9時、起床。今日も晴れている。晴れているとほっとするのは、外壁塗装の工事が進行するからである。外壁の塗装は今日であらかた終るはずだ。当初2週間の予定だったものが、雨のせいで、2倍かかってしまった。ベーコン&エッグ、トースト、牛乳の朝食。
午後から大学へ。月曜は授業も会議もない日だが、今日が締め切りの書類を事務所に提出しなければならないのだ。長田先生、岡部先生の研究室にうかがって提出書類の最後の確認。
昼食は「maruharu」で。本日のサンドウィッチも本日のスープも今日はなくなってしまったとのこと。それは残念。しかし、売り上げ好調はよいことである。バゲットにカマンベールチーズとサーモンとレタスを挟んでもらう。それと珈琲。マダムとおしゃべりをしながら、外の様子を見ていると、入口の小さなホワイトボードに書かれた品書きを立ち止まってながめる人がたまにいる。しかし、お店に入っては来ない。今度入ってみようと思っているのかもしれない。こちらから道を歩く人が見えるが、向うからもこちらが見える。ときどき視線が合う。大教室での授業をとっている学生が、授業のBBSに「先日、大久保先生がmaruharuにいるところを目撃しました」と投稿していた。書き込みは授業の感想だけでいいですから。
あゆみブックスで以下の本を購入。
川西政明『新・日本文壇史』第二巻(岩波書店)
バーバラ・エーレンクライン『ポジティブ病の国、アメリカ』(河出書房新社)
岸見一郎『アドラー 人生を生き抜く心理学』(NHKブックス)
福岡伸一『ルリボシカミキリの青』(文藝春秋)
柴田元幸『ケンブリッジ・サーカス』(スイッチ・パブリッシング)
蒲田に着いて、電車の中でずっと読んでいた清水真木『これが「教養」だ』の続きを、「シャノアール」で切りのいいところまで読む。なかなか面白い。彼によれば、そもそも「教養」というものは、18世紀のヨーロッパの市民社会で、人々の生活が公共圏(政治)、私有圏(職場)、親密圏(家庭)の3つに分裂していく過程で、それらを統合するものとして求められたものである。
「具体的に申せば、職場での役割、家庭での役割、政治の場面での役割の他にもう一つ、家庭内での立場からも独立した、政治的な主張からも独立した、職場での地位からも独立した、つまり、いつ、どこで何をしているときにも変化することのない「自分らしさ」なるものを見つけ出すということであります。・・・(中略)・・・「自分らしさ」なるものをあいだに立て、家庭と職場と政治のあいだの折り合いをつける、つまり、生活の「交通整理」をすることが期待されたのであります。・・・(中略)・・・この新しい「自分らしさ」を見つけ出すプロセスと、このプロセスの結果として見出されるはずの「自分らしさ」こそ、本来の意味での「教養」と呼ぶべきものに他なりません。」(41-42頁)
このように考えると、一人一人の教養はオーダーメードの服のようなものであるわけだが、実際に歴史の中で生じたことは、教養の堕落形態としての既製服の普及だったということになる。「自分らしさ」が「人間らしさ(人間性)」という万人に妥当する概念にすりかえられてしまったのである。文学、音楽、美術、歴史・・・といったわれわれが「教養」という言葉からすぐに連想するものは、本来、教養とは何の関係もないものだったというのが清水真木の主張である。
「「教育」「文化」「古典」「読書」等々は、教養とは関係のないものでありますのに、教養にピッタリと寄り添っているように見えます。いや、教養にへばりついているおります。そのために、外からは、教養の「お友だち」のように見えます。ところが、教養の方からしてみますと、この連中は、見ず知らずの他人、「あかの他人」なんであります。どういうわけか黙ってにじり寄ってきて、自分に抱きついている、あまり気持ちのよくない連中なんであります。見ず知らすの大勢の他人に黙って抱きつかれたら、誰でも気味が悪いはずです。・・・(中略)・・・当然、教養について語る作業の多くは、教養を教養でないものから切り離す作業というものによって占められることになります。言い換えますと、教養について語る言葉の大部分は、教養をめぐる誤解について語る言葉ということになってまいります。そして教養の歴史とは教養の誤解の歴史であることが否応なく明らかになってまいります。」(13-14頁)
なるほどね。清水真木の祖父、清水幾太郎に彼が清水研究室談話会で行った報告を活字にした『戦後を疑う』(1980)という本があるが、清水真木の『これが「教養」だ』は、その「教養」編ともいえるもので、『教養を疑う』というタイトルの方が相応しいような気がする。実際、すでに清水真木は『友情を疑う―親しさという牢獄』(中公新書、2005)という本を出しているのだから、「○○を疑う」シリーズでタイトルを統一する手もあったと思うが、出版社が別々だとそういうわけにもいかないのだろうか。多元化し、分裂し、流動化した生活を生きる現代人(われわれ)の問題を考えるという視点から、本書は、現代人間論系の学生たちにも読んでほしいと思う。
読売新聞の今日の夕刊の一面に「手乗りスズメ出現」という見出しの記事があって、公園で人の手のひらに乗って、パンくずをついばむ雀たちの写真が載っている。こうした「人慣れスズメ」が各地で増えているという(ただしスズメの数そのものは過去20年で半減しているそうだ)。昔、学生の頃、ロンドンの公園を散歩していて、まるで鳩のように人間から餌をもらっている雀たちの姿をみて、「なるほど、ロンドンの雀は社交的だ」と感心した記憶があるが、30年後のいま、その情景が日本でも見られるようになったわけだ。うちの小雀は手乗り(肩乗り、頭乗り)だが、ただそれだけではもう誰も感心してくれなくなるだろう。何か芸をしこまなければ・・・(そういう話ではないか)。教養を身につけさせなければ・・・(そういう話でもないか)。
はい、頑張ります!