人種強調的コメディーで、日本人に置き換えた場合のよい例をJapan Probeのコメント欄で見つけた。
Chinpokomon - 310 - South Park Zone
Thirty Minutes Over Tokyo・The Simpsons'
あらすじThe Simpsons'
まあ、矢島美容室が偏見助長的というなら、これらも偏見助長的に違いない。
以下のことだけ確認しておこう。
○アメリカに類似の偏見助長ものがあったからといって、日本でもそれが許容されるとは限らない。
○アメリカでも日本でもこの種のギャグを楽しむひとはいる。
Japan forum
Japan Today forum魚拓(因みにJapanTodayフォーラムって英語版2ちゃんねるか?)
South Park /Japanese in episode
○日本人偏見を助長するのは許容的、外国人・黒人などの偏見助長するのは禁止、という人もいる。その逆に、外国人・黒人などの偏見助長は許容的だが、日本人の偏見を助長するのは禁止、という人もいる。しかし、両方正しくはない。
もし、人権活動の名の下に一方は許容、他方は禁止という人がいたら、それは、、頭がおかしい。
Chinpokomon - 310 - South Park Zone
Thirty Minutes Over Tokyo・The Simpsons'
あらすじThe Simpsons'
まあ、矢島美容室が偏見助長的というなら、これらも偏見助長的に違いない。
以下のことだけ確認しておこう。
○アメリカに類似の偏見助長ものがあったからといって、日本でもそれが許容されるとは限らない。
○アメリカでも日本でもこの種のギャグを楽しむひとはいる。
Japan forum
Japan Today forum魚拓(因みにJapanTodayフォーラムって英語版2ちゃんねるか?)
South Park /Japanese in episode
○日本人偏見を助長するのは許容的、外国人・黒人などの偏見助長するのは禁止、という人もいる。その逆に、外国人・黒人などの偏見助長は許容的だが、日本人の偏見を助長するのは禁止、という人もいる。しかし、両方正しくはない。
もし、人権活動の名の下に一方は許容、他方は禁止という人がいたら、それは、、頭がおかしい。
自分ではない”誰か”の物まねをして、あるいは、自分ではない”誰か”のストーリーを作って、笑いをとるという行為は、「”誰か”を笑い物にする」ことです。それは”誰か”が集団だろうが個人だろうが関係ありません。またデフォルメされていようがそっくりであろうが事実であろうが関係ありません。
”誰か”がこの世に存在しない想像の人(生物・物)であれば、私は大笑いするでしょうし、笑いをとった人の創造力、表現力、演技力を称えるでしょう。たとえば、落語や漫才といった寄席は、この世にいそうな誰か、この世にいなさそうな誰かを演じて笑いをとります。そこにはネガティブな空気がないので楽しめます。
しかし現実に存在する”誰か”を万人に分かる形で暗示している場合、笑い物にされた”誰か”が不快に感じる可能性が非常に高いです。だいたい、誰かを犠牲にして、冷笑・嘲笑するならともかく、明朗に笑うということに矛盾を感じる観衆は私だけではないでしょう。”誰か”が不快に感じないとすれば、それは、笑いをとろうとする者が、その笑い物にされる”誰か”を明らかにリスペクトしているか情を示しているか、あるいは、その”誰か”が許可している(信頼関係がある)というケースに限られるのではないでしょうか。啓蒙目的の場合もあるかもしれませんが、自分でない”誰か”を笑い物にして、その”誰か”に問題点を気づかせ改心させるというのはかなり高難度ですし、やはりそこに情や思いを含ませる必要があると思います。
このようなことをやる実力がないなら、自虐ネタでもしてくださいと言いたいです。
(私はブラックジョークを笑えない人なので、堅苦しい意見となり失礼しました。)
笑いについて何冊か本を紹介し、また、認知構造について、考察したこともありました。
http://blog.goo.ne.jp/kentanakachan/e/5c0b11aaa78eea3ca2c83782926c476a
笑いのネタにはいろいろありますが、笑いの古典的な理論でいうと、やはり、笑いというのは何かを馬鹿にする要素がある。
で、「いじり」という技術なんかテレビでいえば、萩本欽一さんとかさんまさんとかが素人相手にやっている。こうした「いじり」という技術をいじめ、だとする人もいます。逆に「いじられる」のが好きだ、という人もいる。微妙な技術で、相手の反応をよくみてやらないと、いじめに転落してしまう。実際さんまさんなんか、若い女性歌手なんか泣かしていることもありましたね。
個人的にいうと、例えば、ぼくは、日本人訛りの英語ネタというのは好きなのです。そこに自分をみてその自分を笑っているのです。もっとも、これは実際には英語で話す機会がほとんどなく、日本にいるからかもしれない。英語圏に住んでいる方で、必至にその社会にとけ込もうとしている方の中には立腹する人もいるでしょう。これも非常に微妙なところで、雰囲気というか、プレゼンテーションの仕方にもよる。演じ方によってはぼくも不愉快になることもあるかもしれない。
