フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

3月31日(火) 晴れ

2009-03-31 23:59:35 | Weblog
  9時半、起床。朝食兼昼食はカレーうどん。
  午後、自転車に乗って郵便局に振込みに行き、その足で「甘味あらい」へ。贅沢あんみつと磯辺巻き(2つ)のセットを注文。贅沢あんみつと磯辺巻き(3つ)を別々に注文するより割安であるが、難は、あんみつと磯部巻きが一緒に運ばれてくることである。私としては、まずあんみつを食べ、口直しに磯辺巻きを食べたい。しかし、一緒に運ばれてきてしまうと、まず磯部巻きから食べないと磯部巻きが冷えて硬くなってしまう。「磯部巻きは後からもってきてください」と注文を付けることはできなくはないのかもしれないが、他のお客さんもいることだし、わがままを言うのは気が引ける。「甘→辛」か「辛→甘」かの順序問題は私にとってはけっこう重要な問題なのだ。今回については、磯部巻き→贅沢あんみつの後にブレンド珈琲を注文して口直しとした。

         

  追加で珈琲を注文したので、少々長居をして、一週間後に迫った最初の授業「現代人間論系総合講座1」の講義ノート(プロット)を作成する。初回は担当教員4名が全員登壇して講座の概要を説明する。コーディネーターである私の総論が30分。4名の教員による各論が1人10分として40分。最後に成績評価のやり方についての説明を10分。予備に10分とっておく。時間配分はこんなところであろう。総論の部分と自分の各論の部分を考える。一週間後の今日はほかに卒論演習の初回も予定している。学生は4人。毎週だと早く発表の順番が回りすぎるから隔週ペースがよいだろう。ただし4月登録の二文生がいるかもしれない。いまそういう学生がこのブログを見ているかもしれないので、いっておいた方がよいだろう、前期の卒論演習は火曜5限に行います。
  呑川沿いの道を帰る。川沿いの桜並木はまだまだである。早くても今週末だろう。いつもなら一緒に咲く菜の花が一足早く咲いていた。

         

  途中でちょっと錦栄会通り、観音通りに寄り道。古い商店街だ。お母さんと2人の小さな子供連れとすれ違ったとき、彼らの会話が聞こえた。「へをたれる」の「へ」とはオナラのことだと母親が子供に教えていた。「知ってるよ」と子供は答えていた。

         
                 すみれの花咲く頃 初めて君を知りぬ

         
                    文化包丁とか文化鍋とか

         
         古い小さな商店はしだいに自動販売機の殻に覆われていく

         
                      性別役割分業
  
         
                  呑川の上空をかもめが飛んでいた

3月30日(月) 晴れ

2009-03-31 03:27:03 | Weblog
  9時、起床。炒飯とオニオンスープの朝食。
  昼過ぎ、自宅を出る。「やぶ久」で昼食(鍋焼きうどん)。いつものように『週刊文春』を読む。「創刊50周年記念号」とのことで、普段よりも読み応えがあり、鍋焼きうどんを食べ終わるまでに読み終えることができず、駅の売店で購入。山田太一と宮藤官九郎の対談が興味深かった。

