私自身について語るのではなく私が見聞した事物について語るつもりであるからだ。

 

11.3(日)

古本屋で田代まさし著『自爆』(ケイツー出版)を立ち読み。面白いので購入。私は留置所での生活の経験はないが、入院の経験はある。留置所も病院も社会学者ゴフマン言うところの「全制的施設」(total institution)である。当人がいくらそこを出たくとも、許可が下りない限り、出ることはできない。病院の屋上から下界を眺めながら、道を歩いている人たちを「自分の意思で道を歩いている」ということの故にひどくうらやましく思った記憶がある。だから田代が留置所の窓から路傍の自動販売機を眺めながら、「いつも、何気なく買っていたドリンク。『どれにしよーかな』って迷う瞬間や、コインをカチャカチャ入れていく動作のひとつひとつ。自由に飲みたいものを飲んでいた自分。『もう飲めない』って残していたりした自分。それがどれだけ価値のあることだったのか、今になってはじめて思い知らされた。」と述懐する部分が妙に心に沁みた。彼のあの独特のギャグを再びTVで見ることのできる日は来るだろうか。

 

11.4(月)

 早稲田祭を見物に行く。6年ぶりの早稲田祭。ただし大学公認の学園祭ではない。学生たちが大学の施設を借りて自主的に運営している学園祭である。入口でプログラムを無料で配っている。かつての早稲田祭=革マル祭では来場者はプログラムを買わないとキャンパスに入ることができなかった。そんな学園祭はほかにはない。早稲田祭が新左翼の一党派の資金集めに利用されていたのである。そういう早稲田祭が中止になって6年、さまざまな困難を乗り越えて、一般学生たちによって早稲田祭が新しく生まれ変わった。好天に恵まれ、本部キャンパスは大変な人出だった。そこここでスタッフの学生たちがテキパキと働いており、とくにゴミの分別回収のシステムは見事だと思った。今回はたった2日間の開催であったが、来年は開催期間の延長(せめてもう1日)と大学の公認を望みたい。スタッフのみなさん、お疲れ様でした。そして、ありがとう。

 

11.5(火)

  昼から大学に出る。研究室で演習のグループ発表の事前相談を2件。研究室が寒いので、早稲田駅近くのディスカウント・ストアーで安物の電気ストーブ(3千円弱)を買ってくる。12月になってスチームが入るまでのつなぎである(エアコンの暖房は使えるのだがモアッとした感じが厭なので使わないようにしている)。

 

11.6(水)

 飼猫の「はる」(生後5ヶ月)が小さな鈴の付いた1メートルばかりの紐を食べてしまったらしい。妻が病院に連れて行き、レントゲンを撮ってみると確かに鈴と紐が写っていた。このままだと腸に穴が開いてしまう恐れがあるということで緊急手術。思いもかけぬことになって慌てたが、全身麻酔をかけたら胃の内容物を吐き出し、鈴付きの紐も出てきた。ただし、腸のチェックのため開腹手術はした(この判断には疑問を感じる)。異常なし。内臓にメスは入れていないので、麻酔が覚めた夕方に帰宅。腹部の体毛をそられた姿は痛々しい。本人、なぜこんなことになったのかわからないだろう。

 

11.7(木)

 2限の大学院の演習は今年は受講生1人だけ。「忘れられつつある思想家」清水幾太郎の主要な著作を読むという「しぶい」テーマなのでいたしかたなかろう(ちなみに昨年度は「人生の物語」論がテーマで受講生6人)。後期は『現代思想』と『倫理学ノート』という学者としての清水の代表作を読む。元来、清水は勉強家として知られるが、その清水が自伝の中で「『現代思想』が出版されるまでの気違いじみた勉強」という表現をしている。事実、『現代思想』の「文献目録」に載っている参考文献は179冊で、そのほとんどが英・独・仏語の洋書である。「気違いじみた勉強」の成果をじっくり味合わせてもらっている。

 

11.8(金)

 一週間の中で金曜の夜が一番のんびりする。反対に一番しんどいのは木曜の夜だ。今年度は木曜と金曜に授業が集中しているためである。木曜の7限の授業を終えて帰宅すると23時近く。翌日、2限の授業のために家を出るのが9時ちょっと前。この間、グッスリ眠れれば問題はないのだが、たいていは授業の準備で寝不足ということになる。しかし、金曜の授業が終わると次の授業までかなりの余裕がある。土曜日は新刊の小説を読み、日曜日は新刊の専門書を読み、月曜日は大学院の演習の下調べ、火曜日は学部の講義の準備・・・・と余裕の皮算用をする。しかし、計画通りにいくことはめったになくて、風邪で3日間も寝込んだりするのである。

