かごめかごめの真実とは

空海様が私に教えてくれた秘密の暗号

東大寺大仏殿と藤原不比等の墓とイエス・キリストの墓の位置関係は見事です!

2020-01-10 03:05:19 | 邪馬壹国

2020年1月10日(金)

 東大寺大仏殿正面にある梵字の『阿』を見られた方は如何程だろうか。

イエス・キリストの墓から東大寺大仏殿までの距離と八十八番大窪寺までの距離は112~113㎞とほぼ同距離で、直角二等辺三角形を描きます。

東大寺大仏殿と藤原不比等の墓と一番霊山寺は直角三角形を描きます。

高野山とイエス・キリストの墓と藤原不比等の墓と一番霊山寺と八十八番大窪寺には綺麗な位置関係が見て取れます。

東大寺大仏殿には行基さんに案内されましたねぇ。

役行者堂とイエス・キリストの墓と比叡山延暦寺根本中堂は、一辺が103㎞の正三角形を描きます。

そして・・、比叡山延暦寺根本中堂と高野山金剛峰寺金堂とイエスの公的陵墓は98~99㎞の正三角形。

役行者は全て知っていました。そして修験道の「心」を受け継いだ 行基 最澄 空海も全て知っていました

天台宗系の修験道総本山と言われる御庵室 五流尊瀧院(ごあんしつ ごりゅうそんりゅういん)の三重塔と、

真言宗系の修験道総本山と言われる醍醐寺の五重塔とは、イエス・キリストの墓から共に凡そ103㎞で、イエスの公的陵墓から共に95㎞と同距離です。

これは、確実に計画された上での建築配置です。

 

比叡山延暦寺根本中堂の位置と、建築配置とその造りは、東大寺大仏殿が造営されたその意図と願いを受け継いだものである

 

比叡山延暦寺根本中堂と高野山金剛峯寺金堂の建設は、イエス・キリストを祀る一大プロジェクトとして行われていることが分かります

東大寺大仏殿再建の材木は、どうして周防から運ばれたか 

・・ 円仁重源日蓮も、東大寺大仏殿と「空海様の墓の秘密」も全て知っていました。

中国、西安にも空海様に呼ばれましたねぇ。

 


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いよいよ、とうりゃんせ・・の第七ステージへ

2019-10-04 06:36:23 | かごめかごめの真実とは

2019年10月4日(金)

山梨県南都留郡道志村4150の「椿荘オートキャンプ場」を千葉県成田市から訪れていた七歳の小倉美咲ちゃんが行方不明になっている

私にはいつもいつも、台風や自然災害も含めて事件事故も、その土地の歴史と意味とを解くように迫る。

今回も、どうも同じに思えて仕方がない。

まず、美咲って・・、マリア様の墓がある美咲町

椿は・・卑弥呼を意味する。

南都留郡は・・イエス=鶴で、南小田にあるイエス・キリストの墓

道志村は・・まさにイエスと共に平和希求した同志の人達が眠る村。

4150・・「良子」・・「良い郷」と。

千葉県は・・先般の台風15号の日蓮の声

行方不明現場の歴史を調べると・・道志みち

神島から行方不明現場までとイエス・キリストの墓までの距離は同距離にあります。

んん~~ん、続きを書いても書いても消されてしまいます。 じゃましている何者がいてますねぇ。


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台風15号は日蓮さんが何か言って居られますかねぇ

2019-09-18 03:28:40 | かごめかごめの真実とは

2019年9月18日(水)

昨年の大豪雨や、今回の千葉県を襲った台風15号など天災がもたらす被害は甚大である。

そしてそれは年々私たちの目の前に尋常ならぬ様相を見せつける

天界は私たち人間に悔い改めるべく警告を発している気がしてなりません。

天災は、人間の過去と未来との接点の今に注意を喚起しているようです。

今を生きる私たちにイエローカードを出しているようです。

天災も突き詰めれば人災なのでしょう。

是正しなければ、次はレッドカードですよ!ってね。

・・

千葉県には重要な聖なる霊的ポイントがありますが、人々の意識はそれを見ようともしませんしねぇ。

科学一辺倒の現代社会にあっては、もうブレーキが無い新幹線みたいなものなのかもしれません。

・・

先日私は山梨県の身延山へと導かれたようです。

身延山の奥の院へと行って、どちらの方向に手を合わせ祈るかを確かめさせられたようです。

祖師堂では、コンパスグラスで人は347度に手を合わせるように建築されていました。堂は167度を向いて建っていました。

  

・・

千葉県には、日蓮上人の誕生寺があります。

それで私は、国土地理院地図で、「日蓮生誕地」と入力して検索をすると・・、日本列島に一つだけブルーの旗が立ちました。

そこは、長野県麻績村日というポイントで、身延山奥の院から350度方向で3度違いの場所です。

んん~~ん、何なのでしょう?? 誰かのいたづらなのでしょうか?

国交省は知っている??

でも・・、本当の生誕地に手を合わすように祖師堂は建築されているとしか思えてならない私ですがねぇ・・??

日蓮さんが何か言って居られますかねぇ。

 

台風影響 千葉県内 けが118人に (17日午前11時)

 



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空海様と身延山

2019-09-10 06:06:06 | かごめかごめの真実とは

2019年9月10日(火)

先日の山梨への旅の最後は、身延山でした。

身延山に日蓮が道場を開き眠りについたのも、空海様の墓を意識してのことと私には思えます。

霊峰千ヶ峰から空海様の墓までと、身延山までの距離は、凡そ320㎞と同距離にあり二等辺三角形を描きます。

千ヶ峰の秘密と、空海様の墓の秘密も、全て日蓮も知っていたと言うことです。

 

 

 


                                                                                                              


 

 

 

           


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ポツンと一軒家から重要なメッセージ! 空海様の墓は山口県の望海山である!!

2019-08-20 06:06:06 | かごめかごめの真実とは

2019年8月20日(火)

18日(日)の夕方の番組で「ポツンと一軒家」を見ていて、「これはメッセージだ!」とすぐさまその地をメモしました。

そしてそこから教えられたことは、山岳宗教の山、修験道の山として千二百数十年前に開かれ、現在は法華経の聖地として、人々を惹き付けてやまない霊山・七面山の存在でした。

私は今まで一切、七面山のことは知りませんでしたから、ネット情報を得て地理院地図にポイントを印しました。

そしてその意味が解るのにさほど時間はかかりませんでした。

「思い出せ、思い出せ!」と、不思議な物語の始めからの出来事を思い返していました。

不思議な話は、遠い昔に夢見した情景が忘れられずに、たどり着いた場所が兵庫県の中央部に位置する、「千ヶ峰」の南に位置する「神光寺」でした。

かごめかごめの唄の幕開けは、千ヶ峰でした。

その千ヶ峰の山頂に「南無妙法蓮華経」の石碑があって、誰もいない山頂で一人その石碑に腰掛けて、長く山々を見つめていたことも思い出しました。

書くことは沢山ありすぎて・・、ありすぎて・・、ですので、ここでは結論です! 