  山田 この間、『少年メリケンサック』観てきましたよ。面白かったなあ。お客さんも入ってて、終った後もみんな楽しそうだった。シルバー割引で入ったのはたぶん僕だけ(笑)。
  宮藤 ありがとうございます。監督したのは二本目なんですが、一本目は思い入れが強すぎて、お客さんに作品を届けるというところまで気がまわらなかったんです。今回はその反省を踏まえて作りました。
  山田 話の設定はかなり飛んでるんですけど、細部で「そりゃないでしょ」というところがない。隙のない演出だと思いましたね。
  宮藤 一本目のときは、言わなくてもわかるだろうっていう甘えがあって、だから今回はしつこいくらいに確認しながら撮ったつもりなんですが。
  山田 パンクの中年男たちに、だんだんと魅力が出てきて、気がつくと、パンクってなかなかいいものだと思わされてました。
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  宮藤 山田さんの『ありふれた奇跡』で、風間杜夫さんと岸部一徳さんが女装して街を歩くシーン。あれはパンクを感じました。
  山田 だといいけど。
  宮藤 パンクって、音楽でありつつ日常を破壊する行為そのものだと思うんですよね。だから最初は白い目で見られてた。
  山田 日常から逸脱しようとする、あがきみたいなものを書きたかったんですよね。でも大麻とかホモセクシャアルだと重すぎるでしょう。
  宮藤 それを話の中心に持ってこないといけなくなりますもんね。
  山田 そう、そこだけが肥大化して、そっちの話を広げなきゃいけなくなる。それでいろいろ考えて女装にしたんです。
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  宮藤 『ありふれた奇跡』に限らず山田さんは、あまり次回に向けて話を引っ張らないですよね。あえてだと思うんですが。
  山田 品がない気がしてね。翌週まで引っ張るのはお客さんを馬鹿にしてるようで、あまりやりたくない。
  宮藤 毎回、何気ないところで終るのが良かったです。いくら引っ張っても次回予告でだいたい分っちゃいますから。
  山田 そういうやり方があってもいいと思うけど、僕はやりたくないっていうだけなんですけどね。
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  宮藤 ご自分のスタイルをどれくらい意識されてますか?
  山田 自分では毎回変えてるつもりなんだけどね。
  宮藤 僕もそうなんです。でもバレちゃう。山田さんのドラマではウエイトレスが出てきたところで、わかっちゃいます(笑)。山田さんの作品には、喫茶店での店員とのやりとりにこだわりを感じます。
  山田 僕はちょっとウエイトレスフィチなところがあるのかもしれないな(笑)。喫茶店のシーンで、ウエイトレスをくっきり描いて、主人公をぼんやり描くと不思議な味が出たりしていいんですよ。ただそこに名前のあるうまい俳優さんに出てもらうわけにはいきませんから。
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  山田 僕がライターになった頃、バディ・チェイエフスキーというアメリカのドラマ作家の本を読んだんですよ。その中にテレビというのは突出した人を描くんじゃなくて、ありふれた人を描くのに適しているということが書いてあった。王子が自分の父親を殺したのは誰だ?という話じゃなくて、隣の肉屋さんはなぜ今の奥さんと結婚したんだろう?っていうほうがずっと刺激的だと。僕は大いにうなづきましたね。日常のちょっとしたことで一話書いちゃう。昔はのんびりしてたからそういうところで修業したという感じはありましたね。
  宮藤 でもみんなが隣の肉屋さんの結婚の話を書いても、山田さんみたいには書けないと思いますよ。
  山田 みんながやる必要はないんです。八〇年代くらいまでは、素朴な思い込みでも何とかやっていけたんですよ。テレビでも視聴率のことをあんまりうるさく言わなかったし。でもその後一気にドラマの商品化が進んで、脚本家の個性とか内面とかは関係なくなっちゃった。僕も娯楽作品は嫌いじゃないんですが、なんかこうひんやりしてきてね。誰の過去も私(わたくし)性も関係なく、技術だけ持ち寄ってドラマ作りをするようになった。それがドラマを痩せさせた理由の一つじゃないかな。一つ成功するとどの局も右に倣えで似たようなものを作り始める。
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  宮藤 山田さんはセリフを一言一句変えないでくれとおっしゃるんですよね。
  山田 とりわけ連続ドラマだと忙しいからチェックする時間がない。「何でもいい」というと現場では何が起こるかわからないでしょう。
  宮藤 僕は基本的に現場にお任せなんですよ。「違うじゃない?」って書いたのが、「違くね?」になったりする。のびのびやってくれるのは良いんだけど、さすがに自分で書いたと思われたら恥ずかしいなっていう言い回しもあって。そろそろ「セリフを変えないで」って言おうかなと思ってる(笑)。
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  宮藤 山田さんはハコ書き(ストーリーの構想)をしないんですよね。
  山田 僕ハコ書きができないんです。ハコ書きの才能がない(笑)。
  宮藤 じゃあ書いてるときもどの方向に行くのかわからないんですか?
  山田 ええ、そうですね。
  宮藤 でも企画段階ではストーリーのアウトラインを書いてくださいっていわれますよね?
  山田 何もないんじゃ会議をするとき困るだろうから一応書きます。でもそれは意気込みみたいなものです(笑)。
  宮藤 そう、意気込みですよね。ローンの頭金みたいなもんです。「僕、書けます」っていう。だから意気込みの段階で「ここがちょっと・・・」って言われると「え?」って思う(笑)。
  山田 そうそう。僕はひそかに、ライターがハコ書きを作ってその通りに行くことがあるんだろうかって思ってます。ドラマなんて書いてみなきゃ分らない。どんな話になるか分ったら書く気力がなくなっちゃう。アウトライン通りになるドラマなんて、つまらないでしょう。書いてるほうも先行きがわからないから面白いんじゃないかな。
  宮藤 話って書いているうちにどんどん変わって行きますよね。
  山田 最初に決めたテーマと変わってしまうこともあります。半分くらい書いた書いたところで、本当のテーマはこれだって気づくんですよ。
  宮藤 でも最初に書いた部分も、後で気づいたテーマのためだったりするわけですよね。
         

