イルカ漁、米で物議 和歌山舞台の映画、潜入・隠し撮り(朝日 2009年8月22)
しかし、なんだなああ、メディアも政府もいろいろ小さな徴候をもっと丹念にひろっておくべきだな。
そして、対処もちゃんと考えて、おくべきだだな。
【ニューヨーク=山中季広】和歌山県太地町でのイルカ漁を隠し撮りしたドキュメンタリー映画が今夏、米国内で上映され、物議をかもしている。見た人の多くは「イルカを殺す場面の残忍さに衝撃を受けた」との反応を見せ、主要紙もイルカ漁を批判する論調がほとんどだ。
題名は「ザ・コーブ」(入り江)。米動物愛護家リック・オバリー氏の手引きで、潜水や夜間撮影、難所登り、DNA解析などを得意とする約20人が5年間に計7度、太地町に潜入。地元漁師の「妨害」や警官の「尾行」をかわして、立ち入り禁止の浜でイルカが血をふきながら殺されていく場面を撮影するという筋書きだ。
映画は、日本では規定頭数内のイルカ捕獲が合法であることに触れてはいるが「太地町で捕獲されたイルカが世界各地のイルカショー水族館に輸出されている」などと「告発」している。
ルイ・サホイヤス監督(52)は朝日新聞の取材に、「太地町と交渉したが、撮影は許されなかった。許可なく潜入したのは事実で、次に訪日したら不法侵入や業務妨害で訴追されるかもしれない」と説明。映画には、オバリー氏が和歌山県警の聴取を受ける場面もある。監督は「イルカ漁の実態をほとんどの日本人は知らされていない。日本の人々に状況を伝えるには、他に方法がなかった」と話している。
米国では7月末に封切られた。観客の多くは「勇気ある調査報道」といった印象を持つようだ。ニューヨーク市内の映画館で息子(13)とともに見た母親(46)は「これはむごすぎる」。夫婦で見た60代の男性は「残虐な漁師たちが許せない」と話した。
米紙や映画誌には映画を絶賛する声ばかりが並ぶ。ニューヨーク・タイムズは「きわめて秀逸なドキュメンタリー作品。海がイルカの血で染まり、(鑑賞した人の)目は涙であふれる」と論評した
すでに上映中のカナダや豪州などに続いて、フランスなどでも公開される予定。
和歌山県太地町の三軒一高(さんげん・かずたか)町長は「そのような映画を撮影に来たことも知らないし、見てもいない。コメントできない」と話している。
■捕獲枠内なら合法
イルカ漁は国際捕鯨委員会(IWC)が禁止する商業捕鯨の対象外。日本では、水産庁が海洋資源調査に基づいて年間の捕獲枠を決めている。捕獲枠を配分された道県では枠内でのイルカ漁が認められている。
しかし、なんだなああ、メディアも政府もいろいろ小さな徴候をもっと丹念にひろっておくべきだな。
そして、対処もちゃんと考えて、おくべきだだな。
昔、テレビで欧米圏からきた自然写真家の方が、築地の魚市場に見学に来た様子を撮影したものを観ました。そこで写真家は大量に並ぶマグロを見て、やや批判的な口調で「まるでマグロの死体安置所のようだ…」と言います。面白いのはそれに対する築地のおっさんの言葉で、「おまえらなんてドッグフードのためにマグロをそのまんま粉砕機に放り込んでるじゃねえか!」とのこと。写真家は動揺したらしく、自身の度量の大きさを示そうとするような言葉を呟いていました。
善行を成す自己の姿に陶酔しがちな人々の取り扱いは厄介ですよね。
くじらの博物館がありましたね、中は人もいなくてガラガラでしたが。
その太地町は、捕鯨を理由にオーストラリアの姉妹都市から、提携解消をされたそうですね。
>しかし、なんだなああ、メディアも政府もいろいろ小さな徴候をもっと丹念にひろっておくべきだな。
> そして、対処もちゃんと考えて、おくべきだだな。
本当にそうですよね。
商業用映画を撮影するのにビザが要るのか知りませんが、商業用ビザで入ってたんでしょうかね。
捕鯨などの日本が一方的に攻撃されている問題については、外務省に「日本の対外イメージ対策室」みたいなのがあってもいいのに。各省庁にはもっと現実的に動いて欲しいと国民としては思います。
以前、Animal Planetで捕鯨を追っているドキュメンタリーを少し見ました。
確かに鯨、イルカ漁は一見残虐に見えます。すごい血、ですから。
一方で、スーパーで売っている鶏肉だって、時々、羽の根元がのこっていたりして、殺される所を想像すると、決して良い気分にならない。牛肉も、羊肉も、同じ。
生き物の命を頂戴して、生かしていただくというのはそういうことなんだなぁ、と思います。だから感謝の気持ちが大切になる。日本各地にある鯨墓なんて、その象徴ではないかと。
