フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

12月31日(日) 晴れ

2006-12-31 23:59:59 | Weblog
  気が付けば大晦日である。紅白歌合戦を観ながらフィールドノートを書いている。いま小林幸子が火山のような衣装で歌っている。
  『社会学評論』(日本社会学会の機関紙)の最新号が送られてきて、目次を見たら、長谷先生が「研究動向」欄で最近の文化社会学の傾向を分析している。最初の章を読んでなんだか面白そうだったので、昨日購入したばかりのバッグに入れて散歩に出て、シャノアールで読む(7章まであるのだ)。一言でいうと、「ポストモダンの社会学」から「責任と正義の社会学」へ、ということらしい。ふ~む、長谷先生からそう言われると、確かにそうだなという気がしてくるから不思議だ。「ポストモダンの社会学」は高度に知的な遊びである。一方、「責任と正義の社会学」(と長谷先生が呼ぶのもの)はこのろくでもない社会をどうしたらいいのか、このろくでもない時代をどう生きていけばいいのか、そういう真面目な問題意識と、何らかの提言を伴う(少なくとも志向する)社会学的研究である。そういうシフトを生じさせ、加速させた諸要因は、冷戦(という名前の危機をはらみながらもそれなりに安定していた世界システム)の終結、バブル経済(という名前の爛熟した消費社会的状況)の崩壊、オウム事件と阪神淡路大震災、そして9.11テロである。「ポストモダンの社会学」から「責任と正義の社会学」へという補助線を引くことで、混沌とした言説空間の見晴らしが一挙によくなった。私自身のいる場所もよくわかった(ような気がする)。戦後知識人論は「ポストモダン派のように社会をシステム論的に(無時間的に)記述するよりも、戦後という歴史的偶有性のなかで生きていた知識人の姿を時間的厚味のなかで描き出そうとすることに力点を置いている」のである。「ポストモダン期にはむしろ批判され無視されていた戦後知識人たちが、こうして現代に再び召還されたのは、むろん彼らが歴史のなかでの自分たちの『責任と正義』を取ろうとした真面目な知識人だったから」である。なるほどね。本論文は来年度の社会学演習ⅠBで読むテキストの一つに決定。「歴史」の重要性を再認識した私は、くまざわ書店で、ウォーラーステイン『脱商品化の時代 アメリカン・パワーの衰退と来るべき世界』(藤原書店)を購入して、帰宅した。

          
                面白い論文が載ることもある

  紅白歌合戦は白組の圧勝で終わった。終盤、徳永英明「壊れかけのRadio」と秋川雅史「千の風になって」と会場全体が水を打ったようにして聴き入る歌唱が2曲続いたのが大きかったのでないかと思う。DJ OZAMのダンサーの女性たちの突然のボディースーツには私もびっくりした。一瞬、本当に裸になったように見えた。でも、カメラがそのまま彼女たちを映し続けたので、ハプニングではなく予定の演出なのかと思ったら、後から紅白歌合戦のホームページに「NHKはこのような姿になることは放送まで知りませんでした」という掲示が出ていた。誰かが責任をとらされることになるのだろう。気の毒に。絶対に抗議の電話が殺到だろうなと思っていたら、案の定、途中でアナウンサーが説明とお詫びをしたが、それが「千の風になって」の直後だったのはせっかくの余韻に水をさすものだった。にぎやかな歌の後にしてほしかった。女性陣でよかったのは、アンジェラ・アキ「HOME」。DJ OZAMの直後の騒然として雰囲気をたちまち収拾してみせた歌唱力はただ者ではない。藤あや子「雪深深」は序盤で使ってしまうにはもったいない歌である。終盤にもってきていたらボール2つは違ったのではないか。そんなことを考えながら、2007年を迎えた。今年もよろしくお願いいたします。 

