フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2006年2月(後半)

2006-02-28 23:59:59 | Weblog

2.15(水)

 京浜東北線が人身事故の影響でストップしていたため、蒲田―(池上線)―五反田―(山手線)―高田馬場―(東西線)―早稲田というルートで大学へ行ったが、いつもより20分ほど余計にかかった。午前中、大学院の博士課程の入試(二次試験=面接)。それが終わって、配給の食券(800円相当)をポケットに入れて、「たかはし」へ(食券が使えるのは「たかはし」と「三廟庵」と「高田牧舎」の3店に限定されている)。「たかはし」で昼食をとるときは、刺身定食か豚肉の生姜焼き定食のどちらかを注文することが多いのだが、今日は後者の気分だった。

研究室に戻って、上野千鶴子『生き延びるための思想』(岩波書店)を読む。冒頭の「市民権とジェンダー」という論文は、「本書を通じての私の思索の到達点」と著者自身が言うだけあって、なるほど、緻密にしてエキサイティングな論文である。近代社会は別名を市民社会というが、市民社会は国家ならびに家族という二つの「外部」をもつ。なぜ「外部」なのかというと、市民社会の論理がそこでは通用しないからである。たとえば、市民社会では暴力が犯罪になるが、国家による暴力(軍隊や警察の暴力)と、家庭内で夫(父親)が妻や子どもに振るう暴力(DV)は、犯罪とはみなされてはこなかった。しかし、国家や家族(私的領域)が市民社会にとって「外部」であるということは、市民社会が「外部」と無関係であるということを意味しない。むしろ、事態は逆であって、市民社会は「外部」と持ちつ持たれつの関係にあることによって市民社会たりえてきたのである。そうした共犯関係を暴露し、一見普遍的であるように見えて、その実少しも普遍的でない市民権という概念を再検討しようというのが上野の論文の主旨である。

 市民とは公領域に公民として、すなわち私的な領域をプライバシーとして封印したまま、互いに「同じであることsameness」を偽装して登場する個人のことである。このプライバシーの領域には、セクシュアリティから、再生産、扶養や依存の有無、障害などさまざまな差異が、封じ込められている。それらの差異をあたかも存在しないかのようにふるまうのが公領域の「同じであること」を担保する作法であり、これを公平と呼び慣わしてきた。その公的領域のゲームでは、差異の負荷がまったくない者を範型に近代的個人像がつくられており、そうした人々が、もっとも有利になるようにルールがつくられている。公的領域のゲームは差異を無視するというしかたで差異を暗黙裏に組みこんだシステムであり、公平を僭称しながら不公平を帰結するしくみである。

 私はここで『ドラゴン桜』の主人公の高校教師が生徒たちに言った言葉を思い出す。「世の中のルールは頭のいい連中に都合よくできている。」「頭のいい連中」を「男たち」に置き換えれば、フェミニズムの思想になる。そこでどうするか。『ドラゴン桜』の主人公はこう続ける。「頭のいい連中に搾取されたくなかったら、東大へ行け。馬鹿とブスこそ東大へ行け」。これはフェミニズムの一派であるリベラルフェミニズム(女権拡張論)の主張と同じものである。そこでは獲得目標としての女性の市民権は男性が享受している市民権と同じ内容のものである。しかし上野はこの主張に賛成しない。世の中の既存のルール(ジェンダー・ヒエラルキー)の中で、女性が男性に追いつくということは、これまで差別される側にいた人間が差別する側に回るということを意味するが、差別する側に立つためには差別される側の人間が必要で、全員が差別する側に立つ社会というものは考えられないのである。

 女性にとっての市民権のジェンダー平等とは、男性なみの市民的諸権利をたんにそのまま女にも、というジェンダー間の分配公正を要求する思想ではない。「女権」の要求、言い換えれば「市民権」の分配公正の要求は、その破綻を通じて、必然的に市民権そのものの脱男性性化を要求することにつながる。

 そして暴力(とそれによる支配)が女性から区別された男性性を定義するところでは、市民権の脱男性化とは、暴力の行使(の正当な権利)をもはや市民的諸権利の一部とはしないこと、すなわち公的暴力も私的暴力も共に犯罪化することにつながる。普遍はかくして挫折の運命をたどる。

もし上野が『ドラゴン桜』の主人公であったら、こう言ったはずである。「東大を解体せよ。」

 午後4時から大学院の教授会。本当は出席しないで早引けするつもりでいたのだが、上野の本を読んでいて気づいたら教授会の時間になっていたので、出席することにした。向かいの席の長谷先生(彼は専攻主任という役目上出席しないわけにはいかない)にそのことを言ったら、彼は羨ましそうに、「時間を忘れて読書に耽れるなんていいなあ」と言った。

 

2.16(木)

 父は近所の大学病院の3つの科(脳神経外科、泌尿器科、総合内科)のお世話になっている。それぞれ月に一度の診療があるのだが、今年に入ってからは、私だけが行って父の様子を報告して、薬をもらってくるというパターンが多い。今日は泌尿器科の受診の日だったが、やはり私一人で行ってきた。

診察の順番を待っている間、坂上桂子『ベルト・モリゾ ある女性画家の生きた近代』(小学館)を読む。モリゾはルノアールやモネと同時代の印象派の画家である。モリゾの名前を知らない人も、「ニースの港」、「舞踏会にて、扇を持つ女性」、「桜の木」といった作品はどこかで見たことがあるのではないだろうか。他の印象派の画家に比べてモリゾの名前が知られていない理由の少なくとも一つは、モリゾが女性画家であることにある。印象派の画家に限らず、有名な画家のほとんどは男性である。いや、「ほとんど」ではなく、「すべて」と言い切ってしまってもいいかもしれない。嘘だと思ったら、試しに有名な女性画家の名前をあげてみて下さい。有名な女性作家はいる(たとえばヴァージニア・ウルフ)。有名な女性ピアニストはいる(たとえばマルタ・アルゲリッチ)。有名な女性歌手はいる(たとえばマリア・カラス)。しかし有名な女性画家となると即座に誰かの名前をあげることのできる人は稀有であろう。それはなぜか。「有名な女性画家」が生まれにくい構造を社会が有しているからである。

 たとえばヌードの研究を例にあげてみよう。男性画家たちは、人体の構造を適切に表現するための訓練として、実際のモデルを見ながら描くことこそがもっとも重要な手段とされ、多くの練習を強いられた。ところがその一方で、女性たちには実際のモデルを観察して描くこと自体が禁じられたのである。ある画塾では、男性の学生たちが裸の女性をモデルに勉強する間、女性たちは生きた牛をモデルにデッサンしたという、まるで笑い話のような本当の話が現実にあった。女性たちが学んだのはすなわち、女性でも男性でもない、動物の「ヌード」だったのである。

