こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

聖霊降臨の主日(ヨハネ20:19-23)恐れを取り除き、イエスに心を開かせる

2017-06-04 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/170604.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/6/4(No.888)
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聖霊降臨の主日
(ヨハネ20:19-23)
恐れを取り除き、イエスに心を開かせる
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聖霊降臨の主日を迎えました。聖霊を思い巡らすことは神の思いに心を向けることです。神の思いに目を向け、わたしたちにどんな生き方が期待されているか、考えてみましょう。

先週の司祭叙階25周年の記念ミサと祝賀会にはたくさんの方々に温かい言葉をかけていただき、ありがとうございました。子供たちのプレゼントも毎日司祭館の食堂で眺めています。打ち上げをしてくれと言っていました。7月17日海の日の夜、バーベキューでいかがでしょうか?

お祝いもいただきました。貯金と言いたいところですが、これから15年乗り続けるためにカローラフィールダーを買いましたので、母親を温泉に連れていく以外は車の支払いに充てさせてください。ただ、お祝いをくださった方には記念ミサと祝賀会の様子をビデオに撮っていますので、ぜひお分けしたいと思います。

当日の祝賀会においでくださった方々には、わたしが司祭に叙階された時のビデオをお配りしましたが、ご覧になられたでしょうか。最後までご覧になった方は、島本大司教様が赴任地を発表している様子もご覧いただけたと思います。祝賀会で配ったものと同じDVDもまだ残っています。ご覧になりたい方は案内書に声をかけてください。

一つ失敗がありました。祝賀会で入場の曲をかけてくれと言って、「パーフェクトヒューマン」というのをCDに入れて渡していました。分かる人は分かると思いますが、あの中で「ナカタ」「ナカタ」と連呼するシーンがあります。その掛け声に合わせて入場したかったのですが、ずっこけてしまいました。主任司祭入場だけ、霊名の祝いでもう一度やり直したいと思います。

福音に戻りましょう。聖霊降臨の学びは、第一朗読と合わせて考える必要があります。まずは福音朗読ですが、イエスは恐れに捕らえられている弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」(20・19)と言って恐れを取り除いてくださいます。恐れを取り除いてから、聖霊を受けるように促し、さらに使命を与えています。

使命は、聖霊を受けて与えられます。しかも、恐れを取り除いてもらった状態で、平和・心の静けさを整えてもらった状態で使命は与えられます。当然と言えば当然です。恐れている弟子に無理やり使命を与えても動けないでしょう。あるいは失望している状態にあっては使命も重荷になるでしょう。平和な状態、心の静けさを取り戻した状態になってから、弟子たちは使命を果たすことができるわけです。

その鍵となるのが聖霊の働きです。イエスは天に昇られ、そのままでは弟子たちは心に穴が開いたままです。聖霊は御父から御子に与えられて、弟子たちに注がれます。「炎のような舌」(使2・3)でありながら、人間を焼き尽くすことはなく、心の平和と、使命への熱意を与えるのです。


聖霊が降った様子は使徒言行録に詳しく書かれていますが、仮にその様子を知らないとしても、問題ありません。福音朗読は聖霊が恐れを取り除いてもらってから注がれ、使命を与えることをはっきり告げています。

堅信の秘跡で、聖霊降臨の時と同じ聖霊を注がれると教えられ、中には当時の聖霊降臨と結びつかず、首を捻った人もいるかもしれません。使徒たちに聖霊が注がれた時も、彼らは使命への熱意に燃えたのであって、やけどをしたわけではないのです。堅信の秘跡を受けたわたしたちと変わりありません。

御父はアダムとエバが罪を犯して救いから遠くなったことを心配して、御子を送ってくださいました。また御子は御父から受けた聖霊をわたしたちに送ってくださいました。聖霊は、わたしたちに対する御父と御子との深い愛なのです。

ところで福音朗読の中で、「聖霊を受けなさい」この言葉にわたしはいったん立ち止まって考えました。弟子たちにわざわざ「聖霊を受けなさい」と言う必要があったのでしょうか。弟子たちには聖霊を与える約束がされたはずです(ヨハネ14・26参照)。もっと言うなら、イエスが弟子たちに聖霊を与えるのを弟子たちに前置きする必要すらないはずです。

わたしはこう思います。ヨハネ福音書は聖霊の約束を受けて何十年もあとに書かれています。何度も思い巡らし、聖霊の約束は弟子たちに言われただけではなく、イエスを信じるすべての人に向けて言われたと理解したのではないでしょうか。復活したイエスは当時の使徒たちだけでなく、今このときにも、信じるすべての人の恐れを取り除き、平和と心の静けさを整えて、使命を授けるのです。

ある人たちには特別に罪のゆるし、ある人には平和のための活動、ある人には祈ることで神の国の完成のために働く。今も聖霊は注がれて、さまざまな人に、さまざまな使命を与えているのです。

聖霊の働きは、身近な人に向かいます。わたしたちが使命を果たすなら、出会う人はわたしたちを通して聖霊に触れます。生きている限り、この世界が続く限り、わたしたちは聖霊によって遣わされていくのです。

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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(ヨハネ3:16-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼メルマガが今週で888号となった。パチパチ。今週の福音朗読から、個人的には「聖霊を受けなさい」を彫り出したと思っている。25年目にして初めて、「聖霊を受けなさい」が弟子たちのためだけの言葉でなく、わたしたちのためでもあることを浮き彫りにできたからだ。
▼「このように彫刻してくれ」それが聞き取れるにはまだまだだと思うが、今週に限って言えば、「言いたいことを思い通りに話す」という説教を超えたと思う。わたしの中で「聖霊を受けなさい」が説教の軸になる予定ではなかったのだから。
▼教会で発行している「瀬戸山の風」これは編集委員がいて、広報委員長が全体を見渡しているわけだが、今月の記事は引っかかる記事があり、広報委員会にも小教区全体にも考えてもらおうと思っている。
▼記事を書く場合、「記名記事」「無記名記事」があるが、責任を持ってもらう必要のある記事は「記名記事」にすべきだと思う。問題を感じているのは「イニシャル」で書かれた記事だが、イニシャルは明らかにだれが書いたか分かる場合と責任逃れとみなされる場合とがある。
▼誰だか分からないイニシャルはいけない。内容の如何に関わらず、記事は最大限尊重する。しかし書いた人が責任を持てないならば、書くべきではない。掲載すべきではない。責任を持てるのであれば、記名記事でもよい。
▼だから、来月から、教会を訪ねた人の感想文以外は、原則記名記事で書いてもらおうと思う。どのように記名するかは広報委員に任せるが、無責任な記事は出来事をつづり記録を残すための小教区報をダメにしてしまう。

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今週の1枚
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第495回目。聖母行列の様子。いくつかの場面を組み合わせて。

ホームページもご覧ください。
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† 神に感謝 †
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