  大学に着いて、事務所や生協の書店でいくつか用件をすませてから、現代人間論系室で教員懇親会の準備作業。
  6時から「西北の風」で非常勤講師の方々をお招きしての教員懇親会。この季節、ちょうど陽が沈む時刻で、15階のレストランからの眺めがよい。晴天に恵まれてよかった。ホスト役としては、せっかく来ていただいた方が手持ちぶたさでポツンとされていることがないようにということだけ気を配ったつもりだが、初対面の先生同士が歓談されている様子にホッとする。みなさん社交の術は心得ていらして、出席者が一人一人自己紹介をしているとき、メモを取りながら聞いていらっしゃる方が多かった。これで後から「先ほどのお話ですが・・・」で会話が起動する。最後に集合写真を撮って、9時ごろ散会。さあ、授業開始まであと一週間である。

3月29日(日) 晴れ

2009-03-30 11:48:46 | Weblog
  10時、起床。昨夜の残りのハンバーグ、トースト、牛乳の朝食。
  午後、娘が出演する芝居(ドラマチック・カンパニー・インハイス第5回公演『機織り淵の龍の華』)を観に妻と一緒に阿佐ヶ谷に行く。現地で義姉夫婦と合流。一番乗りで、一番前の列の中央の席に座る。

         

  インハイスの芝居を観るのはこれで3回目だが、左観哉子の脚本には二つの大きな特徴がある。第一は、緻密に構成されたストーリーだがその全体(ストーリー性)が見えてくるのは芝居の中盤以降であるということ。最初、ストーリーは、ジグソーパズルのように分解されて、時間的な順序とは関係なく、その断片が提示される。いずれも重要な場面なのだが、それがわかるのはもっと後になってからで、個々の断片は浮遊して容易にそのつながりはわからない。だから観客は、とくに初めてインハイスの芝居を観る場合、混乱と緊張を強いられる。それが登場人物の回想的語りを導きの糸として、しだいに浮遊していた断片同士がつながっていく。謎に満ちていたいくつかの断片は繰り返し再現されることで、その謎が解けていく。ジグソーパズルの断片がしかるべき場所にピッタリとはまったときのような快感を観客は味わうことになる。拡散(分解)から収斂(統合)へ。これはミステリーの手法である。第二は、出口のないような悲劇的な状況の中にほのかな(決してハッピーエンドではない)希望を見出して物語が終るということ。悲劇は個人の責任には帰属できないような要因、どういう土地(地域共同体)、どういう家族(血縁共同体)の一員として生まれ育ったか、ということと大きくかかわっている。主人公(の一人)の青年は悲劇的な状況の中で犯してしまった罪から逃れるために、生まれ育った土地を離れ大都市へ出て、ささやかな安住の場所を得るが、それはひとときのもので、消し去ることのできない記憶と、脱出したはずの共同体からの追っ手の出現によって、さらなる罪を重ねてしまう。6人の登場人物のうち2人は殺され、1人は自殺し、2人は生身の人間ではなく主人公(の一人)の娘が悲劇的な状況に適応していくために作り出した幻影であることが明らかになる。最後に残ったその娘が自殺をすれば悲劇は完成されるところだが、その一歩手前で娘は踏みとどまる。娘を踏みとどまらせたのは「生きてほしい」という死者からの呼びかけである。その死者が死者となる直前に、娘と交わす独白は胸を打つ。私は(隣の妻も)思わずもらい泣きしそうになった。この結末は、悲劇的ではあるが悲劇ではなく、かといって希望と呼ぶにはほのかなもので、祈りと呼ぶのが一番ぴったりくる。6人の役者たちはみな熱演であった。何箇所か台詞をかむところがあったが、あれだけの長台詞だ、舞台ならではのものとして許容される範囲内のものである。音楽がよかった。一定の旋律の繰り返しなのだが、台詞の間合いと音楽との間合いがピッタリだった。これはたまたまのものでなく意図されたものであろう。見事であった。音響の重要性を再認識させてもらった。父親としての視点からの感想を加えるならば、娘の横顔、顎のラインがずいぶんとシャープになっているのに気づいた。今回の公演に合わせて減量をしたのか、日常の仕事がハードなのか、どっちだろう。平日は遅くまで働き、土日は芝居の稽古。エネルギー全開の毎日だが、若さを過信しないで、しっかりと休息もとってほしい。次なる公演も楽しみにしている。
         