千ヶ峰山頂から空海様のお墓である山口県にある真魚の山(望海山)まで319㎞ですが、七面山麓にある羽衣白糸の滝までも319㎞と同距離の位置にあります。

白糸の滝の前にも「南無妙法蓮華経」の石碑があるようですが、白糸の滝は、間違いなく空海様が造っていますね。

奈良時代、役行者が葛城山から祈り見つめた聖山が千ヶ峰でした。


図形ではほぼ綺麗な二等辺三角形を描く場所の七面山を聖山として修験道の人達が登り祀るようにしたのは、空海であり円仁であり、そして日蓮とその弟子たちに引き継がれたと私には聞こえてきます。

下の写真は、9年前に一人で千ヶ峰に行った時の写真です。

その時の私の正直な思いは、大事な山に人工的なものを立てて無礼な!、自然の景観を台無しにしている・・と。

その思いは今も変わりません。

自然の情景を壊してまでやれば、必ず調和を乱します。 

押しつけはダメです!

想いは自然と共にあるのですから・・。


下の写真は、羽衣白糸の滝のネット上からの情報です。

滝の前に南無妙法蓮華経」の石碑が見えます。


空海さまは幼少の頃、「真魚」と呼ばれていました。

それで・・なのか、 イエスを魚で表現していたからでしょうか。 

んん~~ん いえいえ両方の意味を持たせて魚のコンタ―ラインで造られていますね。

それで空海様のお墓を「真魚の山」と私はよんでいます。地図上では「望海山」となっていますよ。

先日の岡山へのツアーで遥照山両面薬師へ行かれた方々が、伽藍と二仏が刻まれた石を見られましたが、その石の前で手を合わせた先が、みごとに空海様のお墓でした。


三郎岳にも日蓮大菩薩の石佛がありましたが・・、何!? 三郎って誰!??

 


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山口県光市にある石城山に眠る大王は、ヒンドゥーの神 シバ神である

2019-07-25 14:49:37 | かごめかごめの真実とは

2019年7月26日(金)

世界の宗教の始祖が日本の国土に眠って居られます。

あなたには信じられますでしょうか。

ユダヤ教 イスラム教 ヒンドゥー教

その始祖である現人神たちがこの日本の大地に眠っているとしたら・・。

当然として、そのことを知っていたイエス・キリストも日本にやってきて、最後は、その方々に抱きかかえられるようなその地で眠りにつきました。これらのことを、秦河勝 役行者 行基 吉備真備や玄昉 最澄 空海 円仁・・日蓮 そして豊臣秀吉、徳川家康など時の権力者達は皆知っていたと思われる。

 

下の直角三角形のポイントは・・見事です!

モーセの墓 と 天照大神=アブラハムの父・テラの墓である神野山王塚 と シバ神の三点は、5:12:13の整数比の直角三角形を描きます。

シバ神倉稲魂ということです!



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後醍醐天皇と桓武天皇の亡霊が動き出して、再び地下神殿の場所を教えた

2018-10-25 04:50:27 | かごめかごめの真実とは

2018年10月25日(木)

 歴代の天皇の中でも、思い半ばでこの世を去った第50代桓武天皇と第96代後醍醐天皇浮かんできます。

後醍醐天皇陵は、奈良県吉野にありますが、桓武天皇の墓は定かでないようです。

でも私には、桓武天皇の墓は京都府にある高雄山(428.4m)だと教えます。

現在の神護寺の上になります。

空海さまが長安から帰って太宰府庁に隣接する観世音寺にいて、公に京の都に最初に入った場所が高雄山寺でした。

どうしてか・・!? これを考えれば答えは当然至極なのです。

そこには、和気清麻呂の墓もありますし、桓武天皇も眠っていますから、当然としてこの2人に指導された空海さまが、2人の御霊の供養をしたわけです。

この国の大王たちは、この世で最後の務めとして、亡骸をどこに置くかによって連綿と続く王家の人達が眠るお墓や陵墓でこの国の歴史を教えていました。

高雄山のお墓の場所にも行かされました。

最近、武部さんがしきりに吉水神社のことを書かれていますが実は、台風で荒れ狂う宗像大社へ行って不思議なことが始まった2010年8月11日から数日後の8月16日、千ヶ峰の麓に居られる有名な女性霊能者のところへと連れて行かれました。

そこで、「今日は後醍醐天皇の命日です。ほらっ、目の前に後醍醐天皇が居られます・・」と、まあ不思議なドラマがあったりして、それからほどなくして、私が信頼する友人の実家が吉野だということで連れて行かれたのが吉水神社でした。

そこでまた、後醍醐天皇の存在を知ることになり、ほどなくして綾部の大本教本部に突然連れて行かれたり、笠置山に連れて行かれたりして・・。

もう何が起きているのか、どこかの世界に引き込まれたのか、ドギマギする日々が加速していきました。

その後、「隠岐の島へ行って一番高い大満寺山へ登れ! 昔は摩尼山と呼ばれていた」と言うことで、大急ぎで隠岐の島へと行ったりして、ここでも後醍醐天皇をより強くしることになったりしました。

もうどこまでも不思議な世界にどっぷりと浸かってしまた8年間です。

もちろん吉野の後醍醐天皇陵にも行かされました。

そして、桓武天皇の墓と後醍醐天皇陵の二点から、二等辺三角形を描くポイントが、「とうりゃんせ」の唄の舞台であり、地下神殿の在処だと教えられて居ます。

なにも分からない状態から、「穴を掘れ!」と言われて穴掘りを開始した場所が、どのような祀り場所であるのかの根拠を時間をかけて教えられているようです。

実は、隠岐の島の大満寺山と後醍醐天皇陵の二点を結ぶラインに、この地下神殿の場所は見事に位置しています。 

そして最近、武部さんがしきりに後醍醐天皇に関する吉野と隠岐の島のことをブログで書かれておられるので、

後醍醐天皇陵と桓武天皇の墓とを見つめて浮かび上がるのが、イエス王家の人達を祀る、岡山にある天神山です。

天神山と言えば、その山を守るように配置されていた日蓮宗不受不施派弾圧の歴史の謎も教えらえましたね。

天神山~熊山遺跡~京都御所~東京の御所~から、日月神示が下された千葉県の麻賀多神社までは見事に一直線であることも浮かび上がりました。。

そしてそこから、麻賀多神社が向いている方角に、本当に岩山を「日と月」に造り上げた山を発見し、その日月の山(岐阜県)へも行かされました。

そして、後醍醐天皇陵と日月の山と、イエス・キリストの墓が綺麗な2:1:√3にほぼ近い綺麗な三角形を描くようになっているなど、関係性がある場所場所を教えられました。

後醍醐天皇陵と桓武天皇の墓は、大事な大事なベンチマーク的な意味を秘めていることを教えられます。 重要な二点です!

 

 そして今回、不思議な図形を描かされました。もうこれは、どう見ても簡易式の住居となるテントに見えてしまいます。

古代ユダヤの王たちの住まいである幕屋、ユダヤの秘宝アークを安置する幕屋の図案を描いています。

そしてその場所の位置こそが地下神殿であることを古代ユダヤの大王の血を引き継ぐ桓武天皇とご後醍醐天皇が教えています。

後醍醐天皇と桓武天皇の亡霊が動き出したようです。

 

   

 

武部さん、綺麗なセーマンが現れましたよ。

・・それにしても、綺麗な図形ですねぇ。


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日蓮上人もお忘れなく!・・と  そして大変にお怒りのご様子です!