 

11.9(土)

 早稲田社会学会の機関紙『社会学年誌』の編集委員会。来年度の特集のコーディネーターを引き受ける。テーマは「社会学者と社会」(仮題)。さっそく執筆者の人選に取り掛からねばならぬ。とりあえず「新明正道」を研究している道場氏に声をかけよう。

 

11.11(月)

 3限の時間、研究室で演習のグループ研究の相談2件。その後、昼食。「五郎八」で今年最初の鴨南蛮を食べる(お稲荷さんを2個追加注文)。スーパーで研究室用の食料の買出し。蜜柑、バナナ、カップ麺、餅、クラッカー、バター、チーズ、マーマレード、チョコレートなどを購入。

 

11.12(火)

 午後1時から専攻・専修主任会。その前に昼食を済まそうと早めに研究室にいくと、ドアの前に演習の学生が数人いる。一瞬、約束したのを忘れたかと思ったが、グループ研究の飛び込みの相談とのこと。相談はアポをとってからが原則なのだが・・・・。おかげで昼食のために外出する時間がなくなり、昨日スーパーで買ってきたカップ麺のお世話になる。

 

11.13(水)

 終日、家で試験の採点。実はこれ前期の授業の試験で、採点結果の事務所提出の締切は10月30日なのである。諸々の事情で(怠惰というのが一番大きい)遅れに遅れていまい、絶対に今日中に終わらせて、明日、事務所に提出せねばらないのである。深夜、終わる。出席状況の悪いものは答案の出来も悪いが、しかし、出席状況がよいからといって必ずしも答案の出来もよいとは限らない、ということを改めて認識する。

 

11.14(木)

 午後、卒論ゼミ。ゼミ形式での指導は今回が最終回。締切までの残り1ヶ月は個人指導体制となる。さあ、みんな、覚悟を決めて書き始めよう。書くことが完全に決まってから書き始めるのではなく、基本的な方針を決めたらあとは書きながら考えよう。

 

11.15(金)

 夕方から竹橋の如水会館で生命保険文化センター主催の中学生作文コンクールの表彰式とパーティーに出席。「生命保険」をテーマにした作文コンクールで今年で40回を数える。私は去年から審査委員になったのだが、中学生に「生命保険」をテーマにした作文など書けるのだろうかという懸念に反して、感動的な作文が目白押しでびっくりした。

 

11.18(月)

 私は大学から支給される手帳(能率手帳)を使っている。今日、来年度の手帳が支給された。書店や文具店などでは9月頃から来年の手帳が店頭に置かれているので、この時期に支給というのはなんだが遅く感じてしまう。社会全体の時間の加速化のペースに感覚が適応してしまっているのだろう。

 

11.19(火)

 毎月第3火曜日は文学部の教授会である。学内にはさまざまな会議があるが、一番規模が大きく、かつ一番時間が長いのが教授会だ。今日も午後1時に始まって、午後5時になってもまだ終わらない。会議というのは3時間を上限とすべきではなかろうか。3時間を越える会議はもはや会議とは呼べない。誰かが何かを喋っているということはわかるのだが、一体何を喋っているのか、集中力が低下してフォローすることができない。もしかしたら長時間の会議は大量の案件を迅速に通すための戦略ではないかとさえ思えてくる。しかし、そういう状況においても、常に質問や反対意見を述べることを忘れないO先生やK先生には感服する。

 帰りに生協文学部店(午後9時半まで営業している!)で『「明星」50年 601枚の表紙』(集英社新書)という新刊本を買う。雑誌「明星」の1952年10月号(創刊号)から2002年10月号(最新号)までの表紙601枚をオールカラーで掲載した本で、橋本治の解説が付いている。スターとアイドルの戦後史を考える上での貴重な資料である。来年度の卒論計画書を「現代アイドル文化の社会学的考察」というタイトルで提出してきた学生がいる。12月10日の仮指導のときに本書を紹介することにしよう。

 

11.20(水)

 朝刊にアメリカの映画俳優、ジェームズ・コバーンの死亡記事が載っていた。ビバリーヒルズの自宅で夫人と音楽を聴いているときに心臓発作に見舞われたとのこと。享年74歳。私にとってのコバーンは「大脱走」(1963年)のコバーンだ。あの映画では脱走兵の多くは捕まったり(たとえばマックイーン)、殺されたりしたが(たとえばアッテンボロー)、コバーンは逃げ延びた数少ない人間の一人だった。眼光の鋭い役者だった。