残虐に扱いたくて扱っているのではない、だから余計に、もう少し残虐に見えにくい漁の方法を見つけて、行なって欲しいと思います。そのほうが今の時代、スマートだと思います。
イルカの輸出については、法律がどう定められているのかわかりませんが、違法ならもちろん、問題でしょうね。
オーストラリアでもイルカは食されているそうです。
http://www.business-i.jp/news/flash-page/news/200907180122a.nwc
(以下抜粋)
調査捕鯨に強く反対するオーストラリアでは、同じほ乳類のイルカを食べる。しかも「どれだけ捕獲されているのかを政府は把握していないほどだ」と関係者は明かします。しかし、こと捕鯨になると、厳しい態度で臨んでくるといいます。
コメントありがとうございます。
豚でも牛でも鶏でもあるいはイルカでも血を流した殺害シーンというのは残酷なもので、自分たちの生存の必要性を超えて、単純に舌を喜ばすために、そうした殺害をするのは悪である、という菜食主義者の議論は説得力があります。
ですから、イルカにかぎらず、こうしたことを映像でうったえた、というなら、ぼくは、わりに同情したかもしれない。
ところが、イルカにせよ、捕鯨にせよ、それを保護しようとする運動の大半が、単純に異食文化、異文化、他者に対する攻撃になってしまっている。 仮に自分が菜食主義者であっても、その部分は批判せざる得ない、と考えています。
人類は本来は草食であると主張する人々もいるようですが、人類がここまで生息範囲を拡大し維持できたのは、おそらく人類が雑食で、その土地で手に入るものを積極的に食べ、食習慣をうまく適応させてきたからでしょう。アラスカのイヌイットはアザラシの生肉を食べるそうですが、これは日照量が少ない環境でビタミンDを補給するために必要だそうです。また、多様な食習慣を維持することは、急激な環境変化や疫病によって特定の動植物が激減するような状況を想定すると、重要なことのように思います。
食に関して人類全体に共有されるべきことは、特別な「食の戒律」ではなく、「食の多様性を尊重する態度」ではないでしょうか。同じ森で暮らす似たような種類の猿の仲間でも、草食や果実食、昆虫食など、より具体的な生活環境(地上付近か樹上の高所かなど)によって多様な食習慣を示すそうです。
核戦争がすぐにでも起こりそうだと考えている方々は、ゴキブリを食べることに今のうちに慣れておいたほうが良いかもしれません。
http://www.technobahn.com/news/200710211629
シンガーとかノチックの本からだった、と思います。
倫理的な、特に功利主義的な観点からすると、いかに人類が肉食に至って生息範囲が拡大したか、はあまり問題ではなく、おおざっぱに言えば、不必要な苦しみを増大することは悪いことだ、動物は飼育されているとき、また、殺されるとき苦しむ、従って、動物を不必要に殺すこと、つまり、味を楽しむだけに殺すことは悪だ、といった議論だった、と思います。
例えば、死んでも、誰も悲しむ者のいない知恵遅れの子供を誰かを生かすためでもなく、快楽のために殺して良いか、といえば、いけない、ならば、それが動物であっても同じだろう、と言った例が挙げられていたように思います。
倫理的に保護される対象として、知能、とか、自己意識への可能性の点で、境界線を引く、議論もありますが、なかなか説得的とまでいかない。
個人的には若いときの一時期、菜食主義もどきを何年間かしていたことがありますが、つきあいとか、なんとかで有耶無耶にしてしまっています。
そんなわけで、ぼくは菜食主義者の議論にはーーーなんというかーーー引け目を感じるというか・・・・なんとなくはっきりした態度をとれないでいます。
なお、Keiさんへのコメントは、
http://blog.goo.ne.jp/kentanakachan/e/29b93e63aadbb13d1f3e02804b784970
などのコメント欄での議論などが念頭にありました。
また、
http://blog.goo.ne.jp/kentanakachan/e/c66f5ffea1a86bcb010490d58d120cd9
http://blog.goo.ne.jp/kentanakachan/e/90da498c8a3bbcadb04295a75118cfd9
http://blog.goo.ne.jp/kentanakachan/e/41c030e7b78670e90f46c5ad72a3c3bf
http://blog.goo.ne.jp/kentanakachan/e/480ba65d44b26aeb3b199872b2fc9bde