2018-09-08 05:05:05 | かごめかごめの真実とは

2018年9月8日(土)

 私は何も知らない無知な人間である。

それで・・なのか、今回の北海道のM7の震源地の山崩れ現場と、地震も大雨もなく山崩れを起こした大分県にある耶馬溪の現場と等距離にあたる地点を調べると・・。

そこには千葉県にある大本山小湊誕生寺

なになに~~ 日蓮上人もお忘れなく! ・・と言っておられるご様子です。

日蓮宗と言えば、日蓮宗布受布施派の方々が守り通した岡山県にある天神山の秘密がありました。

日蓮宗と言えば、富士山本門寺にも行かされて日蓮大菩薩の素晴らしい書体も見せられていましたねぇ。

日蓮大菩薩と言えば、三郎岳にも登らされましたぁ。

んん~~ん、これは日蓮上人が「本当のことを表に上げよ!」とお怒りのご様子にも取れたりしますが・・。

小さな嘘はすぐバレルが、大きな嘘は、時間をかけて必ずバレル!」と神様が言って居られますよ。

それにしても、最近の地理院地図は何なのでしょう?

二点間を結ぶと、東西で大きく大きく湾曲したラインを描きます。

以前はこのようなことはありませんでしたが、パイロットでもあるまいし、二点間の最短距離ラインを示す必要性は全くありません。

古代の人達が大地に残した重要な地点を知られるのを恐れている気がしてなりません。


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神様の計画

2016-11-13 11:56:09 | かごめかごめの真実とは

2016年11月13日(日)

 今日、武部さんは、伊那佐山の調査に行ってることでしょうね。

那枝山  八祢宣山  伊那佐山  ・・ これらの山は間違いなく大きな関係性を教えているようです。

武部さんも、何者かに動かされていて、うすうす感じとってきているようです。

 

ヘブライ語で、「ナギ」または「ナギッド」という言葉があるようですが、これは、「王子、統治者」「ナザレの王」という意味があるようです。

那枝山に意味があるとすれば、「統治者ナザレの王イエス・キリストについて、重要な事柄を教える山」と響いてきます。

そしてその王、イエス・キリストが最期にどこで息を引き取り、どこに埋葬されたかということを三角法の図形や磐座で教えていました。

イエスの最期の地は、岡山の備前で、伊部 伊里という地域です。

伊部には大王が亡くなったところという伝説が残っているとの情報も寄せられています。

忌部 斎部 伊部・・ どれも「いんべ」と読み、その意味も共通しているようです。

そして・・、伊里  これは「イリ」と読むようですが、私には「イエスの里」と響いてきます。

イエスが亡くなり、この地から神様の数字55度の方角に行ったところにイエス・キリストは埋葬されたと教えていました。

55度のライン上に十字架の山の縦のラインが見事に重なっていました。

・・・これは、大変なことが表に浮かび上がり出しました。

これはもう、隠し通すことは誰にもできませんね。

我国の初代大王イエス・キリストの墓が播磨国風土記に記された、埴岡の里、現在の兵庫県神崎郡神河町にある標高835mに築かれた前方後円墳の前方部に埋葬されたことが明るみになっていくことでしょう。

そのことを女王卑弥呼も、役行者や行基、最澄さんや日蓮など・・、そしてなんと言っても最大の功労者は、現在も生き続けている空海様でしょう。

変に、そのことを隠ぺいしようということを企てようものなら・・、そしてそれに関わった人達は大変なことになるでしょう。

これは神様の計画ですから、どのようなことがあっても神様達は、計画を成就させます。

生野、神河町が世界の聖地へとなって行きます。   神様の計画は素晴らしものです。

武部さんのブログに注目です


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三郎さんが三郎岳に登りました

2016-11-07 17:09:00 | かごめかごめの真実とは

2016年11月8日(火)

 6日(日)朝10:00 榛原駅に着きました。

武部さんが駅の改札口まで迎えに来てくれていました。

そして武部さんの車で途中、龍穴神社へ御参りしてから目的地点の登山口まで行って、そこから獣道的な急な坂道を登り、途中、磐座の写真を撮ったりで・・、1時間半ほどで登ったようでした。

最近は2時間~3時間ほどかかって目的地点まで行くことが定番となって鍛えられていますから、この日は楽なコースでした。

日蓮大菩薩の石仏を見て、もうそこからすぐで山頂点でした。

三郎さんが三郎岳にやっと登頂することができました。

武部さんに感謝です。

この三郎岳は古代、いろいろな意味で重要な場所でした。

                      

  

奈良県の三郎岳(878,8m)に登りましたが、兵庫県の亀岡市には三郎ヶ岳があります。

三郎ヶ岳から三郎岳までの距離と同じ距離だけ西方向にある卑弥呼の陵墓までとがほぼ同距離にあるのは偶然でしょうか。

イエスの陵墓と卑弥呼の陵墓と三郎ヶ岳を結ぶと一直線になるのは偶然でしょうか。

三郎岳からマリアの墓 三郎岳からイエスの墓 三郎岳から卑弥呼の墓・・・これらの2点間を遮る山がなく、三郎岳は重要な意味を持った山です。

三郎岳や三郎ヶ岳の三郎とは・・、一体どのような意味を持っているのでしょうか。

そして、古代の王家の人達のお墓の場所を次々と教えられて、墓参に行っている私、三郎とは一体何者なのでしょう・・。 

私を動かしているのは・・?? 誰??

三郎岳  神ノ山(対馬)  出雲大社  内子ピラミッド(愛媛県)  4点は綺麗な図形を描きます。


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空海さまと役行者と最澄様

2016-06-14 16:43:48 | かごめかごめの真実とは

2016年6月14日(火)

 12日(日)和歌山市の紀伊駅に電車で着いたのが10:34分でした。

駅から下りると武部さんが待ってくれていました。

そして武部さんの愛車に乗せてもらって、役行者堂へと行きましたが、歩いては到底行けそうもないような場所でした。

武部さんに大感謝でした。

ここの場所は墓の谷と呼ばれているようで、私には役行者の墓がある場所だと響いてきます。

だって、比叡山延暦寺根本中堂と、イエス・キリストの遺体が入れられた陵墓の前方部と、役行者堂の三点を結ぶと、一辺が103㎞の綺麗な正三角形を描きます。

そしてその三角形の重心にあたるところには、山頂に稲荷神社が祀られている綺麗な丸山があり、すぐそばに畑山も存在します。

行って私はいつものようにコンパスグラスで御堂に向かって手を合わせて祈るとどこに向かっているのか角度を測りました。

建物は252度に向かって建っていて、人は72度に向かって祈るようになっていました。

実はこの角度には、奈良県橿原神宮にある神武天皇陵にキッチリと向かって祈るようになっていました。 偶然でしょうか。

そうそう、そうでしたねぇ。

橿原神宮でお賽銭を入れて手を合わせてお祈りすると、岡山にあるイエス王家の陵墓の山である天神山に向かって祈るようになっていましたね。

そして・・、磐座に不動明王が立っていましたが、そちらに向かって手を合わせると、神河町にあるイエス・キリストの墓に向かって祈るようになっていました。

偶然でしょうか。  決して偶然ではないでしょう。

空海さまが歩まれたところには、必ず不動明王があり、高下駄をはいた役行者の像があります。

でもこの場所は、最澄さまも日蓮様もきっと来られたと私は思っています。

それは・・日々比叡山延暦寺根本中堂からイエス・キリストと卑弥呼と役行者様に最澄様がお祈りを欠かさなかったと思いますし、そのような臭いが漂っていました。

本当に普通では行けないところに武部さんが案内してくれました。 感謝いたします。

 

                   

 もうここまで来れば・・、

私達は何をやらなければならないか・・、ハッキリと神様の意志は亀さんにも伝わってきます!