 

11.21(木)

 今日は、専修進級希望届の締切日、一文の1年生にとっては重要な日だ。実は私はそのことを忘れていたが、昼過ぎに女子学生が飛び込みで私の研究室にやってきて、社会学に進むか教育学に進むか迷っているので相談に乗ってほしいと言ったので、ああそうかと気がついた。夕方、今度は男子学生が社会学に進むか人文に進むか迷いましたが人文に決めましたと報告に来た(初対面の学生である。なんでわざわざそんな報告に来たのかというと、彼が私のホームページの講義記録の読者であるからだ)。本来、面会はアポをとってから来るものだが、彼らにとっては今日はこれからの大学生活の重要な側面が決定する日なのだ。大目に見よう。さて、だいぶ遅れてしまったが、明日の授業の準備に取りかかろうと思ったところ、また誰かが研究室のドアをノックした。3人目の1年生かと思ったら、去年の二文の私の基礎演習をとっていた女子学生で、年が明けたら入籍することに決めましたという報告だった。彼女、まだ20歳である。人生の転機もいろいろだ。

 

11.22(金)

 昨夜、高円宮憲人親王が亡くなられた。スカッシュの練習をされているときに心室細動という異常に見舞われのだそうだ。高円宮は私と同じ年のお生まれだが、私も先月の人間ドックで心電図の異常を指摘されたばかりである。私は自分をもう若くないと常々思っていたが、高円宮の死はあまりにもお若い死だと感じる。私が高円宮を最後に(と同時に最初に)お見かけしたのは、今年の3月21日、神奈川県民ホールでのチェロの演奏会でのことだった。その前日、馬場下の交差点で信号が青に変わるのを待っていたら、前にチェロのケースを抱えた学生がいた。これから学生会館に練習に行くのだろう。その姿を見て、5年前、しばしばチェロのケースを抱えて私の研究室に卒論指導を受けに来ていたKさんのことを思い出した。当時、Kさんは早稲田交響楽団の部員で、一度、チケットをいただいて上野の東京文化会館に演奏会を聴きに行ったことがあったが、いまも彼女はチェロを続けているのだろうか。そんなことを思った。だから翌日、そのKさんから「お久しぶりです」という件名のメールが届いたときは驚いた。メールは翌日、神奈川県民ホールで開かれる「日韓チェロコンサート」への招待だった。チェロばかり230台(!)の演奏会であるという。もちろんKさんはその230人の中の1人である。そういえばKさんの卒論は「在日韓国人三世」をテーマにしたものだった。「明日は予定がなく、おまけにちょうどチェロが聴きたいなと思っていたところだったので、伺います」と返信のメールを出した。昨日の交差点でのことは書かずにおいた。演奏会はまさにチェロの海を漂っているような感じで、本当に素晴らしかった。演奏会の終盤、大会の名誉総裁である高円宮がステージにチェロを持って颯爽と、しかし、少しの気取りもなく現れ、演奏に加わられた。高円宮の皇位継承順位は第7位であったが、一番プリンスの雰囲気を身につけていた方だったと、私は思う。合掌。

 

11.24(土)

 今日は勤労感謝の日。しかし、今日が休日なのは土曜日だからで、誰も勤労感謝の日だからだとは思ってないでしょう。誰からも感謝されない、かわいそうな勤労感謝の日。祝日が日曜と重なったときは月曜が休日になるのに、土曜と重なったときは何もない。週休2日制が企業ばかりでなく学校にも普及した現在、それはないんじゃないかと思う。もっとも私、月曜は授業をもっていないので、個人的には関係ないんですけどね。しかし、月曜の休みがこれ以上増えるのは学校にとっては問題だから(月曜の授業時間が不足する)、どうでしょう、祝日が土曜と重なったときは金曜を休日にするというのは。はい、お察しのとおり、私、金曜に2コマ授業をもっております。

 

11.24(日)