 ヌードをまともに研究し描けないということは、ヌードを多く主題にしてきた伝統的な西洋絵画においては致命的である。人物を中心に複雑な画面構成を展開するギリシャ神話も、聖書の物語も描けないことになるからだ。ヌードの人体を研究していなければ、ヴィーナスの可憐な美しさも、キリストの磔刑における苦悩の肉体も、もちろん描けはしない。しかも西洋の美術においては、伝統的に絵画の主題として格調高いのは自然でも風景でもなく、あくまでも人間が織りなす、人間主体の、人間ドラマだったのである。人間を中心に構成された歴史的、神話的壮大な叙事詩が、油彩画におけるいちばん高級な主題として、つねに上位に位置づけられてきたのだ。(中略)

 したがって、これらの知識と技術を学ぶ機会をもちえない女性たちは事実上、当時のこうした絵画の序列における最高位の主題の制作から、自然と排除されることになる。過去において歴史に名を残る偉大な女性画家が少ないのは、女性たちの能力の問題ではなく、社会的制度と慣習とによって、女性たちが画家となる道から除外されてきたためである。こうした状況のなかでもなお活躍した女性画家についてみれば、マイナーなテーマと見なされていた動物画や静物画、風景画を中心に、せいぜい肖像画を手がける程度だった。

 坂上桂子さんは早稲田大学文学部の美術史の助教授で、研究室は私の研究室と同じフロアーにある。今度、小学館から刊行される「西洋絵画の巨匠」(全12巻)の第6巻は「モリゾ」で、坂上先生が解説を担当されている。モリゾが「巨匠」の仲間入りをしたことは一つの事件といっていい。

 

2.17(金)

 一文の入試。監督業務のため朝8時に家を出る。ラッシュアワーだが蒲田始発の電車に乗れたのでギュウギュウ詰めという状況は経験せずに済んだ。「服装についてはスーツまたはそれに準じた服装でお願いします」と書類にあったので、セーターにジャケットの私は、「そういう服装の方には監督をお任せできません。控室で本でも読んでいて下さい」と言われることを密かに期待し・・・・いや、心配していたのだが、それは杞憂で、監督控室に入ってみるとネクタイ着用の教員はほとんどいなかった(ネクタイをしている方は普段からそうしている方である)。たぶん文学部の教員のネクタイ着用率は全学部の中で一番低いだろう。よかった、文学部の教員で。私が割り当てられたのは114名の受験生のいる中教室だった。40名程度の小教室から300名以上の大教室まで教室規模にはバラエティがある。大教室はしんどいが、小教室も気詰まりなところがあり、私は100名前後の中教室が一番やりやすい。教室の規模のほかに重要な変数は、補助監督(学部生)の質である。補助監督は立ち仕事なので、寝不足気味だったり、腰痛持ちの人には辛い。逆に言えば、そうい人は補助監督の仕事をするべきではない。試験中(英国は90分、地歴は60分)、一番気を遣うことは室温の管理である。ある温度を暑いと感じるか寒いと感じるかには個人差が大きい。コートを着たままの受験生もいれば、シャツ一枚の受験生もいる。教室全体を見渡して前者が多かったので、室温の設定を2度上げた。貧乏ゆすりをしている受験生に注意をするかどうかは微妙な問題である。本人は無意識でやっているので、それを注意するのはかなりのプレッシャーを与えることになる。結局、周りの受験生がそれを気にしている様子はなかったので、注意は与えなかった。試験問題の訂正の連絡が途中で入るとやっかいなのだが、今回はそれはなかった。事前の校正がしっかりしていたのであろう。感謝。監督控室のお茶と茶菓子は年々貧弱になってきていたが、ついに今年は全廃された。生協の出店でチョコレートと温かいお茶を買う。昼食は配給の食券を使って「たかはし」の煮魚(銀むつ)の定食。以前は弁当が配られていたが、外に出て食べられる現在のやり方の方がいい。ただし、食券を使える店が限定されているので(たかはし、高田牧舎、大隈ガーデンハウス)、ちょっと出足が遅れると、店が混んで入れないことがある。担当する教室規模の違いが一番影響するのはこのときかもしれない。最後の試験が終わり、「忘れ物をしないように」と注意して本日の試験の終了を告げたが、やっぱり忘れ物をする受験生はいる。女物のなかなか素敵なデザインの傘が一本。黒板に「傘の忘れ物がありました。受験本部に持って帰ります」と書いおく。あの傘はちゃんと持ち主の元に返ったであろうか。

 

2.18(土)

 

 母が外出している間、一階の居間で留守番。隣の部屋には父が寝ている。

 

 父との会話1。

 父「一時、三時、五時」

 私「何のこと?」

 父「TVの放送の時間」

 私「・・・・」

 父「一時、三時、五時」

 私「それって、50年前の話だろ」

 父「いまはTVの放送は何時だい?」

 私「朝から真夜中までずっと放送しているよ」

 父「へえ、そうかい」

 

 父との会話2

 父「蒲団が重いね」

 私。蒲団をはがす。

 父「寒いね」

 私。蒲団をかける。

 父「蒲団が重いね」

 私「めんどうみきれないよ」

 父「最近は・・・・」

 私「何?」

 父「世の中が冷たくなったね」

 

 父との会話3

 私「船和の芋ようかん、食べるかい?」

 父「いらない」

 私「昔よく浅草で買ってきたじゃないか。食べなよ」

 父「食べたくないね」

 私「そんなこと言わずに、一口食べてみなよ。美味しいから」

 父「ノーコメント」

 私「ノーサンキューだろ」

 

 こうして一日が過ぎていく。

 

2.19(日)

 2007年4月に立ち上がる新学部(文化構想学部と文学部)のカリキュラムは大方決まったが、個々の科目を担当する教員については未確定の部分が多い。それはすべての科目を専任教員が担当するわけでなく、外部の(他大学や研究機関の)方々にもお願いしないとならないからだ。学部の再編というのは、既存の学部の専任教員をシャッフルして新しい学部に振り分けるという単純な作業ではない。とくに現在の第一文学部の専修の多くが引き継がれる(新)文学部とは違って、まったく新しい理念の元に構築される文化構想学部の場合、最初に教員ありきではなく、最初に理念的に構築されたカリキュラムがあって、次にそれを誰が担当するかという発想で準備を進めてきたので、外部の方々への依頼・交渉の作業はこれからが佳境である。それぞれの科目の担当者はその分野の第一線で活躍している方に依頼したい。当然、直接に面識のない方もいる。私が依頼・交渉の窓口になっている科目の多くはそうである。旧知の方に依頼すれば話が早いが、それは安易なやり方である。当該分野の研究者の仕事を著作やインターネットで調べて、面識の有無とは関係なく、「ぜひこの方に」という候補者をピックアップし、依頼・交渉を行う。第一線で活躍している方々であるから、当然、ご多忙であり、断られることは覚悟の上である。今日はそうした依頼のメールを4通書いた。どれだけこちらの熱意と誠意を伝えられるかが勝負である。これ、すなわち恋文に似ている。夜、さっそくお一人の方から返信メールがあり、内諾をいただけた。ありがとうございました。総選挙のとき、各党の選挙対策本部からの中継というものがあり、そこで幹事長か誰かが嬉しそうに当選した候補者の名前のところに造花のバラの花を付ける場面をよく目にするが、私もそれを真似て、手帳に書かれたその方の名前を赤ペンで丸く囲った。新しいカリキュラムという樹木にこれからたくさんの花を咲かせていきたい。