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「和気清麻呂こそ全てを知っていた!」 その5 偶然が又一つ重なる確率は!

2016-05-09 01:11:11 | かごめかごめの真実とは

2016年5月8日(日)

 護王神社は、美作市の大聖寺に向けて設計されていました。

278度の方角には雙ヶ岡(ならびがおか115.8m)が見えますが、その窪みの中央の先に見える小倉山(296m)を見て、初代大王イエスに手を合わせたことでしょう。

このように重要な場所を教える方法は、二上山の窪みを使った方法と全く同じですね。

大聖寺の御神体山から、神河町の大々的なイエスの陵墓までと、王家の人達が祀るイエスの陵墓までの距離は同じ距離でした。

要するに三点を結べば綺麗な二等辺三角形を描きます。

大いなる聖を祀る寺が大聖寺であり、初代大王を護る社が護王神社たる由縁なのでしょう。

大聖寺と同様、備前の天神山を守るように配置された日蓮宗不受不施派の弾圧と焼き討ちは全く同じ理由が存在しているようです。

和気清麻呂は全てを知っていましたね。

そして、行基や最澄さまと空海様達も全てをご存じでしたね。  

 

        

 

 

 

 

 

 

 

 


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日蓮宗不受不施派の寺で天神山を守っていた真実とは

2016-05-07 07:11:11 | かごめかごめの真実とは

2016年5月7日(土)

 天神山は、荒れ放題に荒れていました。

それで5日、大事な陵墓の後円部へと行って、太陽の陽が差すように掃除をしてきました。

まぁ~大変に荒れて荒れた藪の中を下りて帰ってきました。

途中、山の裾野には沢山のお墓がありましたが、お墓には抱き茗荷の紋章がほとんどでした。

わが家の紋章と同じでしたから、なぜかご先祖さまに会ったような微笑ましい感じもして手を合わせ、思わず写真に収めました。

その中にあってもう一つが、藤原家の下がり藤の紋章でした。

これらの紋章は、ここ王家の陵墓と大いに深い関係があることを教えています。

でも・・、もう一つの紋章は・・??

     

 

 武部さんが、大発見をしました!

上森三郎 様

昨日はありがとうございました。

あの法華経の石碑があまりに立派なので、あのあたりの日蓮宗について調べてみ

ました。

興味深い記事が見つかりました。

http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/035/035212.html

瀬戸町は、日蓮宗の「不受不施派」の信仰が強く、しかも弾圧されていたようです。キリスト教への弾圧と同様の弾圧があったようです。

 

ここにも無念の御霊様たちが沢山たくさん居られました!

 

岡山県瀬戸町に残る不受不施信仰の研究(1)

公開日:平成23年3月30日
最終更新日:平成23年3月31日

【 優秀賞 】

第9回櫻井徳太郎賞受賞作 岡山県瀬戸町に残る不受不施信仰の研究―地元・岡山を中心に弾圧の歴史と現在の姿をみつめる―

岡山県立岡山操山高等学校1年 金田 大輝・笹埜 健斗

1、はじめに

1―1この研究の動機

我々が住んでいる町は、岡山県の東部に位置する瀬戸町である。そして、この町には日蓮宗の宗派の一つである不受不施派を信仰する家庭が多く残っている。しかし、宗教に対する自由な風潮が高まってきているためか、現在は他の宗派の家庭も多く見られるようになった。日蓮宗不受不施派の寺で写経をした際、不受不施派が江戸時代から明治時代にかけて激しい弾圧にあっていたことは聞いており、強く興味を持っていた。しかしその理由や具体的な弾圧についての知識は少なかった。

 日蓮宗の宗義は簡単に理解できるものではないだろう。我々はむしろ、政治的な弾圧に200年以上も耐えながら自身の宗義を守り抜き、そして現代に伝わっているという歴史的事実そのものに感動し、何とも意義深いものであると感じたのである。そこで我々は、自分達の町に残っているこの宗派について、昨年の10月から調べ始めた。今回、今までの研究の成果として、ここにまとめる。不受不施派に関する知識はほとんど無かったため、不受不施派についての文献の収集から始めた。

1―2 この研究の目標

 不受不施派の活動に関する資料は、他の宗派に比べて非常に少ない。その原因として、寺の焼き討ちの際に処分されたり、弾圧に耐えながら密かに信仰を続ける信者が証拠を消すために処分したりしたことが考えられる(資料[6]より考察)。そこで、我々は笹埜君の故郷である瀬戸町宗堂区における不受不施派の活動を中心にして迫っていこうと思う。

 今回我々が見つめる問題は、次の5つである。

(イ)なぜ瀬戸町に広まったのか?

(ロ)なぜ弾圧されるようになったのか?

(ハ)備前岡山藩主はどのような弾圧を行ったのか?

(ニ)瀬戸町宗堂区ではどのような弾圧が行われたのか?

(ホ)明治9年(公許)以降の活動には何があるのか?

これら5つの問いと向き合いながら、不受不施派の特徴と活動の意義を考えていきたい。

1―3 研究にあたっての準備

 資料が無ければ確かな情報は得にくい。我々は、まず資料の収集から取りかかった。我々は6ヶ月間で、19冊の文献を用意した。その中で、今回使用する文献資料の一覧は以下の通りである。

(イ)不受不施派の方々が独自に作成した資料

  資料[1]『生きている《日蓮宗》不受不施派』(昭和48年発行)

(ロ)郷土誌

  資料[2]『瀬戸町誌』(昭和60年発行)

  資料[3]『太田・吉岡村誌』(大正13年発行)

  資料[4]『瀬戸町の歴史散歩』(昭和59年発行)

(ハ)郷土史

 資料[5]『瀬戸町史料集』(昭和60年発行)

(ニ)年表

 資料[6]『日蓮宗不受不施派読史年表』(昭和53年発行)

(ホ)辞典

 資料[7]『岩波仏教辞典』(昭和64年発行)

  資料[8]『日蓮辞典』(昭和53年発行)

(へ)その他文献

  資料[9]『瀬戸町地名考』(平成11年発行)

(ト)聞き取り調査

  資料[10]「妙覚寺の方へのインタビュー」

 資料を集める上で留意した点について触れておく。先に挙げたように、この研究で扱う不受不施派という宗派は、歴史上の出来事の年代などが不明確な部分が多い。そのため、根拠として使う資料の発行された年代をきちんと押さえた上で、「いつ記された文献か」ということを常に頭に入れて研究を進めた。また、「資料[3]」・「資料[9]」は個人的な理由での貸し出しが許可されなかったため、郷土資料館の学芸員の方に指導していただき、全ページのコピーを取り、軽く製本した(写真[1])。

 さらに、不受不施派の宗教的内容については、収集した資料からは調べることができなかったので、不受不施派の寺院である妙覚寺(岡山市)の方への二度のインタビューを計画した。

2、日蓮宗不受不施派

2―1〔問い1〕不受不施とは何か?