12月30日(土) 晴れ

2006-12-31 12:03:07 | Weblog
  買物の一日。午前、妻から「マルエツでこれ買ってきてね」とメモを渡され、「ハーイ!」と元気に自転車に乗って出かける。野菜とか肉とかの類ではなく、アクエリアスのペットボトル(2リットル)を一箱とハーゲンダッツのアイスクリーム各種(ラムレーズン、バニラ、ストロベリー、クッキー&クリーム、洋梨コンポート)である。メモには記されていなかったが、自分の好みでハーゲンダッツのアズキも加えることで、「妻のいいなりになる夫」のイメージを5ミリほど脱却する。

          
                   進め!買い出し君

  午後、自分の買物に出かける。まずは「やぶ久」で腹ごしらえ。今夜はすき焼きの予定なので、定番のすき焼きうどんではなく、天ぷらうどんを注文。ここの天ぷらうどんには温泉玉子が小鉢に入って付いてくる(注:何を注文しても付いてくるのだ。玉子丼や月見そばにも付いてくるのだから驚く。たぶん裏庭に温泉が湧き出しているに違いない)。それをうどんの中に放り込む。薬味の葱もたっぷりと入れる。そうやって天ぷらうどんを食べると、プチ鍋焼きうどんになる。半熟の卵と濃いめの汁がうどんにからみついて、うまい。
  それから電車に乗って、お隣の川崎まで行く。プリンター(モノクロのレーザー)を購入するためである(地元のラオックスには昨日行ったのだが、インクジェットのカラープリンターが数台置いてあるだった)。川崎の駅の改札を出て、さてどの店に行こうと考え(さくら屋、ヨドバシカメラ、ビックカメラがある)、ラゾーナに入っているビッグカメラに行く。本当に川崎は便利である。お目当てのエプソンのLPー1400が展示されたいたので、即決で購入。いま使っているのと同じものだが、大量に使うため、すでに一度トナーを交換している。そろそろまたトナー交換が必要で、おまけに感光体の交換時期も近づいている。トナーと感光体ユニットで2万円もかかるので、それならプラス5千円で新品を購入して、古いやつは子供に回せばよいと考えたのである。
  ビッグカメラに決めたのは、ついでに丸善に寄りたいからである。プリンターを購入する前に(荷物になるので)、丸善でショッピング。とくに何を買おうという目的がなくても、文具コーナーを見て回るのは楽しい。そしてついついて買ってしまう。ポストイット各種、ポストイット付きボールペン(ボールペンの軸に付箋が組み込まれていて本に書き込みをしつつ、同時に付箋も貼れるというアイデア商品)、革の栞、絵葉書、レタースケール(250グラムまで計れる)、これらの小物に加えて、セカンドバッグをいくらかの逡巡の末に購入。女性は一般にバッグが好きであるが、男だってそうなのである。少なくとも私は好きである。今回購入したのは散歩用。本やノートを入れて散歩に持って出るのに適している。いまは黒のショルダーバッグを愛用しているのだが、冬場の散歩は、黒の革ジャンを着ることが多く、黒に黒ではヤクザっぽく見えてしまうのである(ただでさ強面なので)。キャンパス地に一部なめし革を使い、普通のブリーフケースをミニチュア化したデザインは、仮にヤクザに見えたとしても、インテリのヤクザに見えるのではなかろうか。