 

2.20(月)

 雨の午後、傘を差して、ひさしぶりにジムへ行く。結石の手術の直前にいったのが最後だから、ほぼ4ヵ月ぶりである。この間、体重は2.5キロほど戻った。その前が5ヵ月で5キロの減量だったので、リバウンドというほどではないが、これから新学期が始まるまでの2ヵ月で2キロの減量を行うつもりでいる。計算上の適性体重は60キロ台の半ばなのであるが、主観的には70キロ台の前半(の真ん中あたり)が一番体調はよい。この歳になって、70キロを切るとおそらくやつれた感じになるであろう。「どこかお悪いのかしら?」という目で見られるであろう。大学教師というのは一種の客商売であるから、そうなってはいけない。肥満でもなく、やつれた感じでもない、働き盛りのタフな印象をキープしなくてはならない(キープしているつもりなんですが、違ってます?)。トレーニング再開の今日は、ピーク時の8割程度の負荷で筋トレを2セットと、時速5~6キロのウォーキングを1時間(唐揚げ一皿分のカロリーを消費)。4ヵ月前は館内には冷房が入っていたが、今日は暖房が入っていて、季節とは反対に蒸し暑い感じがした。トレーニングの前後での体重の変動は-1キロ。ロビーの自販機で買って飲んだアセロラドリンクの美味しかったこと! 外に出ると、雨足が激しくなっていた。冷たい雨である。額の汗が一気に冷えた。

 

2.21(火)

 蒲田宝塚で、チャン・イーモウ監督・高倉健主演の映画『単騎、千里を走る。』を観た。家を出るときは、キネカ大森で観るつもりだったのだが、ディスカウントチケットの店に行ったところ、全国共通前売り券(1300円)はすでに売り切れで、劇場招待券(1200円)もキネカ大森のものは品切れ、蒲田宝塚のものしか残っていなかったのである。キネカ大森の14:50の回を観るつもりが、蒲田宝塚の15:50の回に変更となったので、栄松堂で好井裕明『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』(光文社新書)を購入し、シャノアールで1時間ほど読む。フィールドワークの精神(理論や技術というよりも)について熱っぽく語られていて、啓発される点が多いが、タイトルと中身がちょっと合っていない(本全体の一部しか表していない)気がする。開演時間10分前に蒲田宝塚に着く。同じフロアーの券売所の左側の入口が蒲田宝塚で、右側の入口がテアトル蒲田(中井貴一主演の『燃ゆるとき』を上映中)である。モギリの女性にチケットを渡すと、「高倉健の映画でよろしいですね」と聞かれたので、「ええ」と答える。テアトル蒲田の入口では「中井貴一の映画でよろしいですね」と聞かれるのだろうか。あるいは「高倉健の映画ではありませんが、よろしいですね」と聞かれるのだろうか。ちょっと気になる。入口を入ってすぐの売店でプログラム(600円)を購入。私らしからぬ行動である。映画を見終わってから、いい作品だったら購入し、そうでなかったら購入しない。これが私の普段の行動である。作品を観る前にプログラムを購入したのは、『単騎、千里を走る。』がいい作品に決まっているからではなく、観客が数人しかいない映画館で招待券を使うことが気の毒に思えたからである。私はこのチケットに1200円を支払っているが、それはディスカウントチケットの店の収入であって、蒲田宝塚の売り上げにはならないのである。せめてプログラムを購入することでこの場末の映画館の売り上げに貢献しなくてはならないと思ったのである。

『単騎、千里を走る。』は、チャン・イーモウと高倉健の組み合わせというところが見所のすべてであるような映画である(ただし、日本国内での撮影は降旗康男監督が担当)。長らく仲違いをしていた父(高倉)と息子。息子の死期が近いことを息子の嫁から知らされた父は、息子が果たせずにいる仕事(雲南省で仮面劇「単騎、千里を走る。」を撮ること)を自分が代わりにやろうと中国へ渡る。ところが仮面劇を踊ってくれるはずの役者は、傷害事件を起こして刑務所に入っていた。事情を説明して刑務所の中での撮影の許可を得るが、役者は最近自分が父親であることを知らされた山奥の村にいる息子に会いたいと泣き崩れて踊ることができない。二人を会わせるために、父は山奥の村をめざす。村人たちの理解を得て、父はその男の子を街に連れて帰ろうとするが、一度も会ったことのない父親に会うことを男の子は拒む。二人の再会にはまだ時間が必要であると知った父は、男の子を村に残して街に戻る。帰路、息子の嫁からの電話で息子の死と、息子が最後に口述した父への手紙のことを知る。父は、役者の元に帰って、彼に男の子の写真を見せる。役者は感謝し、「単騎、千里を走る。」を踊る・・・・。チャン・イーモウは、高倉健の新しい魅力を引き出すのではなく、「ストイックで、不器用な男」という『幸福の黄色いハンカチ』(1978)以後の高倉健の定番的イメージを忠実に再現する。チャン・イーモウの代表作の一つ『あの子を探して』(1997)は、山奥の小学校の代用教員の少女が行方不明になった男の子を探すために街に出かける話だが、あの少女を高倉健にしたのが『単騎、千里を走る。』であると考えればよい。しかも、高倉健は日本人であるから、行く先々で展開する地元の中国人(プロの俳優ではなく一般人を起用)との心の交流は、映画というよりもTVのドキュメンタリー作品を見ているようであった。そう、これは高倉健版「世界ウルルン滞在記」である。率直に言って、映画としては「ぬるい」。それに悲しいかな高倉健もやはり老いた。1931年の生まれだから、今年で75歳になる。とくに口元の皺にそれを感じる。老人の口元である。元々そんなに滑舌のいい俳優ではないが、声そのものがしわがれてきたと感じる。彼の長年のファンの一人としては、彼が老人らしい老人を演じるのを観てみたい気がする。最後に一言。高倉健の息子役は、声の出演だけだが、中井貴一である。だから『単騎、千里を走る。』は「中井貴一(主演)の映画」ではないが、「中井貴一の(出演している)映画」ではある。

 

2.22(水)