 大学院の演習の下準備。清水幾太郎『現代思想』第3章「1960年代」第1節「イデオロギー」の箇所を読む。分量は60ページで、小説であれば1時間もあれば読んでしまうところだが、なにせ密度が高く、しかもいろいろと考えさせる文章なので(私は読みながら考えたことを欄外にメモする習慣がある)、3時間はかかる。しかし、軽快にページをめくるのもいいが、歩いては立ち止まり、歩いては立ち止まりしながら静かにページをめくっていくのも悪くない。ところで、今日読んだ箇所で、中国の指導者がソヴィエトの指導者に宛てて書いた手紙が資料として使われているのにびっくりした。手紙の内容はソヴィエトがスターリンを批判をしたことへの批判なのだが、私がびっくりしたのはその内容ではなく、それが1966年3月の手紙であることだ。『現代思想』は1966年4月30日の発行である。私も本を何冊か出しているからわかっているが、発行日の1、2ヶ月前に本文に加筆するというのは、通常は考えらないことだ。清水はギリギリのギリギリまで原稿に手を入れていたわけだ。「1960年代」を1966年に論じることは難しい。なぜなら「1960年代」はそのときまだ進行中だから。論じる主体と論じられる対象が同じ歴史的平面にいるとき、対象に歴史的評価を与えることはきわめて困難である。「現代史」というものは原理的にありえないという考え方もある。現在進行中の状況に少しでも確かな評価を与えるために、清水は可能な限り最新の資料を駆使しようとしたのであろう。

 

11.25(月)

 東邦大学大森病院(自宅から自転車で10分ほど)に入院中の母を見舞いに行く。母はこの8月に腎臓に癌が発見され、9月に入院、片方の腎臓の摘出手術を受け、現在は抗癌剤の治療を受けている。母は以前にもこの病院に骨折、白内障の手術や、糖尿病の治療で何回も入院しているが、そのときは美味しかった病院食が今回はさっぱり美味しくないという。調理師が代わったのではないかと本人は言うが、手術をして味覚が変わったか、癌という気分を重くさせる病気のせいではないかと私は思う。今日の病院食は昼がパン(ハンバーガー)で、夜が魚の塩焼きなのだが、母はパン食を好まず、魚が苦手である。それで今日はテイクアウトのすし屋で買った干瓢巻とお稲荷さん、昨日の我が家の夕食の残りの炊き込みご飯を持って見舞いに行った。昼食はディールームと呼ばれている面会コーナーで他の患者さんたちと一緒に食べた。私の持参した干瓢巻とお稲荷さんを母が食べ、母の病院食を私が食べた。小ぶりのハンバーガーが1つ(本当は2つなのだが、母は糖尿病の低カロリーのメニューなのだ)、キャベツの千切りときゅうりの薄切りのサラダ(フレンチドレッシング付)、レモンティー(ティーバックとレモンのスライスが皿にのっていて、お湯は給湯口で自分でカップに注ぐ)。ハンバーガーはなかなか美味しかった。紅茶もハンバーガーに合っていた。サラダのキャベツは多少手間でも一度湯を通して柔らかくしてくれると食べやすいと思った。母の隣のベッドでやはり抗癌剤の治療を受けている患者さんが、今日は食欲がないというのでハンバーガーを1つ分けてもらった。母はお稲荷さんを同室の患者さんたちに分けて回った。食事の時間はどうしても陰鬱になりがちな病棟の生活の中で唯一活気のようなものが感じられる時間だ。食べることは生きることだ。

 

11.26(火)

 早稲田大学人間総合研究センターのシンポジウム「支える身体・支えられる身体」が、12月7日(土)午後1時から6時まで、早稲田大学国際会議場(中央図書館と同じ建物)で開かれる。私はセッション2「人に支えられる身体」の討論者(報告に対するコメントを述べる役)の一人として参加することになっている。セッション2の司会役の嶋崎先生から全報告者(8名)のレジュメがメールで送られてきたので目を通す。根ヶ山先生(人科教授)のレジュメに載っていた、身体産生物(大便、小便、痰、膿、垢、唾液、鼻くそ、よだれ、抜け毛、切った爪、かさぶた)に対する嫌悪感を調査したデータが非常に興味深かった。シンポジウム前にそれをここで公開するのはルール違反なのでできないのが残念だ。・・・・シンポジウムの宣伝でした。

 

11.27(水)

 文学部生協店で刊行が開始されたばかりの『村上春樹全作品1990~2000』(講談社)の第一巻「短編集1」を購入。彼の作品は単行本でほとんどすべて持っているのだが、このシリーズに収められる作品は全編加筆訂正が加えられており、また、著者自身による「解題」が付いている。買わないわけにはいかないだろう。今回の主たる収録作品『TVピープル』は、その「解題」によれば、おそらく『ノルウェーの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』という2冊の長編を立て続けに書いた反動で「何も書けなくなってしまった」彼が、「孤独で、冷たく、薄暗い日々」を1年ほど通過したある日、「まるで頭の中で何かのスイッチが入ったみたいに」突然短編が書きたくなって書いた「復帰作」である。私は村上春樹研究者ではないので、加筆訂正についてはそんなに興味がないが、こうした「楽屋話」はとても面白い。