だから非常に微妙だと、思うのです。
今回のケースでは、あえて特定の人種の扮装をして馬鹿をやっている。
例えば、関西のネタで、昔、三枝なんかが東京弁をまねると、関西の観客のひとは大笑いしていた。どうもよくわからない笑いでしたが、多分に関西の人の東京弁に対する何かがあるのでしょうが、まあ、特に立腹するほどでもない。東京人で立腹する人はいない、と思います。それはやはり、まあ、なんていうかやはり余裕でしょう。
よく言われるのは、すました紳士が転ぶと笑うが、弱そうなお婆さんがころんでも笑いが起きない。前者だと価値の逆転が笑いになるのですが、後者にはない。
アメリカで黒人ネタがタブーになるのはやはりそうした社会関係を反映している。弱者である黒人は笑いのネタにならないか、「優越感」の笑いになってしまう。優越感の笑いになるとこれは人種差別になってしまう。
そして、弱者に立たされる方はネタから距離をとって笑える立場になりにくいのは理解できます。
で、日本の場合はというと、日本人と黒人の間にそうした社会的な強弱関係の歴史や文脈は・・・まあ、いまのところない、だろうと思います。
そこで、やはり多少事情が違ってくる。
とんねるずの場合、あれは東北弁訛りの女性三人に扮してもよかったギャグでしょう。だから、黒人じゃなぜいけないのか、となると難しいところで・・・
ご承知のように、ぼくは、Emobileの猿問題についてもちび黒サンボに関しても、肯定派なのです。あれは英米人らが自分らの偏見を読み込み過ぎていると感じたからです。
で、今回のケースもそういった側面はある。今回これに反対する英米人もそうした偏見を読み込んでいるひといる。また、そうした偏見をうまく表現していないとして、笑いの質が低いと言っている人さえいる。
で、なぜ、自分が否定に傾いたかというと、・・・・・たぶん、
1)輸入された黒人の方に関するネガティブなイメージが定着していないとはいえ、皆無とはいえない。
これは東北弁東北娘の場合とはちと違う。
なにが違うかとうと東北娘の場合の笑いは単なる意外性の笑いでしょう。つまり、素朴そうなイメージがある娘がテレビ盗んだり、拳銃うったりするといったギャップ。
2)Eモバイルの猿から黒人を連想する日本人は皆無でしょうし、またちび黒サンボにネガティブな思いの空想する日本人もいないでしょうけど、矢島美容室の場合、お笑いであるが故に、あからさまに愚かなことをしている。
もっとも、これだ、それじゃボビーが愚行して、お笑いとってはいけないのか、というと私はそう思わない。この場合、愚行はボビー個人に着せられる可能性が高いですが、矢島美容室の場合、あえて黒人に扮しているため、黒人女性に帰せられる可能性が低くない。
まあ、そんな感じでしょうか。
ちょっと考えがごちゃごちゃしていますね。書きながら考えを整理しているのですが、いろんな意見や反論などがあれば、賛否どちらに傾くにせよ、もう少し思考がクリアになっていくとおもうのですが・・・
より多くの方々の意見があれば幸いです。
また、ご意見などありましたらお願いします。
(South Park などはあからさまな偏見助長でしょう。これ、いつ作成されたかわかりませんけど、もしかして日米貿易摩擦が話題になっていたときでしょうかね。あのころ映画やなんかでも”白人的危機感”とでもいうべき日本人を滑稽に描写するのがあったような気がします。
シムプソンさんはどうでしょうかね。)
ご存じかも知れませんが、Telegraphの東京特派員コリン・ジョイス氏の「「ニッポン社会」入門」(2006年)という本があります(立ち読みしただけですが日本に好意的)。このなかで日本に関するジョークを紹介し、日本人がそれをいじめと見なすのは心外であり、英国人にとってからかい(wind-up)は生活の一部であると述べています。彼のジョーク程度であれば、本当の理由を後から説明するという条件つきで、私としては許容範囲です(状況によっては不可かも)。ただ、第三者を笑い物にしなくても、ジョークは作れると思う。(例:日本のことを知らない友人に「日本ではどうして多くの人がマスクをしているの?」と聞かれて、「日本では医者と看護師は家に着くまでマスクをしなきゃならないから」と答えた。「プラットフォームににぎやかな音楽が何度も流されるのはなぜ?」と聞かれて、「利用客を元気づけるため。飛び込みされたら困る」と答えた。)
イーモバイルのCMやちび黒サンボに関しては空さんに同感です。ただ、イーモバイルの方は「偏見の読み込みすぎ」だけでないと思います。彼らの一部は、自分の育った社会に存在する悪(サルを黒人に投影する行為)は日本にも存在すると決めつけると同時に、自分の育った社会に存在する善(歴史的教訓から、サルを黒人に投影するという悪をタブー視すること)は、そのタブーの前提となる悪が日本にはないのに、自分の育った社会の善は無条件に日本も採用するのが当然だと思い込んでいるように見えます。自分の育った社会以外のことを知らないせいなのか、えこひいきなのせいなのか・・・。