 4月から高三になる息子が最近麻雀を覚えたようで、学校の帰りに友人の家で何度か卓を囲んでいるようだ、という話を妻から聞いた。妻は受験勉強への影響を心配しているようだったが、夕飯の時刻にちょっと遅れる程度の道草はかわいいものである。囲碁、将棋、麻雀とよく並べて言われるが、私の高校時代はもっぱら将棋であった。高校のすぐ側に将棋会所があり、放課後になんどか立ち寄ったことがある。三段の爺さんが常駐していて、よく指してもらった。最初は歯が立たなかったが、しだいに何番かに一番は入る(勝つ)ようになった。いつも競馬新聞を小脇に挟んでいたいかにも遊び人という風情の若い男がいて、これが滅茶苦茶強かった。何も考えずに飄々と指しているように見えて、気がついたら、相手は手も足も出ない状態に追いつめられている。「あいつは奨励会崩れだから」と誰かが言っていたのを覚えている。奨励会とはプロ棋士の養成機関のことである。全国から天才少年が集まって切磋琢磨するのだが、一定の年齢までにしかるべき段位に達しないと退会しなければならないシステムになっていて、夢破れて奨励会を去り、しかし中途半端に歳をとってしまったために堅気の仕事に就くことができない者のことを「奨励会崩れ」と呼ぶのである。ずいぶんとひどい呼称であるが、文学少年だった私は、その言葉にデカダンスの匂いを嗅ぎ取ったのだろう、どこか心引かれるものがあった。そして自分の中にそうした傾向のあることを恐れてもいた。後年、大学院に進んで、なかなか就職の口がなくて燻っていた頃、将棋会所で日がな一日遊んでいると、「奨励会崩れ」の若い男のことをふと思い出したりした。その頃は麻雀も覚えて、阿佐田哲也の『麻雀放浪記』なども読んでいたが、息子も深夜に放送している『闘牌アカギ』というプロ雀士を主人公にしたアニメを録画してみているらしい。弛緩した毎日を送っていると、ピンと張りつめた勝負の世界に没入してみたくなるのが男の子である。

 

2.23(木)

 二文の入試。監督業務のため朝8時に家を出る。昼食用の食券を家に忘れる(以前から不思議に思っているのだが、食券の配り方は一文と二文では異なる。一文は当日に受付で渡され、二文は事前に関係書類と一緒に自宅に送られてくる)。まあ、いいか、五郎八で蕎麦でも食べようと思いつつも、「食券の予備なんてないでよね?」と受付の方にだめもとで尋ねたら、「はい、あります」と渡された。何でも言ってみるものである。さて、本日は予備室の担当。予備室というのは体調不良などの理由で一般教室で試験を受けることのできない受験生のために用意されている教室である(すぐ横に救護室がある)。受験生は7名で、途中で一般教室から移動してくる受験生がいるだろうと思っていたら、そういうことはなく、最後まで7名だった。こちらは主任監督の私と補助監督2名(学部生)であるから余裕の対応である。大教室だと試験開始15分前あたりから問題冊子や解答用紙を配り始めないと間に合わないが、ここでは1分あれば十分だ。ただ、健康状態に何らかの問題があってここにいるわけだから、そのあたりは気をつかう。実際、室温が高すぎるかなと感じたので、「暑い方は?」と尋ねたところ誰も手を挙げず、「では、寒い方は?」と尋ねたら、4名が手を挙げた。風邪を引いているに違いない。試験中はとくにすることはない。暇つぶしに試験問題を読む(解く)人もいるようであるが、私はやらない。面白くないからだ。頭の中で何かのテーマについて考える方がいい。今日のテーマは、『12人の優しい日本人』(三谷幸喜作・演出)の劇場中継(WOWOW)と、映画版『12人の優しい日本人』(中原俊監督、1991)と、パロディの原作となった映画『十二人の怒れる男』(シドニー・ルメット監督、1957)の比較分析である。その内容は、何かの授業で話すことがあるかもしれないので、ここでは書かない。

 

2.24(金)

 午前中、拡大人事委員会。午後、教授会。教授会では今年で退職される先生方の挨拶があった。挨拶の時間は、長めの方、短めの方、いろいろである。一番短い方は「長らくお世話になりました。ありがとうございました。」の一言で終わった。教授会自体が長く、退職される先生方も10名と多かったので、短めの挨拶の方がその場では歓迎される傾向にあり、挨拶をする側もそうした周囲の期待(?)をプレッシャーとして感じていたのか、全体としたあっさりとした内容の挨拶が今年は多かったように思う。しかし、同じ職場の先輩が職場を去るにあたっての挨拶の言葉にじっくりと耳を傾けることができないようでは、新しい学部の構築も地に足の着いたものにはならないのではないか。挨拶は心の習慣である。

夜、近所のクリーニング屋さん(しばらく前に廃業)のご主人の通夜に出席。享年90歳。小柄で痩せた方だった。いつもシャツ一枚でアイロンをかけておられたような気がする。息子さんは私とは小学校の同級生で、学部は違ったが大学も同じである。焼香のとき、久しぶりで彼の顔を見た。向こうも私に気づき、互いに無言で頭を下げた。

 

2.25(土)

 今日は一文の合格発表があった。調査実習の音楽班の班長のO君の妹さんも合格したそうだ。入学すれば、兄妹で同じキャンパスに通学することになる。小学校なら珍しいことではないが、大学となると話は別である。朝、手をつないでスロープを上がるのだろうか(まさかね)。それと今日知ったのだが、妹さんが試験を受けた教室というのは私が試験監督をしていた教室なのだそうだ。なんでそれがわかったのかというと、妹さんが私のことを知っていたからではなく(そりゃそうだ)、補助監督をしていた学生の一人がNさんという社会学専修の2年生だったのだが、NさんとO君とは高校の同級生で、妹さんがNさんを知っていて(あるいはNさんが妹さんを知っていて)、あとからO君がNさんに試験監督の先生は誰だったのかと聞いて、私であることが判明したというわけなのである。世の中は意外なところで繋がっている。ところで、調査実習の報告書の原稿の締め切りまであと1週間である。音楽班の原稿も、O君の個人レポートもまだ提出されていない。万一、未提出ということになれば、O君は調査実習が再履修となり、来年3月の卒業が難しくなる。それは妹さんの入学に暗い影を落とすことになるだろう。不出来な兄をもって妹さんも肩身が狭かろう。そうならないようにO君は頑張らねばならない。「期待していてください」とO君はメールに書いてきた。ホントに期待しちゃっていいのだろうか。かなりハードル高くなりますけど。夜、ブログ班の班長のMさんから班の原稿がメールで送られてきた。A4で25ページ。班の原稿としては一番乗りである。さ~て、読ませてもらいましょう。

 

2.26(日)

 日曜日だが入試関連の業務で朝から大学へ。目が疲れ、肩が凝る。昼休みにお弁当を食べながら、ある専門家から伺った話。就活にはエントリーシートというのがつきものですが、あれってどんな風に処理されているか、ご存じですか。ある程度大きな会社で、たくさんのエントリーシートを処理しなくてはならない場合、人間が一枚一枚読んでいたら膨大な時間がかかってしまう(おまけに内容は似たり寄ったりなのでしょうから)。で、どうするかというと、解析ソフトにかけるんですね。ほら、ワープロソフトについている文章校正機能、あれの一種と思えばいい。誤字や脱字はないか、ちゃんとした日本語になっているか、適度に段落分けがなされているか、一定のキーワードが使用されているか、等々のチェックが行われる。本当にコンピューターにエントリーシートの善し悪しが判断できるのか。当然、そういう疑問がわきますよね。同じエントリーシート(多数)を人間が読んで判断した結果と、解析ソフトで判断した結果とを比較して、相関は0.9なのだそうです。両者が完全に一致した場合の相関は1.0ですから、相関が0.9というのは「ほとんど人間が判定するのと同じ」ということを意味します。で、ここから就活中の学生は何を教訓として学ぶべきかというと、エントリーシートで個性を発揮しよう、自分という人間を売り込もうなんて、必要以上に頑張るなということですね。標準的な文章で十分なんです。「私はまともな人間です」という自己提示ができていれば、とりあえず、それで十分なんです。