http://blog.goo.ne.jp/kentanakachan/e/29b93e63aadbb13d1f3e02804b784970
http://blog.goo.ne.jp/kentanakachan/e/2a285760756902bec1fbdca5cdabd4cc
それ以外にも「捕鯨」でブログ検索していただくと、そのほかの投稿があります。
また、現実的に肉食に頼らなければ生きていけないような環境で暮らしている人達が、菜食主義者から倫理的に劣るとか野蛮であると見なされてしまうのは問題でしょう。仮に彼らが明示的にそのような態度を取らなかったとしても、倫理的な優越性というものが存在する限り、心の内では軽蔑するという事態になってしまいかねません。
いくらかの人々は現代的な菜食主義を欺瞞だと感じているようです。
菜食主義者たちはそれぞれ、様々な理由でそうなったのでしょうが、私の個人的な印象では、彼ら(特に先進国の都市部の人間)には自然回帰の志向があるように思います。しかし彼ら(特に高緯度の土地で暮らす人々)は、現代的な流通システムやハウス栽培などの現代農法といった、自然に反する極度に人工的なものなしに安心して菜食主義者でいられるのでしょうか。こういった事をあげて批判するのは的外れだとは思いますが、自身がどういう立場にいるのかよく検討もせず、菜食主義を実践することで自己満足に浸っているだけだとしたら、それは世界中から珍味を取り寄せて満足している美食家と同様に歪な存在であるようにも感じられます。
最後に「多様な食習慣」の重要性について。
極端な例をあげると、通説ではコアラはユーカリの葉しか食べず、ほかのものには見向きもしないとされますが、もしそうであれば、ユーカリが絶滅したらコアラも道連れになるという事になります。もし彼らがユーカリ以外の何かを食べるという選択肢を用意していれば、彼らはユーカリ絶滅という危機を乗り越えることができるでしょう。この例をみると、食の多様化をある程度推し進めることが種としての生存確率を上げていくことに繋がると言えます。
こういった生物学的な観点から見た場合、何らかの倫理上の理由によって食に制限を加えていくといったことは本当に正しい選択なんでしょうか?
菜食主義の当否については、難しい問題ですが、形式的に、というか、メタ倫理的にというか、便宜上3つのケースが考えられると思います。
(1)
一つは、菜食主義の主張が反人種差別のような主張と考えられる場合。つまり、菜食主義・反人種差別の主張とそれに対する反論の二つがあって、どちらか一つが正しい、と考えらる場合。
この場合は、現在は人種差別が存在するけれど、やはり、それは間違っているの同様、現状では、肉食の人がいるが、それは間違っている、ということになります。
(2)
二つ目は、逆に、菜食主義の主張が間違っている場合。
(3)
もう一つは、菜食主義の主張が、反ー中絶の主張のような場合。つまり、菜食主義・反中絶の主張が一定の妥当性ももちながらも、肉食・中絶の主張も一定の妥当性をもち、両者ともに”正しい”と考える場合。
もっとも、、倫理学上の絶対主義者・反相対主義者は、この立場はとりません。
Relativism
http://blog.goo.ne.jp/kentanakachan/e/83996b8757c35850628ef46e6acf82a7
moral relativity
http://blog.goo.ne.jp/kentanakachan/e/b616f99161d74d9ef835bbf70af41ad5
参照
いずれの場合でも、例えば、菜食主義・反人種差別的な人が倫理的な優越性を感じるか、感じないか、また、それを動機として先鋭化するか、しないか、それを欺瞞と感じるひとがいるか、いないか、はここでは別問題になると思います。
(4)
また、仮に、ある地域の人間や現在のすべての人間にとって、生存上、ある程度の肉食が必要であり、人間の生存の為に、他の動物を殺すことは妥当だ、と仮定しても、、現状の肉食の規模・方法が妥当かどうかの問題は残る、と思います。
この認識のもと、現状の肉食の規模は妥当でない、という立場は、、(1)の派生として、考えられます。
(議論としては、おおざっぱに、確かに、動物殺しは間違い(原則ーー(1))、しかし、人間の生存にとってある程度必要(例外)そして、現状の動物殺害は、人間の生存にとって必要な程度を越える。そこで、殺害の規模を縮小し、殺害方法を改善すべき、といった感じになるではないでしょうか?)
