こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第30主日(マタイ22:34-40)掟にある最も重要な精神を示すイエス

2014-10-26 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/141026.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
14/10/26(No.734)
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年間第30主日
(マタイ22:34-40)
掟にある最も重要な精神を示すイエス
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年間第30主日の福音朗読として、「最も重要な掟」に関する律法の専門家とイエスとのやり取りが選ばれました。この箇所をわたしは、イエスが掟の精神について律法の専門家に答えていると理解しました。「掟にある最も重要な精神を示すイエス」について、学びたいと思います。

説教の前に、司教協議会からの通達に少し触れたいと思います。ミサの奉献文に「聖ヨセフ」の名を加える通達です。教皇庁典礼秘跡省は2013年5月1日(労働者聖ヨセフの記念日)付の教令で、ミサの奉献文の取り次ぎの祈りに、聖ヨセフの名を挿入することを発表しました。

これに伴い、日本語で唱えるための式文を日本の司教協議会は準備して、2014年6月23日付で教皇庁典礼秘跡省から認証を得ました。そして日本のすべての教会で、11月1日から正式に聖ヨセフの名を加えた形で奉献文を唱えるように、教令を発布しました。

実は一週間くらい前から、聖ヨセフの名を加えた形で奉献文を唱えています。祈祷書に載っている第二奉献文をよく見ながら奉献文に耳を傾けますと、「なお、わたしたちをあわれみ、神の母おとめマリアと聖ヨセフ、使徒とすべての時代の聖人とともに永遠のいのちにあずからせてください。」この部分が祈祷書と違っていることに気付くと思います。

わたしはこの聖ヨセフの名を奉献文に加える決定について、ずいぶん時間がかかったなぁという印象を持っています。イエス・キリストの養父である聖ヨセフが、毎日のミサの中で唱えられてこなかったというのは、もっと早くに対応して良かったのではないかなぁと思うのです。

けれども別の見方もあります。本年10月5日から2週間、バチカンでは「家庭についての臨時シノドス」が開催されていました。このタイミングで「聖家族」の柱であった聖ヨセフに光を当てたという見方もできます。家庭について全世界の代表者がバチカンに集まって討議しているので、神が奉献文に素敵な贈り物を用意してくださったのかもしれません。司祭は奉献文を唱えるとき、今まで以上に注意深く唱える必要が出てきましたが、いずれにしても画期的なことだと思いました。

福音に入りましょう。律法の専門家が、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(22・36)と尋ねました。律法は神がモーセを通してイスラエルの民に与えた掟で、生きる基準でした。「モーセを通して与えた」律法は、「イスラエルの民が、神の前にどのように生きるか」ということと切り離すことはできません。ところが律法の専門家は律法だけを抜き出して、その優劣をあれこれ議論していたのでした。

イエスはそこで、すべての律法が「民が神の前にどのように生きるか」を抜きにしては語れないことを思い起こさせるために、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(22・37)これが最も重要な第一の掟であると答えたのです。

それはすべての掟が、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神を愛することにぶら下がっているということです。どの掟も、掟が授けられた精神をたどっていくと、掟がぶら下がっているもの、すなわち心を尽くして神を愛することに行きつくのです。

掟が依って立つ精神を知れば、掟を通してますます神に心を開き、神に近づく生き方を望むようになります。すると神の思いにも触れることになります。神の思いは、隣人をないがしろにしない、隣人に背を向けない深い憐れみです。わたしたちは掟を通して神の思いに触れ、そこからしぜんと隣人を自分のように愛する人に造りかえられていくのです。

どのような思いで掟が授けられたのか。これが掟を守る上で大切なことです。掟を守るために掟があるのではないのです。掟を守ることで、神をますます愛する人になる。これが掟の精神です。

そして、人が掟を通して深く神を愛するようになれば、神が隣人を深く憐れむ方であることを知り、同じように隣人を自分のように愛するようになるでしょう。イエスは掟の精神、その最も重要な部分を示して、すべての掟に調和をもたらし、掟が神に向かうように完成されたのです。

わたしたちにも、旧約時代から受け継がれている掟があります。それは十戒です。十戒には神を心から愛し、隣人を自分のように愛する掟の精神がはっきり刻まれています。わたしたちが十戒を大切に守るなら、わたしたちはより神の望みに適った生き方に導かれますし、隣人を自分のように愛する人に育つのです。

ほかにも、教会の五つの掟があります。教会が求めているのは、これらの掟を通して、より深く神を愛する人になることです。なぜ日曜日にミサにあずかるのだろうか、なぜ少なくとも年に一度、告白し、御復活祭のころに聖体を受けるよう命じられているのだろうか。これらの掟に疑問が生じたときに、掟の精神にもう一度目を向けて欲しいのです。

掟を守ることで神を心から愛し、隣人を自分のように愛そうというのは、画期的な方法とは言えないかもしれません。とても地味で、どちらかと言えばやりたくない方法かもしれません。けれどもこの道は、心を尽くして神を愛するために確実に一歩進めるための道です。確実に一歩進むことは、いつになるか分からない二歩三歩よりも大切なことです。

昨日よりも今日、イエスが示してくれた掟の精神に近づく生活を積み重ねましょう。一歩進む、一点積み上げる、一塁先に進むことが本当に大切な場面はどこにでもあります。イエスが示された最も大切な掟を、すでに与えられている掟の中に認める力を、ミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
死者の日
(ヨハネ6:37-40)
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ちょっとひとやすみ
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▼浦上教会の壮年部の人たちが巡礼団を組んで浜串教会に訪ねて来てくれた。わたしもあちこち羽根の生えたように出て回るのでなかなか訪問者と出会うことができないが、今回は何度も確認の電話が入った訪問者だった。
▼ところが、確認の電話のことは玄関のチャイムが鳴って浦上の信徒が一人知らせに来てくれるまでまったく覚えていなかった。電話で打ち合わせをしていた時は「あー、25日に訪ねてくる、訪ねてくるから席を外さないように」と心の中で念じていたのだが、とうとう最後まで覚えていなかった。
▼それでも土曜日のいちばん忙しい時間帯だったので席をはずすこともなく、いかにも待ってましたと言わんばかりに応対した。十年以上会ってない人も中にはいたので、懐かしい顔に、この場所が浜串教会であることをしばし忘れて時間を過ごした。
▼このメルマガも、「ちょっとひとやすみ」も、浦上の巡礼者の中に利用している人がいてとてもうれしくなった。当然、今回の「ちょっとひとやすみ」は恥を忍んで書いているわけで、メルマガを読んでくれているお父さんたちは巡礼していた他のお父さんたちには訪問予定を忘れていたことは内緒にしていてほしい。
▼「浦上にもいつか戻ってきてください。」有難い話だが、責任のある立場で舞い戻るのはわたしには荷が重すぎる。当時一緒に働いていた助任の中では、わたしのすぐ上の先輩が浦上をまとめるのには適しているのではないだろうか。わたしはちょっと、遠慮させてもらいたい。
▼日曜日にはソフトボール大会がある。浦上の巡礼者たちはきっとソフトボール大会も見学に来るだろうから、張り切ってプレーしたい。いろんな司祭の部分を見せることで、信徒との距離が近くなればと願っている。

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今週の1枚
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第341回目。遅くなると思うが、上五島地区壮年会のソフトボール大会の模様。

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