 

2.27(月)

 私の書斎のパソコンには麻雀のソフトが入っていた。自分でインストールしたわけではなく、パソコンを購入したときから入っていたのである。遊んでみればそれなりに面白く、ついだらだらと時間を浪費してしまうこともある。気づいたら時間を浪費していたというのではなくて、時間を浪費することがわかっていて、わかっていながら、そうしてしまうのである。これはつまり、やらなくてはならないこと(原稿の執筆)に取りかかるのが億劫で、それを先延ばしにしているのである。そういうことが最近何回かあって、これはいけないなと思ったので、麻雀のソフトをハードディスクから削除した。さっぱりした気分だ。しかし、麻雀のソフトを削除しただけでは、十分とはいえないのだ。パソコンを起動してから書きかけの原稿のファイルを開くまでの間には、なおいくつかの関門がある。第一は、メールのチェック。すぐに返信を書かなくてはならないメールが届いていれば、それを済ませてからでないと原稿に取りかかれない。返信の必要のないメールであっても、内容如何でこちらの心理状態に何かしらの変化が生じる。明鏡止水の心境で原稿を書くことができなくなる。第二に、ブログのチェック。インターネット・エクスプローラの「お気に入り」には知り合いのブログが20ほど登録してある。これを見て回るのである。大きなお寺の本堂の雨戸を開けて回るくらいの時間はかかる。見るだけではなく、コメントをすることもある。私が、人から誘われても、ミクシーやグリーといったソーシャル・ネットワーク・サービスの会員にならないのは、いま以上の時間をインターネット的社交に取られることを回避したいからである。第三に、ゲーム。麻雀ソフトは削除したものの、まだ将棋ソフト(東大将棋Ver,6)が残っている。将棋は、麻雀とは違って、私にとってはたんなる遊びではない。探求すべき一つの宇宙である。最近は、対コンピューター用の必勝戦法の研究をしているのだが、いまのところ「筋違い角」という一種の奇襲戦法がコンピューターに対して一番勝率が高い。・・・・この辺のことは語り出すとマニアックになりすぎるので、これ以上は書かない。というわけで、パソコンを起動してからお仕事の態勢に入るまではなかなかの道程なのである。

 

2.28(火)

 午後1時から現代人間論系運営準備委員会。昼食の時間がとれなかったので、直前にコンビニで購入したおにぎり(梅干、鮭、昆布)を食べながら。しかし、今日の会議は長かった。終わったのは5時半。しかし、半分の時間で終わっていていい内容だったと思う。テキパキやりましょうよ、テキパキと。私はスローライフの精神に賛同するが、スローライフを実行するためには、会議はスピーディーでないとならない。そこで浮かせた時間を人生を楽しむために使うのだ。帰りがけに穴八幡神社に寄る。旧いお守りを返すためだったが、もう社務所は閉まっていた。薄暗くなった境内に人の影はない。階段を下りるとそこは馬場下町の交差点。人と車と街の灯りにホッとする。


2006年2月(前半)

2006-02-14 23:59:59 | Weblog

2.1(水)

 午前10時から一文の卒論口述試験。試験といっても、ピリピリしたものではなく、提出された卒論を読んだ感想を教員が学生に話す(若干の質問を含む)場である。11名の学生に対して1人15分程度で、終わったのは午後1時半。文カフェでカレーうどん(コロッケをトッピング)を食す。午後2時から教室会議。各教員の卒論の評価のすり合わせ。今年は90点以上の卒論は出なかった(最高点は88点)。社会学専修は伝統的に卒論の評価が辛いのである。午後2時半から新学部の基礎演習のあり方についての検討会。午後4時から入試関連の会議。午後6時から二文の卒論口述試験。担当学生は2名なので、カフェ・ゴトーで行う。午後8時終了。1人平均1時間は一文と比べてずいぶんと贅沢である。ココアと紅茶とチーズケーキを食す。夕食は蒲田に着いてから「とん清」のヒレカツ定食。卒論関連の仕事が終わってほっと一息。

 

2.2(木)

 午前10時から研究室で調査実習のブログ班の原稿の検討会。最初から読みながら随時私が気づいた点をコメントしていく。3分の1ほどいった辺りで、班長のMさんが「全面的に書き直したい」と言い始め、他の班員もそれに追従したので(追従の積極さには個人差があるようだったが)、そういうことになった。一年間の実習の成果だから自分たちが納得できるものに仕上げたいという気持ちと、就活が忙しくなってきたので早く手放したいという気持ちが、綱引きをしているというのが例年この時期の実習の学生たちの心境であろう。そしてたいていは後者の気持ちが勝って、作業に終止符が打たれ、一応体裁は整っていますというレベルの原稿が「完成」するというのがよくあるパターンで、近年、そういうパターンを見慣れている私には、今日の情景はちょっと感動的だった。

 五郎八で昼食(天せいろ)をとり、シャノアールで持参した雑誌『at』2号に載っている上野千鶴子「ケアの社会学 第一章ケアに根拠はあるか」を読む。マルクス主義フェミニズムの理論では、育児は再生産労働とみなされる(子どもという次世代の労働力の育成)。では、高齢者介護はどうか。介護される高齢者はすでに労働市場を退いた人たちである。介護は高齢者の労働市場への復帰を目的とはしていない(病気や怪我で一時的に労働市場から退いている人の看病との違い)。だから高齢者介護は再生産労働の範疇には入らない、というのが『資本制と家事労働』(1985)での上野の見解であった。しかし、その後、高齢者介護が家庭内での大きな負担になってきているという現実を考慮せざるをえなくなったためであろう、『家父長制と資本主義』(1990)では介護を再生産労働の一部に加えている。大岡頼光は『なぜ老人を介護するのか』(2004)の中で、上野が理論的な説明なしに介護を再生産労働の一部に加えたことを批判している。今回の上野の論文は、この大岡の批判に答えること、つまり介護を再生産労働とみなすことの理論的根拠を示すことを目的に書かれたものである。簡単に言えば、生産・再生産のサイクルには「生産・流通・消費」という過程だけでなく、「移転・廃棄・処分」という過程があり、マルクス主義フェミニズムが高齢者介護を再生産労働とみなさなかったのは後者の過程を看過していたからであるということになる。資本主義社会は再生産労働を市場の外部(すなわち家庭の内部)に押しつけることで、つまり主婦が担当する不払い労働とすることで、市場を維持してきた。再生産労働は「外部コスト」であった。しかし、育児に関しては、その市場化や社会化がすでに実践されている。育児と比べると、高齢者介護の市場化や社会化は遅々として進んでいない。「高齢者の介護は家族が行うのが一番」という考え方が支配的である(介護保険制度は在宅介護を経済的にサポートする制度である)。上野がこれから展開していこうとしている議論は、この支配的な考え方への異議申し立てである。