 「不受不施派」と呼ばれている宗派は、2種類ある。1つは「日蓮宗不受不施派」であり、もう1つは「不受不施日蓮講門宗」である。両者の間には、宗義の若干の違いがある。しかし、これも弾圧に耐える過程で生じた違いであり、弾圧によって受けた被害の1つとも考えられる。瀬戸町には、両者のうち「日蓮宗不受不施派」が多い。この研究では前者の宗派について考えることとする。

 

 名前にもある「不受不施」とは、受けず施さずということで、日蓮宗以外の他宗・不信者の布施供養を受けず、信者は謀法の僧に供養をせぬということ(資料[8]より引用)である。「不施」とは出家修行者、仏教教団、貧窮者などに財物その他を施し与えること(資料[9]より引用)である。「謀法(ほうぼう)」とは仏教をそしること(資料[9]より引用)である。この不受不施の義は、法華経(ほけきょう)という釈迦の教えを厳密に守るため日蓮以来いましめられてきた信条である。当初は公家や武士からの施しは一切不受不施の対象にはならなかったが(「公武除外の不受不施」)、室町中期から公武の施しであっても、仏法の中では皆平等であり特別視すべではないという風潮が高まった(資料[9]を参考)。そうして信不信を判断基準にする「正統不受不施義」が強調され、そのまま日蓮宗伝統の正義になったのである。

2―2〔調査1〕不受不施派の信仰内容

 不受不施派の派祖は、京都妙覚寺にいた日奥(にちおう)(1565〜1630)である。日蓮宗本来の教えである不受不施義を守り抜いた日蓮宗不受不施派。そしてそれ故に弾圧の対象となったのである。では、それはどういう形で行動・政治的態度に表れてくるのだろうか。

 「不受不施」とは受け取らず・施さずであった。もちろん、法華経以外の経典を重要視している他宗派は、無論不受不施の精神を見出していない。よって不受不施を守る必要もないのである。そのため、他の宗派からは少々厳しい教えであると見られていたことであろう。日蓮宗の宗祖である日蓮が、著書の中で他宗派を非難したことは有名な話である。しかし、日蓮は何の根拠も無しに非難したわけではないという。日蓮は「本当に一番素晴らしい釈迦の教えは何か?」という問いの答えを求めて比叡山にこもり、13年間釈迦の教典を片っ端から調べていった。そして、最後に答えを見つけた。それが「法華経」である。ではなぜ他の宗派も法華経を最重要視しないかというと、法華経は確かに釈迦も認めるほど素晴らしい教えであるが、同じくらい高度かつ複雑な教えなのである(資料[10]を参考)。要するに抽象的な話が多いのである。そのため、禅宗など武士階級などに受け入れられていた宗派は、抽象的な度合いが強い法華経よりも、具体的で行動に反映しやすい他の経典を取り上げたのではないか、と我々は予想した。

 そしてもう一つ、政治的な態度にも不受不施義は影響することとなる。他の宗派との関係をシャットアウトしているため、基本的に他の宗派と提携したり協力したりすることはない。そこまではよい。しかし、問題は政治的権力者が他宗派を信仰している場合である。具体的に困るのは、このような場合である。政治的権力者が宗教的行事を企画して、様々な宗派の僧を呼び集めた際はどうなるか。日蓮宗以外の宗派は何事もなく集合するであろう。だが、不受不施派に限っては、不受不施義に忠実に従うと他宗派の人間のもとへ行って拝んではならないのである。これは重大な問題である。なぜならこういった不受不施義の影響が、後に見る不受不施派弾圧の原因に深く関係しているからである。

 我々はこれらのことを調べて、不受不施という考えは不受不施派独自の考えではなく、日蓮宗全体に共通した考えであったことを知って驚いた。不受不施派義は何も特別な考えではなかったのである。ではなぜそのような本来の教えを純粋に受け継いでいる宗派が弾圧され、少数派となってしまったのか。そのことを考えるには、不受不施派が歩んできた歴史を辿るべきである。その前に、そのような特殊な教えが、我らが瀬戸町で広まった背景について考えてみたい。

2―3〔問い2〕なぜ瀬戸町で広まったのか?

 岡山県は不受不施派の家庭の数が全国でもトップである一方、江戸時代に他藩と比べて徹底的な不受不施派の弾圧・寺院整理政策を遂行したのも岡山藩であった。瀬戸町での布教の成果が実った背景を考える前に、まず岡山藩で不受不施派が広まった背景を考えてみたい。

「河内国若江郡加納村妙政寺」というHPに「備前備中御領分寺数帳」(延宝3年)の表が紹介されていたので、江戸時代の各宗派の状況を知る貴重な資料としてここでも改めて取り上げる(表[1])。表から言えることは、備前・備中では密教系宗派が圧倒的な強い勢力を持っていたことである。その中でも、真言宗・法華宗(日蓮宗)の両派が圧倒的である。さらに注目したいのは、禅宗・浄土宗は全体の10%にも充たない点である。結論としては、当時の岡山藩は、現世での利益を説く宗派が大部分を占めていたのである。岡山藩では、元々法華経信仰が受け入れられていたことが窺える。勢力が強いということは、布教活動が盛んに行われたと言い換えてもよいだろう。

岡山県瀬戸町に残る不受不施信仰の研究(2)

写真1

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写真2

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 次に、日蓮宗の中でも不受不施派が瀬戸町に広まった背景について考えたい。この問いを考えるとき、注目すべき人物がいることが分かった(資料[10]を参考)。大覚(だいかく)(1299?〜1364)である。大覚こそが、岡山の地に初めて日蓮宗の布教のためやって来た人物である。大覚の師である日像(にちぞう)は、日蓮宗の代表である法主の二番目に当たる僧侶である(資料[6]を参考)。大覚は、師である日像に「西へ赴き日蓮宗を広める」という使命をもらい受け、三備(備前・備中・備後)を中心とする瀬戸内海地域に布教し、信者の獲得に尽くした(資料[8]を参考)。大覚が岡山に建立した寺院は30を超えるといわれている。さらに詳しく調べると、大覚が豪族であった多田氏の保護を受けて松寿寺を建立したのが、備前地方への最初の布教のきっかけであった(資料[6]を参考)ことも分かった。

 大覚は、大僧正の位が与えられたのであるが、もう1つ注目したいのが、その理由である。大覚は雨乞いを成功させたことで大僧正の位を与えられている。延文3年(1358年)京都で干ばつが起こった際、天皇の命令で雨乞いの祈祷を行ったところ、見事危機を救ったといわれている(資料[8]を参考)。

 このことを調べたとき、私は江戸時代に描かれた大覚の姿がどれも何かの祈祷をしている(数珠を持ち、両手が頭上にある)理由が分かった気がした。これはまさに、大覚が雨乞いをしている場面を描いたのだろう。このように、普段から気になっている疑問の答えが見え始めることで、さらに興味が深まってくる。

3、不受不施派の法難の歴史

3―1〔問い3〕なぜ迫害されたのか?

