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ヘーゲルの美学

2008年10月14日 00時47分10秒 | Weblog
 ヘーゲルの弁証法って、議論の展開がいまいちそらぞらしいというか、全知全能の著者が学知の立場から、「な、ちょこっとそれ自体だけみると、こうだろ、でも、も少し吟味すると、実はそれはそれ以外・それ以上の何かを”受胎”してるが、翻って、もう少し深く考察すると、その実態は、それらが調和して、それらを通底しているこいつなんだ、とかなんとか、言っちゃって、概念やら精神が自己規定・自己実現・自己具現化していく物語をまくし立てられて、なにかうまく誤魔化される。その”論理”とやらを子細に検討すると頭が痛くなるといった代物で、弁証法の”論理”を知って、当該、素朴な概念を見つめていれば誰でも自然に発展が見届けられるといった代物ではなく、むしろ次の段階を先取りしている(と思っており)、自分に都合のよい結論を知っている著者、学知からの(なにぶん姑息な)誘導によって導かれる自己実現、本当の自分探しの物語なんだ、と思う。
  
 とはいっても、美学の入門書の類を何冊か読んでみると、ヘーゲルの美学って、様々な理論を包括しているというか、暗示していて、案外おもしろい。

 「物語」は即自的な概念が外化して、自然となり、それが、主観的精神、そして、客観的精神である社会倫理を経て、絶対精神の位階に入ったところから始まる。

 精神はこの段階において自覚的に自己を了解しはじめる。

 精神が人間の感覚に映し出されたものが美である。

はじめは自然を通してその美を見いだす。美は自然を通じて輝いている。
もっとも精神は自由だが、個々の自然は他者から支配される点で自由ではない。とすれば、精神は自然以外に自己が自己を規定し、自己決定する自由な自己であるところの美を映すだす作品を創造して、自己実現するしかない。それが芸術である。

そこで、美=精神は自分が宿る最適な場所を芸術作品のうちに見いだす。

はじめは象徴的芸術である。バベルの塔は人々の「統合」を象徴し、よってもってその素材=建築物を通じて精神を暗示した。これは自然と神を区別しない認識からすると進歩である。ある部族はある自然物を神と拝めて自然と精神を区別なく混同したが、象徴は、作品と作品の象徴するものの区別はある。もっとも、おとぎ話などは、道徳律を暗示する場合もあるが、例えば、素材と精神、あるいは、登場動物や物語とそれが「暗示」する道徳律の精神の分離が大きすぎてと精神とのつながりがあやふやになる。区別はあるものの素材と精神の統合がない。

 そこで、精神は己をよりよく「表現」する芸術である古典的芸術が現れる。ギリシャの彫刻などが念頭におかれているらしい。精神の理想と素材・自然がよりよく統合・調和されている。
 ところが、ロマン派芸術になると、素材そのもと調和しているものの、より精神性が強くなり、精神が素材を凌駕し、そこからはみ出していき、精神そのもに向かい、そして、その精神そのものの葛藤が描写され、その調和、自由・独立を表現する。

 そこで、次の位階で、より具体的な芸術の物語が始まる。

 象徴的建築では先ほどのバベルの塔など、また、古典的建築ではギリシャの建築物、ロマン派建築では、ゴシック形式の教会などがあげられている。
もっとも、建築は古典様式に属するので、象徴「的」であるのは免れない。

建築は機械的な法則に支配されているのに対して彫刻は有機的で精神性を表現している、と言う。人間が題材になることが多いのは人間の身体が精神性を表現するのに適しているからだ、とされる。色などの質感より、形などの量的な側面が強調され、輪郭は精神の普遍性や実体に対応する、と言う。したがって、感情や動きなどの一時的・瞬間的なものは、彫刻にはあまり適しておらず、むしろ愛や正義や勇気などが具体的、静的、また普遍的に表現されるのに適している。

 感情やその葛藤などはむしろ絵画による表現に適しているとされ、また彫刻が表現する普遍性よりも個性の強調に適している、とされ、木材や石といった建築や彫刻で使われる「物」から大幅に解放され、精神性がより強調される。ロマン派の芸術に適していると言われる所以である。絵画は、自然を描いても同時に画家ののどかな気持、怒り、激しさ、憂鬱などを表現する、とする。

 音楽にいたると物の空間性からも解放され、情緒的な精神性が純粋に表現される、とする。均一な時間の流れからリズムの発生が発生し、沈黙とリズミックな音、そして沈黙という統一体が差異化しまた統一に帰還する過程に、自己を見いだす。

 詩は音楽とともに音やリズムを共有するが、しかし、詩において、音は言葉になり、精神そのものである概念・思想・思いを表現する。
 叙事詩は人間や国を普遍的・客観的な側面でとらえるが、ロマンチックな詩は作者の主観的な内面をとらえ、劇形式の詩はその両者を調和して、出来事を客観的に配列するとともに、登場人物の内面をするどく表現する、とする。(因みに、散文は「太陽」という詞で概念的抽象的にあらわすが、詩は「バラの手をした暁の女神」のように感覚的表象的イメージとして表現する、という。)その中でも悲劇は 部分的・片面的には正当性のある対立する道義同士のの葛藤が描写され、その葛藤の中、その道義を乱した個性が没落することによって道義的な原則が自己回復される、という。また、喜劇は、役者が演じる登場人物が目的の空しさ、あるいは目的は有益でも、それを実現するには器が小さすぎることを十分自覚しならがあえてそれをやってへまをしながらもまた立ち上がる姿を描写するところに面白みがある、とする。社会ドラマでは、悲劇と喜劇の調和がある、とされている。

 精神は芸術によって、感覚的対象のうちに具現するが、しかし、より自由を求めてその有限な感覚からも飛翔して宗教的世界にいくのが次の位階である。

 以上はStace による解釈によりまして、しかもヘーゲル研究者からは叱られてしまいそうな叙述でありますが・・・・
 そもそも、絶対精神の自己展開のような構図を維持することできませんし、屁理屈のように思える処も多いのですが、様々な洞察に満ちた思想家だなあ、改めて思いました。


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2 コメント

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Unknown (チロ)
2015-07-05 08:55:03
ヘーゲルの芸術美は人間(特別な才能を持つ)の精神を
繰り返し重ねた美であり、それは自然美をも超えるという
考えが面白くて好きです。この考えを知る以前は自然美
が最も美しいと思ってましたし、それが主流だとも思いますが、確かにイイと思う芸術は時に自然を上回る衝撃があるように感じます。主流をあえて斜めから観て全く正反対とも言える着眼点を見出すヘーゲルのいい意味での偏屈さが
好きです。私はただの偏屈ですけど。
Unknown (空)
2015-07-05 10:08:04
ありがとうございます。

ヘーゲルというのは、難解ですが、美学に限らず、ときどき振り返るべき思想家ですね。

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