 夕方まで試験の採点。帰宅すると、父の要介護認定(区分変更)の通知が役所から届いていた。これまでの「1」から「5」へ要介護度が変更されていた。これには驚いた。「1」のままということはありえないと思っていたが、審査基準が厳しくなってきていると聞いていたので、せいぜい「3」止まりだろうと予想していたのである。それが「5」とは・・・・。母は喜んでいるが、「在宅介護以外に選択肢はありえませんから」と言われているような気がする。

 

2.3(金)

 午前11時から研究室で調査実習の音楽班の原稿の検討会。あれもこれもと盛り込んだその結果、議論の流れがはっきりしなくなっている。仕入れた知識を全部使おうとすると往々にしてこういうことになる。インプット量とアウトプット量の差は大きい方がひきしまった論文になる。A4で100ページ書けそうな知識を使って30ページの原稿を書くつもりでやるとちょうどよい。終わってから、みんなで五郎八に食事に行く。私が天せいろを注文すると、全員私に倣って天せいろを注文。ただしWさんは蕎麦ではなくてうどんで。そのWさんが「みんなは海老天の尻尾は食べないの?」と聞いていた。見ると、私を含めて、Wさん以外は海老天の尻尾は残している。しかし、Wさんにそう聞かれて、「家で食べるときは尻尾まで食べる」と言いながら、みな尻尾を食べ始めた。私は家で食べるときもやはり尻尾は残すが、みんなを真似て食べてみた。かっぱえびせんのような味がした。午後3時から小説班の原稿の検討会。接続詞「また」の使い方に問題があり、正しい使い方についてレクチャーする。段落とは思考の単位であり、その単位を連結するのが接続詞である。接続詞の使い方が適切な文章は安心して読むことができる。2時間ほど経過したところで、場所を研究室からカフェ・ゴトーに替えて、7時まで行う。外に出ると風がずいぶんと冷たかった。明日は冷え込むだろう。ところで、今日は「恋愛」のイメージに関して私と学生たちとの間に違いがあることがわかって興味深かった。私は「恋愛」というのは相互行為的なものだと思っているが、今日の学生たち(女子学生が多い)は「片思い」という一方的かつ非表出的感情経験も「恋愛」に含めて考えている(私の感覚では、それは「恋愛」というよりも「恋心」と呼ぶ方が相応しい)。ちなみに『広辞苑』で「恋愛」を引くと、「男女が互いに相手をこいしたうこと。また、その感情。」とあり、私の考えと同じである。いつだったか、授業中に、私が「Jポップは恋愛ソングばかりだけれど、実際には、みんながみんな恋愛をしているわけではないよね」と言ったところ、「私は恋愛しています」という反応が圧倒的で驚いたことがあるが、なんだ、「片思い」も「恋愛」に含めていたのか。どうりで「恋愛」のインフレが起こるわけだ。

 

2.4(土)

 寒波到来。コートの襟を立てて家を出る。午前11時から研究室で調査実習の映画・TVドラマ班の原稿の検討会。2時間ほど経過したところで五郎八に昼食を食べに出る。昨日の音楽班は全員私と同じ天せいろを注文したが、今日は私と同じ天せいろは一人だけで、あとは鴨せいろが三人、鴨南蛮が一人。今日は天ぷらよりも鴨に人気が集まった。会計のとき店員さんに「先生も大変ですね」と言われる。どうも支払いのことを言っているらしい。カフェ・ゴトーで原稿の検討会を続ける。そして会計のときやはり店員さんに「先生も大変ですね」と同じことを言われた。どうも皆さん早稲田大学の教員の給料を過小評価しているようである。銀座の高級クラブの支払いならいざしらず、たかが蕎麦屋、たかが喫茶店の支払いである。心配していただくには及ばない。1週間ほど本の購入を控えればいいだけのことである。夜、2002年度に私が担当した二文の基礎演習の学生たちの飲み会に参加。彼らの多くはこの3月で卒業である。あのときの一年生がもう社会人である。学生たちで賑わう高田馬場の駅前の情景は相も変わらずのように見えて、集まり散じて人は変わっているのだ。

 

2.5(日)

 鼻風邪を引いたようである。以前、耳鼻科でもらった薬が残っていたので、それを飲んで蒲団にもぐっていたら、夜には回復する。風邪はこじらさないことが肝心である。大学から入試の試験監督の実施要領が届く。「当日の服装は、スーツまたはそれに準じる服装でお願いします」と書かれている(それも太字で!)。去年もこんなこと書いてあっただろうか。記憶にないのだが・・・・。試験監督というのは来賓席に座っているわけではないのだから、動きやすくい、疲れない普段の服装(私の場合はセーターにジャケット)が一番で、スーツなんて論外である。では、「それに準じる服装」とは何か? 「ジャケットを着なさい」という意味か? それとも「ネクタイを締めなさい」という意味か? 私はセーターは丸首を愛用しているので、ネクタイを締める必要はない。そもそも、こんなところでハイハイと言いなりになっていると、そのうち普段の授業も「スーツまたはそれに準じる服装」を要求してきそうな気がする。組織というものは、一旦作動しはじめると、どんどん管理的になっていくものである。思えば、私が大学教師になった10の理由のうちの一つは、「ネクタイを締めて仕事をしなくてもいい」ことだったのだが、大学もだんだん住みにくい場所になっていくのだろうか。フロイト流に言えばネクタイはペニスの象徴だが(ああ、恥ずかしい)、社会心理学的には組織への服従の象徴であり、したがって一種の踏み絵としての機能をもつのである。

 

2.6(月)

 一階のベランダに住みついた猫たち。寒波に負けず、元気である。すっかり表情の乏しくなってしまった父も、この猫たちを見ると微笑む。そんな父の姿を見ると、猫たちに感謝したくなる。この写真を撮った後、硝子戸を開けて、千切ったハムを与えたところ、座敷まで上がり込んで奪い合うようにして食べていた。池の鯉にお麩を与えたときのようであった。今日は一日自宅に籠もって、ようやく試験の採点を全部終わらせた。明日、採点簿を事務所に提出する。締め切り(2月1日)に遅れること6日は例年並みである。

 

2.7(火)