         
                        新宿の目

  夕食は義兄が予約しておいてくれた「新宿三井クラブ」(三井ビル54階)で。三井グループの会員制のレストランなので、一般の人の利用はできない。日曜・祝日は8時半閉店(平日は9時半閉店)という商売っ気のなさには驚いた。普段ならこれから夕食という7時半がラストオーダーの時間なのである。

3月28日(土) 晴れ

2009-03-29 03:18:56 | Weblog
  9時半、起床。朝食は抜き。今日は母の82歳の誕生日。昼前に母、妻、息子と食事に出る(娘は今日明日と芝居の公演)。食いだおれ横丁の釜飯屋「梅Q」へ行く。4種類の釜飯(筍、牛肉、鶏、海老)を注文し、シェアして食べる。一人のときは五目釜飯を注文するが、今日のように単独の具のものを4種類食べた方が断然美味しい。それぞれの釜飯には「特製」というメニューがあって、500円割高だが、具の質ではなく量が増える。普通のもので十分美味しいが、お店の人に聞いたら、蟹釜飯だけは「特製」を勧めますとのこと。覚えておこう。
  東急プラザの靴屋に行って母に靴をプレゼントする。母は靴のデザインよりもまず値札を見て、履いてみるかどうするかを決める。「値札なんか気にしなくていいから」と言っても、「1万円くらいの靴で十分」と言ってきかない。倹しさが身についているのだ。店員さんの協力を得て(やっぱり勧め上手だ)、2万円くらいの靴に決める。母は、明日、外孫(私の甥)の就職祝いに呼ばれているので、さっそくそこに履いていくと言う。
  池上に散歩の足を伸ばす。駅前の「浅野屋」に入って、葛餅と珈琲のセット(540円)を注文。葛餅が数切れと、ポットに入った珈琲が出てくる(そのポットに保温のための布製のカヴァーが掛っている)。珈琲は優に2杯は飲める。腰を据えての読書にはうってつけだが、いかんせん店の内外に順番を待つ客がいるので、そうそう長居はできない。

         

  本門寺の桜は見頃にはまだ早いが、境内に漂う「花見の前の静けさ」は悪くない。

         

         


         

         

         

         

         

  境内にある休憩所で梅昆布茶(和菓子付き)を注文し、ここはテーブルがたくさんあるので、気兼ねすることなく読書に耽る。川上弘美『東京日記2 ほかに踊りを知らない。』(平凡社)

  「七月某日 雨
  本を読んでいたら、「そのとき私は上機嫌で」という文章がある。
  そういえば、いちばん最近自分が上機嫌だったのはいつだったろうかと、思い出してみる。
  ぜんぜん、思い出せない。
  一杯機嫌、とか、屠蘇機嫌、とか、ほろよい機嫌、などの、お酒が原因での上っ調子はあるが、堂々とした「上機嫌」は、ない。
  なんとなく、肩身が狭い感じ。

  七月某日 雨
  ひとつ今日は上機嫌になってやろうと、いろいろやってみる。
  まず、よそゆきの傘をさして、はねのあがりにくい靴もはいて、隣町まで歩く。デパートに入って、かねがねほしいと思っていた服を、思いきって二着買う。
  つぎに、駅ビルの地下街へ行く。一度入ってみたいと思っていた食堂に入って、えびカレーの大盛りを頼む。残さず、たいらげる。
  つぎに、廃ビルの中庭に無断で入りこんで、ぐるぐる歩きまわってみる。
  最後に、川沿いの誰もいない岸辺に立ち、「青春のばかやろう」と叫んでみる。
  やりたいと思っていたことを全部実行し、しばらくのあいだは上機嫌でいる。夜中の十一時くらいまでは、高揚した気分がつづく。
  十一時三分すぎくらいに、突然、「でもあたしがつねづねやりたいと思ってた事って、こんなにちゃちいことばかりだったんだ?」と思いついてしまう。
  しゅーっという音をたてて、上機嫌の袋から、空気がぬけてゆく。」(118-119頁)