          
                    本日の戦利品

          
                  戦いすんで日が暮れて

12月29日(金) 晴れ

2006-12-30 11:20:03 | Weblog
  朝8時、資源ゴミ(書類、新聞、ダンボールなど)を外に出すのを手伝いなさいと、妻に起こされる。寝たのが午前4時近くだったので、熟睡中であった。寝ぼけ眼で起きあがったときに蒲団の上に寝ていた猫を踏んづける。♪猫ふんじゃった、である。猫はさすがにびっくりした様子だったが、骨折や内臓破裂といった事態は免れたようである。それにしても、ゴミ出しのために起こされるとは…。二度寝はせず、朝食をとり、そのまま机に向かったが、おかげで今日は一日中寝不足気味であった。
  数日前に、駅前商店街のラオックスで展示品処分のデスクトップPC(富士通のFMV-DESKPOWER LX50S/D)を購入した。通常、この時期は、冬のボーナスでの購入をあてこんで、新機種が店頭に並ぶのだが、今期に限っては、Windows Vistaの発売を目前に控えて、新機種の発売は春先に集中するようである。逆に言えば、XPがインストールされている「現行の新機種」はいまが買い時である。私はXPで全然かまわない。今回購入したPCは地デジ対応のTVチューナー内蔵タイプで、今日、アンテナケーブルを近所の電気屋で購入してきて接続してみたところ、画面がクリアーなのにびっくりした。とくに人の肌に関してそれは顕著で、年輩の女優さんはつらいだろうと思った(ブラックマヨネーズの吉田の顔が見てみたい)。

          
          書斎には机が2つある(こちらは家族使用可)

  VHSのビデオテープのストックがなくなったので、散歩がてら買いに出る。風が冷たく、しかも強い。革ジャンのファスナーを一番上まで上げて歩く。一昨日のぽかぽか陽気が嘘のようである。シャノアールに寄って、持参したエリック・ボブスホーム『20世紀の歴史』上(三省堂)を読む。年末年始をまたぐ読書は歴史書ないし歴史小説を選ぶことが多い。たぶん目先の気忙しく変化する現象の向こう側にある大きな流れを見据えたいという欲求が強くなるのだろう。

  「「第二次大戦」というからには「第一次大戦」があったのかと、けっこうよくできるアメリカの学生から質問されたことがある。このような経験のある人なら誰でも気づいていることと思うが、今世紀の基礎的な事実についても読者が知っていると前提してかかることはできないのである。しかし私の目的は、さまざまな事実がなぜあのように展開したのか、また、それらの事実が全体としてどのように関連しているのかを理解し、かつ説明することである。この短い20世紀の全期間、あるいはその大部分の期間を生きた私と同年配の人々にとっては、それは同時に自伝を語ろうとする試みにならざるを得ないであろう。われわれは、われわれ自身が記憶していることについて語り、それを敷衍し(そして訂正し)ようとしているのである。またわれわれは、特定の時と場所におかれた男や女として、さまざまなしかたで劇中の役者として-たとえとるに足りない役柄であっても-その歴史に巻き込まれた者として、またわれわれの生きた時代の観察者として、なかんずくこの世紀の決定的と思われる出来事によって自らの二〇世紀観を形成されてきた者として、語ろうとしている。われわれ自身がこの世紀の一部である。それはわれわれの一部なのである。次の時代に属する読者、例えば、私がこの本を書いている時期に大学に入学しようとしている学生によっては、ヴェトナム戦争でさえもが有史以前の事件であろうが、そのような読者でさえもがこのことを忘れてはならない。」(6-7頁)

  本書(原書)の出版は1994年である。引用文中「短い20世紀」とあるのは、あっという間に過ぎ去った20世紀という意味ではなくて(もしかしたらそういう含意もあるのかもしれないが)、本書が扱っている時期が1914年から1991年まで(つまり20世紀の両端をはしょっている)だからだ。言うまでもなく、1914年とは第一次大戦が始まった年であり、1991年とはソビエト連邦が解体した年である。「20世紀的な世界」は1901年に始まって、2000年に終わったわけではないということだ。つでに言っておくと、ボブズホームには『長い19世紀』全3巻があり、それは1789年から1914年までの期間を扱っている。

12月28日(木) 晴れ

2006-12-29 03:27:21 | Weblog
  一階の台所の換気扇の掃除にトライする。換気扇の油汚れは曲者であるが、換気口の2つのフィルターを取り外して、「洗剤革命」という凄い名前の粉を振りかけ、熱湯を注ぎ、そのまま2時間ほど放置しておくと、油汚れはすっかり落ちていた。ただし、効き目が強いために、塗装まで剥げてしまった(それは事前にわかっていた)。塗装の残りカスを歯ブラシで削り取る作業にかなりの時間がかかった。