 午前10時から戸山図書館運営委員会。12時から現代人間論系運営準備委員会(前の会議が長引いて30分ほど遅刻)。昼食はコンビニのお握り3個ですます。午後2時から研究室で調査実習の広告班の原稿の検討会。2時間が経過したところで場所をカフェ・ゴトーに移してさらに2時間。広告が扱っている商品そのものと人生の物語の結びつきについてもっと考察するように注文する。缶コーヒーのコマーシャルはなぜサラリーマンの物語と結びつくのか。携帯電話のコマーシャルはなぜ家族の物語と結びつくのか。そうした問いを徹底的に深めていってほしい。そこに読者を道連れにすること。A4用紙30ページ(400字詰め原稿用紙に換算して約100枚)の文章を最後まで読んでもらうためには相当の努力と工夫を必要とする。私は立場上、最後まで読むが、普通の読者は面白くなければいつでも途中で読者であることをやめてしまう。読者に面白がってもらうためには、何よりも先ず、書き手自身が自分の文章を面白いと思えなくてはならない。その上で、読者にも面白いと思ってもらえるためにはどうしたらいいかという話になる。今日で、5つの班すべての初稿に目を通したわけだが、努力感なしに(面白さに引きずられて)最後まで読めた原稿は一つもなかった。それは工夫の不足というよりも、それ以前の、書き手自身が自分の文章を面白いと感じていないことが理由である。たぶん、これまでの大学生活でそんなレポートばかり書いてきたのだろう。しかも面白くないレポートに対して率直に「面白くない」というコメントを返す教員に出会わなかったのであろう。「面白くない」というコメントを言うときには、教員の側にもそれなりの覚悟がいる。そう言い放った以上は、面白くなるまで付き合う覚悟がいる。面白くないレポートを書いても、「面白くない」と指摘されることがなければ、レポートとはそんなものだという感覚が定着してしまう。そういう感覚を学生と教員が共有する中で、毎学期、量産されるレポート、レポート、レポート。恐るべき時間とエネルギーの浪費。しかし、今年度の調査実習のクラスは、「面白くない」というコメントを言ってもいいかなと思えるクラスである。もっと掘り下げること、食い下がること、そしてはじけてみること。どこのだれでも言いそうなことを言って、満足しないこと。満足したフリもしないこと。報告書に次号はない。創刊号が終刊号である。ここで書かずにどこで書く。

 

2.8(水)

 暖かな一日。硝子戸の側の日当たりのいい場所にリクライニングチェアをもってきて、父を座らせる。父は黙って外の景色を見ている。猫たちはどこかへ出掛けてしまたったようで、姿が見えない。私がベランダに出て、「お~い」と呼ぶと、ほどなくして姿を現した。父も猫に気づき、景色を眺めているときよりも焦点の定まったまなざしを猫に向ける。「この二匹はきょうだいなんだ」と私が言うと、父はうなずき、「似ている」と言葉を発した。意外にしっかりした発音だ。昼食はその場所で食べてもらう。たこ焼きを一個(タコは噛めないので取り除いたもの)、カステラを小さく千切ったものを二個、水餃子を一個(中身の挽肉は噛めないので取り除いたもの)。これでも、ベッドで食べるときよりは、よく食べたといえる。老衰というのは、生命力の全般的低下である。食べなくなり、歩かなくなり、尿の出がわるくなり、話さなくなる。すべては連動している。逆に言えば、一つが回復すると、すべてが回復へ向かう。何をどのくらい食べたかが、いまの父に対する母の最大の関心事であり、あれこれ工夫して食事を作っている母は、父の食欲に一喜一憂している。いや、喜ぶことはめったにない。たいていは落胆し、機嫌が悪くなり、父を叱咤し、私に愚痴をこぼす。すなわち、土星とその輪のように、父の食欲と母の機嫌も連動している。「そんなにムキになって食べさせようとしなくてもいいのではないか」と私が言うと、「食べなくちゃ死んでしまう」と母は言う。それはそうなのだが、一体、父の回復の可能性を母は信じているのだろうか。私は父の介護は最後の看取りのつもりでやっている。小さな上下動はあっても、父はすでに不可逆的な下降のプロセスの中にいるというのが私の認識である。母も基本的にはそのことを理解しているはずである。しかし、理解していることと、納得していることは、別なのであろう。誰かから、「これを飲んで再び歩けるようになった人がいる」と栄養剤のようなものを薦められると、父にもそれを飲まそうとするし、医者に往診に来てもらって元気の出るような何かしらの治療をしてもらおうとする。どうしてもジタバタしてしまう。私は冷たいのだろうか。たぶん、適度に大学へ出ているので、母のように連日、終日、父と向き合っていないで済んでいるから、冷静でいられるのであろう。

 

2.9(木)

 岩波ホールで野村恵一監督作品『二人日和』を観た。藤村志保と栗塚旭演じる老夫婦が主人公。不治の病にかかった妻を夫が看病する物語。と書くと、陰々滅々たる印象を与えるかもしれないが、そこに若い男女の物語が交錯し、古都京都の町並みと四季の風景が織り込まれ、重苦しい空気が沈殿しないような演出がされている。観客は高齢の夫婦あるいは高齢の女同士が大部分を占め、私などは若僧の部類に入る。これまで観た映画の中で一番観客の年齢の高い作品である。それにしても、藤村志保は上品で艶があり、栗塚旭にはショーン・コネリーのような風格がある。こんな老夫婦はめったにいないだろう。映画を観終わって、その足で大学へ。今日は大学院の博士課程の入試がある。五郎八で昼食(揚げ餅うどん)を食べ、午後3時からの採点作業に臨む。今回の受験者は6名であった。午後5時からカフェ・ゴトーで3年前に文学部の文芸専修を卒業したYさんからの「取材」に応じる。Yさんは現在あるライター講座に通っているのだが、その卒業制作で、インタビューをからめた記事を書くという課題に取り組んでいるところなのである。カフェ・ゴトーで2時間、五郎八で2時間、さらにシャノアールで1時間半、計5時間半のロングインタビューであった。もっとも私が話している時間より彼女が話している時間の方が長かったのであるが・・・。

 

2.10(金)

 近所の耳鼻科の待合所で日誌(ほぼ日手帳)を付けていたら、隣に座っていたお婆さんが、「旦那さん、日記を付けてるの?」と聞いてきた。「はい」と答えると、「男の人で日記を付けてるなんて、えらいわねえ」とほめられた。そして「日記を付けてると字を忘れないですむから。呆けの防止になるから」と付け加えた。これからも頑張って続けるのよ、という感じが漂っていた。まだ何か話したそうだったが、受付の人に名前を呼ばれて診察室に入っていった。

妻が書斎に珈琲の入ったカップを持ってきてくれたとき、机の上に置かれていたほぼ日手帳に気づき、「買ったんだ・・・・」と言いながら、それを手に取った。何だか開いて読みたそうな雰囲気が漂っていた。どうして女は他人の日記に関心を示すのであろう。いや、男だって他人の日記には関心がないわけではない。ただ、そうした関心をあからさまに表出したりはしない。儀礼的無関心(civil inattention)を装うのが普通だ。他人の内面に踏み込むことを男は失礼なことだと考え、女は親しさの現れと考えているのかもしれない。まあ、一般論ですけどね。

 

2.11(土)

 暖かな一日だった。午後5時頃、散歩に出る。まだ明るい。ずいぶんと日が長くなった。TSUTAYAでコブクロのアルバム『NAMELESS WORLD』を借りる。彼らの曲は概して物語性が強いが、今回のアルバムには無名時代の自分たちを振り返るというまなざしが内在しているため、物語性が一層際立っている。たとえば、一曲目の「FLAG」は、彼らが路上をステージにしていたときのことを歌った7分22秒のスケールの大きな曲だが、最後はこんな風に終わる。

 

 掲げた旗に どんな風が どんな歌が

 どんな時代が どんな願いが 吹くのだろう?