菜食主義者の主張を全面的に切り崩せない限り、(3)ないし、(4)という帰結になるように思います。
ぼくは、菜食主義の議論を精査しないで、有耶無耶にしてしまっていますが、直感的には、将来的には4)の方向にいくのかな、という”感じ”もします。
私が議論の本来の目的、背景および前提などを明白に述べず、本質的ではない部分に深く踏み込んでしまったせいでしょうか。
私は「菜食主義の当否」そのものについて議論したいのではなく、むしろ空さんが「ここでは別問題」として退けていらっしゃる事柄について話したいのです。
誤解があるようですが、私は菜食主義を否定したいわけではありません。私はそういう人たちがいても気にしません。そして私は牛肉などの大量消費には問題があり、肉は高級品であるべきだと考えています。また、餓えた人間がたくさんいる中で、家畜を速やかに太らせるために大量の穀物を飼料として用いるという状況には問題があると思いますが、牧草や藁・籾殻など、人間が食料としてうまく利用できないものを主とする飼料を与え、のんびりと畜産業を営む程度のことは積極的に維持すべきだと考えています。私の考えはあくまで人類の利益というものに基づいていますが、結局のところ、空さんと私は表面上は似たような結論に至るという事になるのではないでしょうか。
議論の最終的な目的についてですが、これはイルカ漁などの鯨類の捕食(捕鯨)について抗議する人たちと接する際の姿勢や態度、またどのような論理で反論あるいは説得すべきかということに関するものです。
議論の背景や前提(仮定)としては、
1.積極的に反捕鯨を唱える人々の多くは英語圏の人間で、報道機関や世界的な有名人などを利用して国際世論に大きな影響を与えることができる。
2.過激な反捕鯨団体はその多くが動物愛護団体でもあり、またそこでは菜食主義者の占める割合も高い。
3.彼らは倫理的な優越性を支えに先鋭化することがあり、また人々を扇動する道具としてそれを利用しているという疑いがある。
といったことがあります。
議論の目的のひとつである、捕鯨を擁護する立場をとる際の姿勢や態度としては、まず自身が極めて不利な状況にある事を自覚すべきであり、そんな中でもし相手が菜食主義者であるからといって引け目を感じるようであれば、いくら不当な仕打ちを受けようとも屈服するしかないと思います。
また、捕鯨に関する議論を冷静で理性的な方向に持っていくつもりであれば、人々が感情的になったり、先鋭化したりするのを防がなければなりません。それを達成するには、様々な観点から物事を見た上で熟考するように誘導するという手法が有効なように思います。さらに、比較的穏健な菜食主義者や反捕鯨派から理解を得るための論理としては、「食の多様性」という概念の重要性を論拠に据えるのが良いのではないかという主張です。前述のコアラの話を、拡張された生存権の問題として捉えたらどういう事になるでしょうか。
→
なるほど。
この点に関して、shirさんのご意見に賛成です。
反論していく際に、ぼくも
ある程度、菜食主義者の主張は認める、ことは重要だと思います。
実際、ペットの虐待やペットでなくても、野良猫野良犬の虐待なども社会的に非難されるようになってきていることを考えれば、こうした動物愛護の傾向はつよまるのではないか、とも思います。
その上で、ぼくの場合は、
(1)鯨とそれ以外の動物に関する活動、および報道に関してダブルスタンーダードがあること、などを指摘する。
(2)科学的知見に基づいた議論、同一基準に基づいた議論には従う用意があること、
を示していけばいいのかな、と考えております。
ぼくは、菜食主義者というよりも、その外野の連中の雑音の方がうるさく感じる。そして、その外野の連中の文化差別的な態度が嫌なのです。
で、こうしたことを示していけば、日々、牛肉や鶏肉や魚などを食べている、外野の連中も、自分の問題として、考え始める。そこまでいければ、冷静な議論になっていくかな、と思っております。
「食の多様性」という概念を議論に取り込んでいくことに関してはーーー自分の印象ですがーーーもう少し、議論を詰めた方がいいかな、とも感じます。
ご議論の骨組みとすれば、菜食主義者の主張も取り入れながら、勝手に解釈させていただくと、
(1)食の多様性の確保は人間の絶滅回避に有用である。
(2)痛みを伴わないやり方(a)で、人類絶滅回避に必要な程度(b)の、X種の動物の殺害は許される、
となりましょうか?
仮にそうだとして、また、a,bを科学的知見に基づいて特定したとして、絶滅の可能性が増加したときに、殺害すればいいのであって、現在、その必要性がない、という反論もありえる、と勝手に思っているのですが、如何でしょうか?勝手な解釈ですけど・・・