 まず、法難とは仏教に対する宗教的弾圧のことである。しかし、これは僧侶や信者の立場からの言葉であり、弾圧する立場(幕府など)はこれを廃仏と呼ぶ。今回調べた不受不施派に対する弾圧は、まさに法難にあたる。

 「〔調査1〕不受不施派の信仰内容」では、不受不施義の政治的態度が弾圧・迫害に影響していることに触れた。不受不施派はその特徴的な宗義によって、幕府や他宗派から目を付けられていた。すると、何かがきっかけとなってその関係が顕わになったのである。そのきっかけは一体何なのか。それは、豊臣秀吉の時代にまで遡る。まさにその時から、およそ200年にも及ぶ弾圧が始まったのである。秀吉は文禄4年(1595年)に京都の東山方広寺で、全国の様々な宗派の僧を集める千僧供養を計画(資料[2]を参考)した。目的は、大仏開眼と先祖供養のためであった。しかし、不受不施派は参加を拒んだのである。これには深い経緯がある。出仕を求められた際、不受不施を宗義とする日蓮宗の諸寺は、京都本国寺に集まり、出仕するか否かを話し合った(資料[2]を参考)。権力には到底逆らえないということで、出仕するべきだと主張する多数派の中で、日奥のみ不受不施義を貫くことを主張したという。不受不施派というのは、傍方の者の供養を受けず、また傍方の僧への布施は行わない、さらに不信の神仏には参詣しないということであって、日奥はそれを守ったのである(資料[2]より引用)。この時点で「不受不施派」に対する「受不施派」が生まれた。そのため、日奥は不受不施派の祖といわれている。

 日奥は不受不施の精神を守り通したわけであるが、その後慶長4年(1599年)には受不施派の僧侶に訴えられ、大坂城における対論になった。そこで、家康の勘気に触れて対馬に流されたが、13年後に京都に帰ることが許された(資料[2]を参考)。その後も「身池対論」(寛永7年)などもあったが、不受不施義を守る不受不施派の信仰が衰えることはなかった。

3―2〔調査3〕備前岡山藩主池田光政の具体的弾圧

 では、我々の故郷である岡山ではどのような弾圧がなされたのであろうか。寛文5年(1665年)に徳川幕府によって「邪宗門」として禁止(資料[6]を参考)されてからは、不受不施派の苦悩の日々が続いた。岡山藩主である池田光政は幕府の日蓮宗不受不施派弾圧にならい、領内の不受不施派の寺院の立ち退き・追放を寛文6年に行った(資料[6]を参考)。「寺院淘汰」と呼ばれる宗教的な弾圧であった。瀬戸町内には、前述の通り不受不施派の寺院が多く、それらの寺院はことごとく廃寺となってしまった(写真[2]・写真[3])。故郷である瀬戸町宗堂区の「宗堂山妙泉寺」も例外ではなく、寛文年中に廃寺となった。我々は、ある疑問を持った。池田光政は幕府の政策に加勢したが、それは単に幕府の圧力のためだけであったのであろうか。池田光政は岡山藩だけで不受不施派寺院313カ寺を廃寺として、僧侶585人を追放してしまった(資料[1]より引用)。徹底的な弾圧には、他に理由があったのではないだろうか。我々は調査しようと思い、この頃の歴史を見ることにした。すると、歴史年表から興味深いことが分かった。

表[1]
宗派寺数占有率
真言宗 401 38.70%
法華宗 397 38.40%
天台宗 148 14.30%
禅宗 54 5.20%
一向宗 20 1.90%
浄土宗 15 1.50%
1035 100.00%
表[1]「備前備中御領寺数帳」より引用

 

写真3

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写真4

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 当時、光政の藩は鳥取から国替えになっていたのである。 我々は今年の9月に寛文6年(1666年)に廃寺(資料[6]を参考)となった宗堂山妙泉寺へ調査のため足を運んだ。宗堂山妙泉寺は瀬戸町の中部に位置する宗堂区にある不受不施派の寺院である(写真[4]・写真[5]・写真[6])。まず、宗堂山に登ると石でできた鳥居が迎えてくれる(写真[7])。そして、右側には宗堂山妙泉寺住職であった日鏡(にっきょう)が愛したと伝えられている宗堂桜(県指定天然記念物)の広場が見える(写真[8])。ここでは、毎年春になると「宗堂桜祭り」が開かれ、花見をしに来た人々で賑わう。「宗堂桜祭り」も不受不施派の復興活動の一つと言えるであろう。そして、境内の中に入ると、また新しい発見があった。まず、日鏡の供養塔を発見した(写真[9])。そして、すぐ隣には赤くなった祈念碑が見える(写真[10])。驚いたのは、祈念碑に使われている石は、棺桶の蓋であったことである(写真[11])。そして、手洗いは棺桶本体であった(写真[12])。他にも、宗堂桜に関する看板が立てたれており、初めて来た人でも宗堂桜について知ることができた。我々もこの説明で、宗堂桜が花弁約60枚のうち三分の一の約20枚が屈曲反転してカール状になるという特異な性質を持っていることや、それが池田藩主に呼び出され毒を盛られた日鏡が亡くなったのを悲しんでいるためであると伝えられていることが分かった。

 大覚について調べた際も、大覚は雨乞いなど不思議な力を持っていた。そして、日鏡もまた不思議な力を持っていたと伝えられている。例えば、宗堂区の畑にヒルが大発生したとき、農民は困り果ててしまった。これを見た日鏡は「この石を畑にまけばヒルを退治できる」といい、見事に成功したとのことである。これは、休憩コーナーに掛けられていた案内板から分かったことである。そして、そのヒルを退治したとされる石も見つけることができた(写真[13])。農民達はさぞ日鏡に感謝したであろう。これも注目すべき点の一つであると思う。現在までの不受不施派の歴史は、信念を守り抜き弾圧にも屈せず命も投げ出す覚悟で抵抗した人々の足跡があってこそのものである。禁制が解かれた現代に生きる私たちは、再興の日々を待ち望みながら刑場へひかれていった人々のことを忘れてはならないである。

4、現在の不受不施派の姿

4―1〔調査3〕再興会(さいこうえ)

 今まで見てきた不受不施派も明治9年(1876年)4月10日に「不受不施公許の公布」が出されたことにより、正式に認められた。長年の弾圧が終わったのである。不受不施派信者はこの日を記念して毎年行っていることがあるという。それが「再興会」である。再興会は毎年4月10日から3日間、祖山妙覚寺をはじめとした不受不施派各寺院で行われる。

 我々は地元の新聞に特集はされていないかと考え、過去の新聞の資料を調べてみた。すると、岡山県の地方紙である山陽新聞では、昭和50年3月28日に「不受不施派 苦難の二百年」と題して特集されていた(写真[14])。この記事には、法難(弾圧)の歴史や、その間の信者達の苦労が取り上げられていた。今まで集めた資料と比較し、年代などを確認したところ、相違なかったので安心した。また、昭和58年3月20日に立正護法会によって発行された立正護法会報には「再興会を迎えて」と題して先祖の苦労を改めて涙し、正しい教えを守り続けることを誓い合う呼びかけがなされている(写真[15])。

 我々としても、長く厳しい弾圧に耐えてきた素晴らしい証として、今後も続けていくべきであると思っている。先祖の輝かしい生き様を、是非ともそのまま後世に残していきたいと切に願う。

4―2〔問い3〕これからの不受不施派の姿は?