 どこにいたって 君の目に 映るように

 今 持てる 目一杯の力で 振りかざしていたいな

 

 歪んだアスファルト ボロボロのスニーカー

 騒がしいビル風 人が行き交う

 蹴飛ばされて凹んだ Guitar Case

 いつの間にか こんなに歩いてきたっけ

 

 成長の物語である。この健全な精神は70年前後のフォークソングと相通じるものがある。だから、その時代に青春を送って、いま年頃の娘のいる男が、娘の彼氏がコブクロ(の一人)であると知ったら、きっと安心するだろう。尾崎豊では心配だ。長渕剛ではもちろん心配だ。槇原敬之でもやはり心配だ。しかし、コブクロなら安心して娘を任せることができる。彼らの歌はそういう歌である。ワルぶったところ、斜に構えたところ、すさんだところがまるでない。あえていえばそのへんがもの足りないともいえる。好青年は表の顔で、裏では何かいけないことをしているのではないか、と勘ぐってみたくなる。父親とはそういうものである。話が横道に逸れてしまったかもしれない。

 

2.12(日)

 風の冷たい一日だった。川越に住む私の妹が昨日来て父の介護をし、一泊して帰っていった。帰るとき、父がかすれた声ではあったが「気をつけて」と言ったので、少し安堵する。他者への配慮が働いた言葉が出ているうちは大丈夫だと思った。

 全日本ラグビー選手権準々決勝、早稲田対トヨタの一戦をTV観戦。早稲田の4点リードで迎えたロスタイムの2分間の攻防、とくに最後のワンプレーの長かったこと。プレーが途切れたらその瞬間に試合終了なのだが、トヨタのプレーはなかなか途切れない。だんだん息苦しくなってきた頃に、ついにトヨタの選手にノックオンが出て、試合終了。いや~、手に汗握るいい勝負だった。

韓国映画『春夏秋冬そして春』をビデオで観た。舞台は人里離れた湖の中に浮かぶ寺。老師とその弟子の何十年にもわたる物語を春、夏、秋、冬、そして再びの春の5つの場面で描く。春、小さな弟子は無垢な残酷さで小動物を殺生してしまい、泣きじゃくる。夏、青年となった弟子は病気の療養のため寺に預けられた娘と性的な関係をもち、寺を出てゆく。秋、30代になった弟子は不倫をした妻を殺害し、寺に戻ってくる。自殺しようとするが、老師に諭され、逮捕されて再び寺を出てゆく。自分の死期を悟った老師は自らを火葬に付す。冬、刑期を終え中年を迎えた弟子が老師のいなくなった寺に帰ってきて修行を始める。ある日、一人の女が赤ん坊を寺に遺棄する。女は帰るときに凍った湖に落ちて死ぬ。そして再びの春。赤ん坊は童子となり、彼の師匠がかつてそうしたように小動物を殺生する。・・・・という物語である。季節が繰り返すように人間は同じことを繰り返す。しかし、そこにニヒリズムのまなざしはない。キム・ジトク監督は西洋人の目、および自国の若者(彼らはプチ西洋人である)の目を意識して、この映画を撮ったのではなかろうか。映像による東洋思想入門である。円環的な時間構造の中で展開される因果応報の人生(青春、朱夏、白秋、玄冬)の物語は、きわめてわかりやすい。この映画は台詞が少ないという意味では寡黙な作品だが、映像と挿入歌は十分に(過剰にといってもいい)説明的で、決して暗示的な作品ではない。この作品が西洋人と東洋の若者の間で人気があることは偶然ではない。

 

2.13(月)

JRの定期券(蒲田―東京)を一ヶ月継続購入する。「春は名のみの風の寒さや」という歌(早春賦)の文句があるが、それをもじって言えば、「春休みは名のみの会議の多さや」である。種々の会議に加えて入試関連の業務もあって、これからの一ヶ月は2日に1日の頻度で大学に出る。春休みらしくなるのは3月中旬からである(いや、楽観はできない)。五郎八で昼食(天せいろ)。午後1時から大学院の教授会。その後、本部の生協へ出掛けていって、ノートパソコン(NECのLaVieの最廉価モデルで9万円弱)、プリンタートナー、プリンター光学ユニット、USBメモリー(1GB)、本を数冊(上野千鶴子『生き延びるための思想』岩波書店、川本隆史編『ケアの社会倫理学』有斐閣、富永健一編『理論社会学の可能性』新曜社、など)購入。個人研究費が14万円ほど残っていて(残っていないと勘違いしていて、年末から専門書もほとんど一般の書店やAmazonで自費で購入していた)、その締め切りが今週末なのだ。今日の買物の請求書と最近振り込んだ学会費の領収書2枚でほぼ14万円になる。研究室に戻って、ノートパソコンのセットアップ作業。研究室にはすでに2台のパソコンがある。1台はデスクトップパソコン(ソニーのバイオ)で、主として調査実習のインタビューデータ(MP3ファイル)の管理に使っている。もう1台は大学から支給されているノートパソコン(IBMのシンクパッド)で、専らインターネットとメールチェック用に使っている。今日購入したノートパソコンは文書作成用。私は研究室では原稿は書かない。いや、書けない。読書は、電車の中でも、喫茶店でも、公園でも、病院の待合所でも、どこでもできるが、原稿の執筆はこのフィールドノートを書いている自宅の書斎のデスクトップパソコン(SOTECの廉価モデル)でないと集中できない。それは場所の問題だけではなくて、パソコンのキーボードとの相性の問題も大きい。研究室のバイオのキーボードは長時間打ち続けるにはキーが硬い。シンクパッドのキーボードは沈みがやや浅い。神経質なことを言っているようだが、鍵盤の感触が気にならないピアニストがいないのと同じことである。LaVieのキーボードはまずまずである。これからは研究室でも原稿が書ける(かもしれない)。

 

2.14(火)

 午前11時からカリキュラム委員会。それが終わってから安藤先生とお昼を食べに五郎八に昼食行くと、兼築先生が学生と来ていて、われわれより先に店を出るときに、「これからカフェ・ゴトーに行きます」と言ってニヤリと笑った。私の行動パターンを先刻ご承知というわけだ。しかし今日は会議が目白押しなので、カフェ・ゴトーで一服している暇はない。午後2時から新学部の基礎演習のあり方の検討会。いろいろとアイデアが出て、うまくいけば(担当教員が本気で取り組めば)新学部の売り物の一つになるだろう。午後3時半から基本構想委員会(私は前の会議が長引いて途中からの参加)。委員の任期が3月末で終わるため、今日が最後の会合。次の教授会で新しい基本構想委員の選挙がおこなわれるが、どうか再任されませんように。とにかく会議が多すぎる。しかも行く先々で同じようなメンバーと一緒になる。40代後半から50代前半の中堅教員はまさに「委員会世代」である。学部運営はこうした「委員会世代」の搾取の上に成り立っているといっても過言ではない。