  「あとがき」を読むと、「あいかわらず、中の五分の四くらいは、うそみたいですがほんとうのことです」と書いてある。引用した「上機嫌」になるために彼女がとった5つの行動のうち、たぶん「青春のばかやろう」はうそであろう。あとの4つはほんとう。私には川上弘美という人がだいぶわかってきた。なんと魅力的な女性だろう。
  池上駅前商店街の古本屋「大黒」で、草柳大蔵『実録満鉄調査部』上下(朝日新聞社)と中谷巌『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社インターナショナル)を購入してから、池上線で帰る。

         

         

         
         
         

  夕食はハンバーグ、ゆでたキャベツとゆで卵のサラダ、茄子の味噌汁、ご飯。サッカーの日本対バーレーン戦を観ながら食べる。1-0で日本が勝つ。これで本選出場はほぼ決まりだろう。

3月27日(金) 晴れのち曇り

2009-03-28 10:58:36 | Weblog
  9時、起床。昨夜の残りのロールキャベツとトーストの朝食。『かもめの日』は読売文学賞を受賞した小説だが、東京の別々の場所で起こっている複数の出来事が「どこかでつながっている」という物語で、村上春樹『アフターダーク』もそういう物語だったが、流行の視点なのだろう。昔は違った。山田太一『岸辺のアルバム』(1977年)のように、つながっているはずの家族が実はバラバラだったというのが流行の視点だった時代があった。家族はつながっている、つながっているべきだ、つながっていてほしい、そう誰もが思っている時代に「実は・・・」という視点はショッキングであり新鮮だったのだ。いまはそんなことをいっても誰も驚かない、さらなる個人化の時代なのだ。だから、そういう時代には、「バラバラのようで実はつながっている」という視点が求められるのだろう。
  午後、散歩に出る。「石川屋食堂」で餃子と半炒飯の昼食。餃子は大ぶりなのが5個出てきた。ご飯が進む、進む。半炒飯でなく普通のライスにすべきだったか。

         

  アロマスケアビル前の「カフェ・ド・クリエ」で食後の珈琲を飲んでから、ジムへ。ウォーキング&ランニングを1時間。オムライス一皿分のカロリーを消費。
  くまざわ書店で以下の本を購入し、「シャノアール」で読む。今日は意識してライフストーリー的なものを選んで購入した。

  坂本龍一『音学は自由にする』(新潮社)
  はるは愛『素晴らしき、この人生』(講談社)
  押切もえ『モデル失格』(小学館)
  神地雄輔『神地雄輔物語』(ワニブックス)
  中村江里子『中村江里子のわたし色のパリ』(KKベストセラーズ)
  川上弘美『東京日記2 ほかに踊りを知らない。』(平凡社)

         

  「ちょっとしたはずみで、こうして自分の人生を振り返ってみることになりました。本音を言えば、あまり気が進みません。記憶の断片を整理してひとつのストーリーにまとめる、というようなことは、本当は性に合わない。
  でも、ぼくがどんなふうに今の坂本龍一に辿りついたのかということには、ぼくも興味があります。なんといっても、かけがえのない自分のことですから、自分がなぜこういう生を送っているのか、知りたいと思う。」(坂本龍一、7頁)

  典型的なインテリの自伝の書き出しである。自己を語ることへの羞恥と欲望。

  「生きていて良かった。これがいま、この本を書き終えた私の正直な気持ちです。
  この本を書くために自分の人生をふり返ってみると、本当に苦労の連続でした。
  でも、私の人生には、この本に書いたどんな苦労も欠けてはダメだったと思います。
  いろんな苦しみが、いまの私をつくってくれました。大変な困難を経験したからこそ、小さな喜びや普通の幸せを何倍にも大きく感じることができます。」(はるな愛、252頁)

  苦労の末に社会的成功(芸能人の場合は「売れる」ということ)を収めた人の自伝である。語りのなされている「現在」が満足すべき状態にあるとき、過去の辛い経験はすべて「現在」という視点から成功(あるいは幸福)に至る物語として編成される。

  「太宰治の小説『人間失格』を読み返すたびに、思うことがあります。
  弱さゆえに転落していく主人公の人生と、私のモデル人生には、どこか似ているところがある、と。
  寂しさゆえに愛を求め、愛を求めるがゆえに寂しい主人公の姿がどうしても他人事とは思えないのは、私がモデルとして挫折し、苦しんでいるときの姿とあまりにシンクロするからなのかもしれません。
  その意味で、あえて言いたいのです。私は「モデル失格」だ、と。
  そして、それを認めたときから、私のモデル人生は始まった、と・・・」(押切もえ、9頁)