 

11.28(木)

 7限の授業を終えて、帰宅したのは23時。風呂を浴びてから、妻が録っておていくれたTVドラマ「真夜中の雨」を妻の淹れてくれたコーヒーの飲みながら妻と一緒に見る。いま、やたらに「妻」という文字が出てきたが、これが大切なところで、自分でタイマー録画しておいたTVドラマを帰宅してから一人で見るのではない点を強調したかったのである。夫婦にとってのTVドラマは恋人同士にとっての映画と機能的に等価である。つまり一緒に同じTVドラマを見るという行為には夫婦の絆を強める作用がある、あるいは、仲のよい夫婦は一緒に同じTVドラマを見る傾向がある、と私は考える。先週、私が受け持っている2年生の演習の学生たちが、核家族世帯におけるテレビの保有台数と家族の絆の強さ(各種同伴行動の頻度)には負の相関があるという自分たちの調査結果を発表したが、私は深くうなづいた。ところで、今期はTVドラマの視聴率が全体的に振るわないそうだ。私が毎週欠かさず見ているのが「真夜中の雨」と「アルジャーノンに花束を」の2本しかないことからも、それは実感できる。私はもともとTVドラマをよく見る方で、一日に2本のペースでみた時期もあった。その私が週に2本しか見ないのだから、TVドラマの低迷もさもありなんと思う。低迷の理由は、いい脚本が少ないことと、一部の俳優たちに頼りすぎていること(変化するのは共演者の組み合わせだけ)にある。

 

11.29(金)

 穴八幡神社の「青空古本市」で買った磯田光一の評論集『近代の感情革命』(1987年)の中の一篇「ある感情革命」を興味深く読む。西洋において憂鬱(メランコリー)がプラスの意味をもった感情として意識されるようになったのは19世紀のロマン主義の時代のことで(キーツの『メランコリーによせるオード』がその嚆矢)、これは産業革命=勤勉革命とならぶ近代のもう一つの革命、感情革命と呼ぶべきものである。19世紀西洋文学の影響を受けた明治・大正文学がこの感情革命を摂取して、憂鬱という感情を日本の風土に定着させた。そして、この感情革命を散文において完成させたのが『田園の憂鬱』(1918年)、『都会の憂鬱』(1923年)の佐藤春夫である、と磯田は述べる。私は、拙稿「近代日本における『人生の物語』の生成」において、上昇的社会移動(立身出世)をテーマとする「成功の物語」が、明治末期、学歴(上昇の手段)のインフレなどを理由に色あせ、代わって「成功は必ずしも幸福にあらず」というメッセージを伝える「諦めの物語」=消極的な「幸福の物語」が大正半ばに登場することを述べたが、磯田の言葉を借用すれば、「成功の物語」は勤勉革命の産物であり、「諦めの文学」=消極的な「幸福の物語」は感情革命の産物であると言えるだろう。

 

11.30(土)

 「オールジャパン・リクエストアワード2002」(旧・全日本有線放送大賞)の発表の模様をテレビで見る。大賞はポップス部門が3年連続で浜崎あゆみ、演歌・歌謡曲部門が氷川きよし。それにしても新人賞やゴールドディスク賞(大賞候補)を受賞しても会場に来ない歌手やグループが非常に多く、この種の賞の重みがずいぶんと軽いものになってきていることを改めて実感した。最優秀新人賞も大賞も会場に来ている歌手・グループが受賞したことからもわかるように、誰が受賞するかは事前に関係者には知らされているのだろう。とすれば、最優秀新人賞や大賞を取れなかった歌手・グループが、わざわざ受賞者の引き立て役になるために会場に来たりはしないだろう(あえてその役を買って出た数人の歌手・グループはえらいが、断れない事情があるのだろう)。しかし、それはそれとして、大賞の浜崎あゆみの歌はなかなかのものだった。さすがに現代の「歌姫」と呼ばれるだけのことはある。受賞曲「voyage」は矢田亜希子主演のTVドラマ「マイ・リトル・シェフ」の主題歌で、私は毎週聴いていた。♪僕たちは 幸せになるために この旅路をゆく・・・・。