 これから不受不施派はどのような道を歩んでいくのであろうか。それは我々にとっては、到底まだ分からない問題であるが、ひとつ確信が持てる予想がある。それは、不受不施派というまとまりは、かつて弾圧に耐えてきた頃の宗教的な活動のみならず、その根底にある精神や「守ろう」とした人々の熱い思いが、必ず現代人の生きる道標になると思う。

 我々は、不受不施派の歴史を調べる中で、不受不施派の活動の真の意義は、その宗義の特殊性だけではなく歴史の中での信者や僧侶1人1人の生き方・行動にあると思うようになった。その点で、不受不施派の抵抗の歴史は、民俗としても、そして哲学としても大変貴重な価値を持っている。混乱する時代を生きる現代人に足りない何かは、以外にもすぐ近くにあるのかもしれない。我々が忘れているだけなのかもしれない。期待は高まる。

岡山県瀬戸町に残る不受不施信仰の研究(3)

5、抵抗とその先へ

5―1〔考察1〕不受不施派の団結力に関する考察

 不受不施派は約200年もの弾圧に耐えて今に至っている。その間、限りない抵抗活動が繰り広げられている。ここではそれらの列挙ではなく、その事実を踏まえた上で当時の信者達の原動力は何だったのかを考える。なぜここまでなし得たのであろうか。我々は、たくさん考えられるが、2点にまとめた。

(イ)抵抗活動の指導者の道徳的精神

(ロ)不受不施義に賛同する有力者の援助

(イ)…不受不施派の信者達の先頭には常に幹より太くて堅い信念を持った先導者がいた。それは時代の流れに応じて、時に僧侶であったり、信者の中のリーダーであったりした。注目すべき点は、それらの人々は決して布教活動のみを行っていないという点である。飢饉に苦しむ農民のために備えて蔵を造ったり、人柱となったりした(日泉聖人)。その信念は本当に計り知れないものである。その姿を目の当たりにした信者達は、「ようし、自分も続け」と踏ん張ったのではないだろうか。今回は時間の制約で詳しく取り上げることが出来なかったが、島流しにされた不受不施派の僧侶が流された島でも献身的に働き、役人も含めてほとんどの島人が不受不施派信者になった島(東京都八丈島など)もあった。

(ロ)…そして、もちろん有力者の中にもその生き方に感動する者が出てくるわけである。そうした権力者は、幕府の役人に隠れて念仏を唱えるために、隠れ家や食料などを進んで提供した。そして、かくまっていた者も、当然幕府の役人に見つかれば厳しく罰せられた。人々は、そうした危険の中でも僧侶や信者達を守り続けていたのである。こうした人々の力も、当然無くてはならなかったに違いない。

 他にも様々な要因が挙げられるが、我々が以上の2例を挙げたのは、それらが不受不施派の特徴をよく表していると判断したからである。それは、僧侶や信者の宗義を守り抜く信念が、少数派ではあるが協力して守られてきたという特徴である。さらに興味深いのは、幕府の弾圧を受ければ受けるほど、その思いはより強固になっていったのである。我々は、幕府の弾圧をも取り込んで、抵抗を通して人と人とのつながりをより絶対的なものにしていった不受不施派の姿を垣間見ることができたと思う。誤解を恐れずに言うならば、長年の抵抗の日々も、言い方を変えると不受不施派を本来以上に意義深く、貴重な宗派へとした重要な要因であったように思う。行川法難の際に信者に迷惑をかけぬように自訴した備前の友善日清はその時の心境を歌に残している(共に資料[1]より引用)。

にごり江に とてもすむべき 老の身を 法のためにし 今日はすてつる

ふたつなく 三つなき法を たもつ身は 三途に恐れ なきとこそきけ

 我々はこの歌を読んだとき、これらはまさに、死をも恐れずに自らの信じる正義を貫いた不受不施派の精神の歴史そのものであると感じた。

5―2〔考察2〕弾圧者としての幕府の姿

 今まで、詳しく、そして多大な時間をかけて不受不施信仰に迫ってきた。今回は我々の地元である岡山県を中心に研究をしたが、京都や大阪、そして東京にも、岡山ほどではないにしても不受不施信仰が残っている。それらの地域を調べることも、今回は分からなかった新たな事実を発見するよい方法であろう。是非、引き続き調べたいと思っている。現代人に足りない何かを、我々は絶対に思い出してみせる。

 我々が今、特に強く思っていることは、不受不施派の宗教弾圧は不受不施派だけでなく、幕府にとっても非常に頭を悩ませる複雑な政策であったということである。今までは、宗義を守り抜く頑なな不受不施派に対して、傍若無人に幕政を強行したような予想をしていた。しかし、実際は不受不施義に対して思想的に反論を試みたり、弾圧する時期を不受不施派の様子を見ながら慎重に見計らったりしていた幕府の様子が調査を進めると顕わになってきた。公平であるとはさすがにいえないが、がむしゃらに弾圧をしていたといい切るのもいささか疑問に思う。立場は違えども、悩める両者のやり取りとしてもう一度不受不施派の歴史を見てみると、また違って見えてとても興味深い。

5―3〔考察3〕現代における課題は何か?

 最後に、現代における課題、つまり公許後の時代を生きる我々にできることについて考えたい。我々は調査・研究全体を通して、弾圧への抵抗と不受不施派の現在の姿は決して切り離すことができないと考えた。そしてそのことは、不受不施派を現在に至っても信者達を魅了してやまない強固なつながりを持つ宗派たらしめた重要な原因の1つであると考えている。しかし、圧政の歴史が終わった現代、この特徴はこの先どのようになるのであろうか。今までの研究の集大成として、最後にこの問題を考えてみたいと思うのである。

 まず1つ目の考察として、弾圧をされてきた時代をくぐり抜けてきた現代においてその団結力が損なわれる恐れはないだろうかということである。なぜならば、先ほども述べた通り、幕府の政治的権力に対抗するという姿勢が信仰心の表れとして常にあった。しかし、弾圧のない現在においては、そのような抵抗はもはや価値を失っているといえる。そしてそれは、「信仰の自由」が堂々と叫ばれるようになり、緊張感が解きほぐされたような状況になってしまったからではないだろうか。確かに抵抗の日々が信者たちにとって大変辛く危険であったことはいうまでもない。しかし、我々はここで「宗教的弾圧に対する抵抗活動」が、同時に「信仰心の確認ないし表現」という性格を持っていたことを確認しなければなるまい。そしてその必要がなくなった現代では、精神的な満足のみに陥ってしまう可能性がなきにしもあらず。そのような状態で、果たして更なる発展が期待できるのであろうか。これは間違いなく、我々現代人に残された重大な課題の1つである。