          
          白いフィルターはもともとは本体と同じ色だった

  文教大学の本田先生からグレン・エルダーほか編『発達科学-「発達」への学際的アプローチ』(本田時雄ほか訳、ブレーン出版)を送っていただいた。文化構想学部の現代人間論系の「人間発達プログラム」の格好のテキストになると思う。お礼のハガキを書いて、投函しがてら散歩に出る。東急プラザの「市美多壽」でホットケーキと珈琲を注文し、持参した『オーウェル評論集』(岩波文庫)を読んだ。

  「わたしは、おそらく五つか六つのごく幼いときから、大人になったら物書きになるのだと思っていた。十七くらいの頃から二十四になるまでのあいだはこの考えを捨てようと努めたものの、やはり、ほんとうの自分を裏切っている、いずれは本を書くようになるだろうという意識は抜けなかった。
  わたしは三人きょうだいのまんなかだったけれども、姉も妹も五つはなれていたし、八つになるまでは父の顔もめったに見なかった。このほかにもまだいろいろ理由があってわたしにはどこか淋しいところがあったし、そのうちにいろいろ厭な性癖が身についてしまったために、小中学校時代はいつも友だちに人気がなかった。孤独な子供らしく、わたしは自分でいろいろなお話を作ってはその中の人物と話をした。わたしの文学的野心には、そもそもの始めから、他人に疎外され馬鹿にされているという気持がまじっていたようだ。自分には言葉の才能があり、厭なことでも直視できる能力があることはわかっていて、だからこそ現実の生活での失敗に尻をまくれる、ひとりだけの世界をつくりだせるのだという気がした。」(「なぜ書くか」)

  この「なぜ書くか」(Why I Write)というタイトルの文章を読んで、ポール・オースターにも同じタイトル(ただし原題は、Why Write?)の文章があったことを思い出した(『トゥルー・ストーリーズ』所収)。彼は8歳のとき、大ファンだったニューヨーク・ジャイアンツのスター選手ウィリー・メイズにサインを求めて、「ああ、いいよ。坊や、鉛筆は持っているか?」と言われた。ところが、生憎、彼も父親も鉛筆をもっていなかった。メイズは肩をすくめて、「悪いな、坊や」と言い残して去っていった。

  「その夜以来、私はどこへ行くにも鉛筆を持ち歩くようになった。家を出るときに、ポケットに鉛筆が入っているのを確かめるのが習慣になった。べつに鉛筆で何かしようという目的があったわけではない。私はただ、備えを怠りたくなかったのだ。一度鉛筆なしで不意打ちを食ったからには、二度と同じ目に遭遇したくなかったのである。
  ほかに何も学ばなかったとしても、長い年月のなかで私もこれだけは学んだ。すなわち、ポケットに鉛筆があるなら、いつの日かそれを使いたい気持に駆られる可能性は大いにある。自分の子供たちに好んで語るとおり、そうやって私は作家になったのである」(「なぜ書くか」)

  語り口はさまざまだ。オーウェルの直球もいいが、オースターの変化球もいい。そんなことを考えていたら、注文したホットケーキと珈琲が運ばれてきた。サンドイッチは本を読みながら食べるものだが、ホットケーキはそうではない。両手にフォークトナイフを握って、迅速に(冷めないうちに)、黙々と食べるものである。

      
             西口駅前では路上ライブをやっていた

  深夜、小田和正のライブ「クリスマスの約束2006」を観た。たくさんのゲストが登場したが、なかでも斉藤哲夫と小田がデュエットした「悩み多き者よ」は素晴らしかった。さっそくAmazonで斉藤哲夫のアルバムを3枚注文した。

