ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

想い出したくないこともある

2013年08月16日 | 通信-沖縄関連

 夏が来れば想い出す、だろうなぁきっと。6月23日は沖縄地方梅雨明けの平年値、梅雨が明けると夏になる。そして、6月23日は慰霊の日でもある。沖縄戦で組織的戦闘が終わった日、もう死の恐怖に晒されなくて済む、と当時生きていた人々が安堵した日。当時生きていて今も生きている方々はそのことをきっと想い出すんだろうなぁ。
 昨日8月15日は太平洋戦争終結の日、1945年6月23日に生きていたウチナーンチュ同様、1945年8月15日に生きていたヤマトゥンチュ(大和人)の方々も「あぁやっと今日から枕を高くして寝られる」と安堵したであろう。

 1945年、父は14歳であった。15歳から動員されるという鉄血勤皇隊に入隊間近だったらしい。沖縄戦を記録した写真集には13歳の勤皇隊少年もいたので、志願すればその歳からでも入隊できたのかもしれない。志願しなかった父はしかし、けして臆病者では無い。志願するほど戦が好きではなかっただけのことであろう。
 その年の梅雨時、激戦地となった南風原に住んでいた父とその家族、私から見ると祖父母と伯母(父の姉)たち一家は家を捨て、南へ逃れて行った。逃れ逃れて摩文仁へ辿り着いた。摩文仁から先は海しかない、岸壁の海、そこが最後の地であることは、海へ身を投げる人々を見て、父も悟ったらしい。「もはやこれまで」と祖父は言い、「わしらも飛び込むぞ(もちろんウチナーグチで)」と決意したらしい。
  ところが、一家は飛び込まなかった。何故か?・・・父から聞いた話で本当かどうか、冗談で言ったのか定かではないが、理由はこうだ。「みんな、ちょっと待て、飛び込むのは待て、わしは帯を忘れてしまった。帯を締めずに死んで、そんな恰好で屍を晒しては武士の恥である。家に帰ろう、帯を取りに行こう」と祖父が言ったとのこと。
 で、家に帰る途中、アメリカ軍に見つかり、あっさり手を上げ捕虜になったらしい。というわけで、一家は死なずに済んだ。その後、一家は頑張って働いて、父も就職でき、結婚もでき、お陰で、私もこの世に生まれることができたわけである。
          

 今年(2013年)6月の末に南風原文化センター、及び沖縄陸軍病院南風原壕群跡を訪ねた。そこは祖父一家が戦前戦中、そして、戦後のしばらく住んでいた場所から車だと5分とかからない場所にある。南風原はあちらこちらが激戦地で、沖縄陸軍病院南風原壕では悲惨な出来事があった、などということを何かの本で読んで知っていた。
  何かの本で知ったことは他にもある。沖縄では「日本軍にスパイ扱いされた、自決を強要された、壕から追い出された、レイプされた」など日本軍は悪い奴らだったという情報が多いが、自決を覚悟した女学生たちに「生き延びるんだ」と諭して、自らは特攻していったサムライもいたらしい。当然だ。日本にはサムライの文化がある。
 沖縄陸軍病院南風原壕群跡の中を案内してくれた年配の女性に訊いた。「日本の軍人にも民間人を守る立派な人も多くいたんですよね」、「それはもちろんです」、「なら、ウチナーンチュにも我が身を守るために酷いことをした人もいるんじゃないですか?」、「それももちろんです。嫌なことは言いたくないから表にはあまり出ないんでしょう」とのことであった。悲惨な毎日の中で、そりゃあ言いたくないこともたくさんあろう。見たこと聞いたことで想い出したくないことはうんとあろう。同情する。合掌。
          

 記:2013.8.16 島乃ガジ丸