ところで、前述の著者は、日本に関する奇妙な記事が書かれる背景も説明していて、責任の一端は自分にもあり、自分の記事の中には抹消したいものもあるそうです。一方で、奇妙な記事を日本の読者も海外の読者も喜んで読むから、そういう記事を書くことに何ら躊躇はしないそうです。で、その背景はというと、
・英国人読者は日本について知らないから、新聞記事の内容が間違っているかどうか判断できない。
・総じて読者は日本に関心がないから(1980年代を除く)、日本記事に割かれる紙面は小さくなり、限られたことしか書けない。しかも劇的な政権交代、戦争、暴動などの事件がないので、三面記事的なもので読者の関心をひくしかない。デスクが好むのは、第二次世界大戦、相撲、やくざ、芸者、皇室、女性、若者文化、憲法9条、奇妙な事件。
・日本の重要性が低いため、自分は特派員として採用される際、履歴書と数本の記事を送っただけ。外信の編集主任との面接はなし。
・東京特派員には原稿をそのまま掲載するよう主張する力はない。自分が丁寧に書いた記事は、編集段階で修正を加えられて、気恥ずかしい記事に変えられる。記事を掲載することと交換条件で、記事のキワモノ的な部分の補足を求められ、結局、それが「差し替え」として使われる。それでも最終段落だけは真面目な結論が書かれていたりするが、それはデスクが、読者が最後まで読まないことを分かっているからで、「君の分析のいくつかは採用したから」というデスクのパフォーマンスでもある。
結局のところ、商業主義に浸ったジャーナリズムの世界では、需要と供給の関係上、職業倫理を放棄することは止むを得ないということでしょうか。一番の原因は日本(の地位低下)だと責任転嫁されている気がしなくもないです。日本人読者も喜んでいるっていうのは、その類の日本人としか交流がなかったということでしょうか。
笑いのネタは難しいですね。
いろんな側面があって、外見に関する笑いでも、それを馬鹿にした、という要素がありますが、しかし、真面目に受け取る必要もないんだ、という要素もある。
関係の本を読んでいたとき、出身の女性が恋人の男性に問題について熱心に話していた。熱心なのはいいけど、あまりにも熱心過ぎて恋人は、逆にウンザリしてきたのですが、そこで、「ぶ、ぶ、の大爆笑」と「ドリフターズの歌を真似てて歌った。出身の女性はそのタイミングというか、歌い方に優しさもあったのでしょうけど、思わずおかしくなった。で、問題についてあまりにも深刻すぎた自分から距離がおけるようになった、というような話を読んだことがありますけど、滑稽さを演じられることによって距離をもてることもあれば、滑稽さを笑えるという状態は滑稽さから距離をもった状態、余裕のある状態を示す場合もある。
お笑い芸人さんなんか悲惨な貧乏を笑いにしますよね。貧乏で笑われる、という笑いは貧乏である、という認識の中に深刻さがありますが、、貧乏で笑わせる、貧乏を笑い飛ばしてしまう、という場合には、貧乏である、という認識のなかに、貧乏である、という認識のなかに、貧乏ってたいしたことじゃないんだ、もっと軽く受けてとめていいんだ、という何か、こう、ある固定観念・ある価値観の呪縛からの打破、という側面もある。
非常に複雑ですね。
ミンストレルショーについて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC#.E3.82.AD.E3.83.A3.E3.83.A9.E3.82.AF.E3.82.BF.E3.83.BC
http://www.chirimotsumoreba.net/?p=376
読むと、
結局
1)あるグループ分けの存在。
2)そのグループに対する固定観念の存在
3)その固定観念に対する否定的な意味の付随
4)その否定的固定観念を強調・利用した描写
といったようなことが問題になるのかな、と思います。
1)は例えば、黒人白人。外人日本人、といったものですが、そうした区別というのはかなり恣意的なもので、日本人なら同じ外人白人とするところをアメリカ人はカソリック系アイリッシュ系云々などに細分する。
2)例えば、アイリッシュはノンベで短気、といった固定観念が存在した、ないし存在するようです。
3)もっとも例えば、黒が悪い、ということを意味しない場合もあれば、歯並びの悪さがそれほど否定的に評価されない場合もある、
1)2)3)を前提に4)の場合に、問題が起きうるのかな、と。ただ、やはり、ケースバイケースでしょうね。
黒人さんのなかにはラップミュージックなんかも偏見助長的・補強的である、と主張する人もいるようで、
http://jp.youtube.com/watch?v=1kc4EwD5hoA
これなんかなかなか理解しずらい。
まあ、思考を刺激する、という意味では面白い問題ですね。
「「ニッポン社会」入門」(2006年)
という本は知りませんでした。
、テレグラフと言えば、日本人が犬の餌を食べている、と報道してやつですよね。
実態をうかがって、さもありなん、という感じがしないでもないですね。
発信者に抗議するとともに、日本人のなかでもこうした問題があるんだ、という意識を高めていくことも重要かな、と思います。
貴重な情報提供ありがとうございます。