12月27日(水) 晴れ

2006-12-28 11:29:03 | Weblog
  深夜の雷雨から、一転して、台風一過のフェーン現象のような、暖かな一日だった。自宅の門を出ると、雨で濡れて、まだ乾いていないアスファルトの道路が、午前の陽射しを照り返してキラキラと輝いていた。今日は今年最後の出校である。

          

  午前11時、研究室に編集者のK氏が基礎演習のガイドブックの原稿の初校をもって来てくれる。例によって初校にはK氏の手ですでに赤が入っている。その8割はもっともな意見で、私も素直に聞き入れることができるものだが、残りの2割は好みの問題というか、どっちでもいいんじゃないですかという類のものに私には思えるのだが、K氏にとってはそうではないようなので、結局、K氏の意見を承認することになるだろう。K氏のねばり強さに感心する。
  12時半から基礎講義(オンデマンド授業)のコンテンツの再収録。今回は問題なし(だと思う)。終わってから「たかはし」で昼食(刺身定食)。店主に「よいお年を」と挨拶して店を出る。
  研究室に戻ると、ちょうど業者が情報コンセントの取り替え作業を始めるところだった。情報コンセントは壁と本棚(研究室備え付けのものではなく、私が買い増ししたスチールラック)の隙間にあり、しかもその手前にパソコン机や山積みの調査報告書などがあって、まずそれらをどかさないと作業ができないので(私は端で見ていればよいのだが)、3人がかりで大変そうであった。壁と本棚の隙間は数センチしかなくて、業者の人は取り替え作業を終えてから、「新記録だ。やればできるもんだな」と言っていた。
  3時にマスコミ研究会の学生4人が雑誌「ワセキチ」の取材で来た。1時間ほど、「格差社会」をめぐってのあれこれの質問に答える。全員一文の学生で、社会学の学生が2人、人文の学生が1人、もう1人は社会学進級希望の1年生だった。彼の希望が叶うことを願っているが、今回はなかなか大変だと思う。山田昌弘さんの言葉を借りて言えば、一文は「希望格差社会」なのである。
  あゆみブックスでトム・ルッツ『働かない』(青土社)を購入し、シャノアールで読む。毎日、カウチに寝っ転がってテレビばかり観ている18歳の息子コーディーに苛立ちを感じている自分を認識するところから話は始まる。

  「この怒りはなぜ生まれるのだろう? 息子が時間を無駄にしているからなんだというのだ? 私が大学に入る前の期間だってすべて無駄だったともいえる-事実、かつて私自身の父親がした主張だ-実際どう考えても、私は膨大な時間を浪費していた。息子の一時的なふがいなさをわかってやれる人間がいるとすれば、それは私であったはずなのだ。以前とは世間も違うのだ、贅沢になったし、ぬるま湯に浸かったようなこのご時世、やり直しのチャンスはいくらでもあるのだからと自分に言い聞かせつづけた。だが何度言い聞かせても、自分がどうして怒っているのか納得がいかなかった。…(中略)…彼の冒険がカウチのなかに限定されようとは、もちろん想像もしなかった。とはいえ、それがどうしてこんなにも私の正気を失わせるのだろうか? 息子が三十五歳でソファーに大の字になっているというなら分かる。だが、彼はまだ十八歳なのだ。」

  しかし彼は彼の怒りを息子にぶつけることをしなかった。彼は彼の怒りの原因が、彼自身と仕事との歪んだ結びつき(彼だけでなく、現代人の多くが共有している病理)と関係しているのでないかと思い至り、「怠け者(slacker)の文化誌」とも言える本書を書くことになる。作家で大学でも教えているインテリならではの行動である。彼が本書でとりあげているのは、放蕩者、ロマン主義者、共産主義者、酔っぱらい、ボヘミアン、神経症患者、散歩者、放浪者、遊び人、プレーボーイ、非行少年、徴兵忌避者、サーファー、TVビートニク、コミューン・ヒッピーたちである。500ページくらいある。とても怠け者にはできない仕事である。

      
                  今年は今日で見納め