  出版される自伝は商品である。だから読者(消費者)の欲求に応えるところがなくてはならない。めぐまれた素質を持って生まれた人が恵まれた環境の中で育って社会的成功をなんなく手に入れた・・・というような物語は自伝としての商品価値がない。「自伝失格」である。好まれるのは、挫折や失敗から再起して社会的成功を手に入れる物語である。そうした物語は挫折や失敗から再起しようとしている人々(それが社会の主流である)のモデルとなることができるからだ。

  「僕が今まで人生で一番聞かれる質問。
  ☆何で野球やめたの?☆
  それはバイトのつもりで入ったこの世界で、ドラマがたまたま決まっちゃったタイミングである。でもワガママを言えば野球を選べた。よく周りの人や記事には『ケガをしたから』て言われるけど、そんなカッコいいもんじゃない。理由は、
  ただ好きだからってだけで6才から始めた野球をあの時、背番号『2』をもらった時、「ホッ」とした自分に絶望した。いつの間にか、「恩返ししなきゃ」「~のために」「~しなきゃ」て気持ちの方が自分の「好き」を上回ってた。見えなくさせてた。
  だからその時、スパッとやめた。でも唯一あの頃と違うこと。今「誰かのため」より「好き」が勝っている。
  かかってこんかい。そんな感じ。」(神地雄輔、158頁)

  子供は親(に代表される他者)の期待を自身の夢に変換して、しかし、多くの場合、変換しているという事実に気づかずに、生きている。その事実に気づくのは、期待に応えて生きていくことが困難になったときだ。「したいこと」と「しなくてはいけないこと」が乖離し、そのズレはしだいに大きくなり、息をすることさえ苦しくなっていく。そうした状況で、神地雄輔は「しなくてはいけないこと」を捨て「したいこと」を選んだ。ただし、そういう選択が満足すべき結果をもたらすという保証はない。神地の場合は、その後の彼の努力と幸運がその選択を「間違っていなかった」と認識させたが、それは結果論である。多くのケースでは、選択が「間違っていた」となるかもしれないというリスクが選択を躊躇させる。「しなくてはいけないこと」の範囲内に踏みとどまって「したいこと」を断念する、あるいは知らず知らずに「したいこと」を忘れてしまうというのはありがちな話である。そういうありがちな話が商品として書店に並ぶことはない。神地は1979年の生まれだから今年で30歳になる。彼が世間の注目を浴びるようになったのはこの1年ほどのことであろう。『神地雄輔物語』は、彼が横浜高校を卒業して、多数の大学からの推薦入学の誘いを断って、俳優としての道を志してからブレイクするまでの10年間についてはほとんど語っていない。単純に面白くないからかもしれないし、彼を「シンデレラボーイ」として演出しようとする製作サイドの編集方針に合わないからかもしれない。あるいは彼自身が頑として語らなかったのかもしれない。「あとがき」的な部分で語られる彼の次の言葉が印象的だった。彼は「シンデレラボーイ」ではないし、「おバカ」でもない。

  「28才。
  28才が一番「おめでとう」ってたくさんの人から言われた。「おめでとう」って言われるから「ありがとう」て言ってる。
  それと同じくらいいろいろなものがなくなった。だから今年が一番オトンとオカンから「大丈夫か?」て言われた。「大丈夫か?」って言われるから「大丈夫」つってる。そんな1年間だった。」(神地、177頁)

         

  川上弘美『東京日記2 ほかに踊りを知らない。』は『東京日記 卵一個分のお祝い』の続編である。ずっと続いてほしい。

  「三月某日 曇
  税金のことをする。
  「申告する」とか「計算する」とか「帳簿に買いこむ」という言いかたができればいいのだが、そんなところまでとてもじゃないが行き着かない。ただ「それに向ってじりじりと匍匐(ほふく)前進している」っていう感じ。
  午後、疲れ果てて、同業の友人に電話したら、やはり憔悴した声で、前置きもなしに、「ぜいきん」とつぶやいた。ぜ、ぜいきんが、ど、どうしたの、と聞き返すと、友人はしばらく黙り込み、それからふたたび「ぜいきん」とだけ言った。
  つらい気持ちになって、静かに受話器を置く。」(7頁)

  うまいな、と感嘆するほかはない。