 2つ目に、仏教全体の動きに注目したい。我々は、仏教は近代から現代にかけて、宗派の間の正-邪の区別や優劣の区別が薄れていっていると思う。仏教は互いに退け合うのではなく、相互に協調し合う方向へと進んでいると思う。そして、それは本来歓迎すべき態度である。だが、この風潮さえも不受不施派にとって重要な問題になり得ると考えている。なぜならば、不受不施義の根底である「不受」・「不施」は「信仰しているか否か」を基準にしてきた。しかし、その考え方は現代においては失われつつあるのではないであろうか。信仰をしているか、信仰していないかを厳密に区別することは、現代においては過去に増してかなり特殊な宗義となってしまったといわざるを得ない。この問題も、決して無視することができない問題である。

 そして最後に3つ目として、現代を生きる我々の生活スタイルについて考えたい。2つ目の考察は、現代の生活・思考スタイルからも言えることではないだろうか。不受不施の思想は、本来日蓮が法華経から読み取った思想であることは先に触れた。その根底にある精神は、自己の純潔さ・潔白さであった。しかし、現代では果たして信仰の有無を厳密に区別して、受-不受ないしは施-不施を厳密に判断することのみが自己の純潔さ・潔白さを表すのであろうか。生活の様式が多様化した現代においては、ある程度個人の判断に任せることなく、宗義の固定化を保持することは困難ではないであろうか。

 これらが、我々が今までの全ての研究活動を通して考えた、現代に残された課題である。

6、研究のまとめ

 1年間の研究のまとめとして、研究をする間に思い考えたことをまとめてみる。特に、民俗や歴史との我々なりの付き合い方を見つけたような気がした。

 我々は、先人達の素晴らしい弾圧への抵抗の歴史を真摯に受け止めると共に、これらの問題に真摯に取り組む必要がある。なぜなら、民俗や歴史は決して過去のものではないからである。それは、現代に必ず何らかの影響を及ぼしている。だから、我々は民俗や歴史を紐解いただけでは満足してはならない。それだけではまだ民俗や歴史を本当に捉えたことにはならないと思うのである。必ず、現代の立場に戻り、今一度本気で考え直す必要があるだろう。そして、このような作業を通して、我々の歴史も自ずと出来上がっていくものではないだろうか。

 今回不受不施信仰を調べた我々も、もし自分がこの時代に生きていたら同じようなことをしていたかもしれないと思った部分が多々あった。歴史を知ることを、自分たちとは違う過去の人々を知ると考えるべきではない。第三者の立場で事実を捉えることも確かに大切であろう。しかし、その次に同じ「人」としてもう一度その事実を眺めることが、どれだけ大切なことであろうか。異なるのは、置かれた環境や制度であって人間であることに変わりはない。これからは、過去の事実を客観的に知った後には、偶然その時代に生まれた自分たちと同じ「人」の人生として全体を眺めてみたい。そうすることで、民俗や歴史を知ることが何人分もの人生を共有することになる。そして、そのことは現代をどんどん活気づけてくれるだろう。そうすれば民俗そして歴史は、現代に生きてくる。新鮮さを帯びてくる。


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龍野 亀山(きのやま)の船形石は、九福神が乗った宝船でした

2016-04-30 07:11:11 | かごめかごめの真実とは

2016年4月30日(土)

 先人達が「この方角を見よ!」と木庭神社の方位石が教えていたところが兵庫県龍野市の亀山(きのやま)でした。

そのポイントから、王家の人達が祀る私的なイエス・キリストの墓の位置も確信がもてるようになりました。

そしてその場所に「船形石積」があることを古代史研究家の市川慎さんが本に書かれていましたから、

24日(日)その船形石を見てから岡山のイエス王家の陵墓へと行って、

そこにも証拠となる日蓮大菩薩の石碑を見ることができ、私には三つのイエスの陵墓がそれぞれ役割を持って造られていることを確信しました。

その確信はやはり、その三点の重心近くに意味ある磐座が存在し、その磐座が教える大事な方角が神河町のイエス・キリストの墓をキッチリと教える45°方向であり、それに90°足した135°方向を教える岩の切り込みでした。

この135°の方角にピタリと位置する場所が高野山金剛峰寺でした。

九大竜王を乗せた宝船を空海様は造っておられましたぁ!  

おそるべき空海様に出会った感じで、感無量です!!

 

   

 

  

 

 


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先人達は、この大地に真実の情報を刻んでいました

2016-04-27 09:01:08 | かごめかごめの真実とは

2016年4月27日(水)

 岡山にある王家の人達が祀る私的なイエスの陵墓が造営された位置には、見事に霊ラインが集まっていました。

その場所は、

 住所:岡山県岡山市東区瀬戸町南方 付近の住所。正確な所属を示すとは限らない。)

 34度44分49.03秒 134度4分28.19秒

 34.746953,134.074498  ズーム:18

 UTMポイント:53SMU15294537
標高:140.0m(5m ( レーザー ) )

 この場所から東へ行ったところに熊山遺跡(岡山県)があります。

そしてそのラインを東へ伸ばして行ったところに京都御所があり、そのラインをさらにもっと東へ行くと、東京の御所へと一直線です。

偶然でしょうか。

初代大王大国主命=イエス・キリスト=神武天皇を祀る王家の私的な陵墓と、天皇がお住まいになられる二つの御所が一直線上にあるという意味は意図されているということです。

それだけではありません。 

王家の人々が祀る第二代綏靖天皇=ヤマトタケルの陵墓である王山から、イエス様の母君であられるマリア様の陵墓を通って来たラインがこのポイントに来ます。

要するに、親子三代の私的な陵墓が一直線に並んでいます。  

又、王家に仕えた物部氏の大社である島根県大田市にある物部神社の御神体山から、現在でも女人禁制の山としてしられる大峰山山上ヶ岳を結んだライン上にこの位置が見事に位置しています。

そして・・、天皇大嘗祭の時にご使用になられる麁服(あらたえ)用の麻の栽培が、唯一許されている三木家の場所がある木屋平村の御神体山からキッチリ磁北の場所に、その私的なイエスの陵墓がありますが、これも偶然ではないでしょう。

そしてその場所に「南無妙法蓮華経日蓮大菩薩」と立派な書体で書かれた石碑が在りましたが、これらのことも全て、最澄様や空海様や日蓮さまたちもよ~~くご存じで、ちゃんとお祀りされていたということでしょう。

この情報を、日本のあらゆる宗教界が一丸となって検証し、空海様や最澄様はじめ日蓮様たちがやってこられた、御勤めを再開しなければなりません。

王家の祀りごとを日々欠かさずやっていた、イエスの血を受け継いでいた女王卑弥呼の陵墓も早急に検証し祀らなければなりません。

この我が国の礎を築かれた王家の人達を手厚く祀らなくては、この国がこころ豊かな国になるわけがありません。

天皇家も、日本の宗教界も、行政も一切だれも祀らないとしたら・・・、大変なことになっていきますよこの国は! いえいえ世界中がもっともっと加速度的に混沌となっていくことでしょう。

神様はその時、混沌の原因を助長する人達に手を差し伸べるでしょうか。

    

 

 

 


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