ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

曲者の演出、長い散歩

2007年02月16日 | 通信-音楽・映画

 先週土曜日(2月10日)、大好きな桜坂劇場へ行った。映画『長い散歩』を観に。
 『長い散歩』は曲者が演出している。監督が曲者なのである。ちなみに、曲者は「まがりもの」では無い、「くせもの」と読む。時代劇の、ある屋敷の中で、そこの侍が急に立ち上がって、壁に掛けてある槍を取り、その槍で天井を突く。そして叫ぶ。「曲者じゃ、出会え、出会え!」と。その場合の曲者は概ね忍者であることが多い。
 念のため、曲者を広辞苑で引くと、
1、ひとくせある人物。変り者。変人。
2、異常な能力をそなえた人間。
3、妙手。やり手。
4、えたいの知れないもの。用心すべきもの。
5、ばけもの。怪物。
6、あやしい者。不審な者。
などとある。「監督が曲者」で私がイメージする曲者とは、「その男が画面に登場するだけで、何か良からぬ事が起こるんではないかと胸騒ぎがしてしまう。」ような俳優。上記の広辞苑の説明では、1~6までの全ての性格を持った人。

 曲者俳優というと、もうだいぶ前に他界しているが、岸田森なんかが思い浮かぶ。今も大活躍している岸部一徳や火野正平なんかも思い浮かぶ。そして、「その男が画面に登場するだけで、何か良からぬ事が起こるんではないかと胸騒ぎがしてしまう。」ような俳優に最も当て嵌まるのが、映画『長い散歩』を監督した奥田瑛二。
 桜坂劇場から毎月送られて来るスケジュール表に『長い散歩』が紹介されていて、その監督が奥田瑛二と知って、曲者が監督する映画だ、観に行かなくちゃと思った。桜坂劇場からはスケジュール表と一緒にその月、及び翌月上映される映画のチラシなども送られてくる。『長い散歩』のチラシもあった。映画を観る前にそのあらすじ、他人の感想などを私は読まないが、キャッチコピーと出演者くらいは見る。
 「人生は長い散歩。愛がなければ歩けない。」とある。徳川家康は人生を坂道に喩え、苦労して登るものだとしていたが、のんびり屋の私は、「長い散歩道をぶらぶら歩く」方に賛成する。そして、愛は必要である。愛されることもだが、愛することが特に。

  さて、曲者の映画は、「どーゆーこと?」と思うような場面がいくつも現れた。だが、曲者はそれらの説明を十分にしない。「どーゆーこと?」は、登場人物の仕草や表情から「なーんとなく」は読み取れるのだが、はっきりしない。だけど、はっきりしないことがモヤモヤとはならない。その場面の空気が余韻として残るみたいになった。演出が上手いのだと思う。役者の演技も良い。緒方拳は上手い俳優だと再認識もした。
 状況設定があんまり悲惨なので、この映画の空気はファーストフードみたいに手早く感じ取ることができる。しっかりとした味を持つ空気。そこはかとない味を好む私には、ちょっと濃過ぎる味ではあった。でもまあ、良い映画でした。

 後でチラシを読んで知ったことだが、奥田瑛二は、『長い散歩』が3本目の監督作品とのこと。残りの2本も観てみたいと思った。曲者は、なかなかの曲者みたいである。
          

 記:2007.2.16 ガジ丸


筋肉では無く脳の問題

2007年02月16日 | 通信-社会・生活

 1月の最後の日曜日(1月28日)、知人で木工家のMさんを見舞いに病院へ行った。Mさんは脳腫瘍とのことであった。手術で大きな(鶏卵大)ものを摘出したが、まだ少し残っており、それを放射線と薬によって治療しているとのこと。
 「そんな大きな腫瘍ができるまで気付かなかったの?頭痛とか何か、自覚症状みたいなものは無かったの?」と訊いた。
 「真っ直ぐ歩いているつもりが、曲がってガードレールにぶつかったり、タンスにぶつかったり、水平に持っているつもりのコーヒーカップが斜めになってこぼしたりした。右側に腫瘍があったので、左手、左足の感覚がおかしかった。」とのこと。

 去年の暮れ、驚くことが我が身に起こった。車に乗ろうとドアを開けたときに、ドアの上方角が私の頬にぶつかったのだ。「今日は晴れそうだな」と空を見上げながら開けたので、ドアを見てはいない。見てはいないが当然、ドアの取っ手に右手をかけ、右手と体との間隔は把握できているはず。なのに、ドアが頬にぶつかった。いつも通りに普通に開けたので、「いてっ」て声が出るくらいに痛かった。
  そういえば、我が身と物との間隔を把握する能力の衰えは以前からあった。食器を洗って、それを食器乾燥機に入れる際、乾燥機の中にちゃんと置くことができなかったことが過去に何度もある。乾燥機の角に食器をぶつけ、落としてしまい、割っている。
 そういった運動能力の衰えは、筋肉では無く脳の問題なのだ。「うー、もしかしたら俺も、脳に何らかの異変があるかも」と少し不安になる。が、生来楽天家の私はすぐに思いなおす。私の場合は、脳に何らかの異常があるのでは無く、単に、加齢による能力の衰えなのだと。それが証拠に私の場合は、左右関係なく運動能力が衰え、また、記憶力もずいぶん衰えている。脳全体の衰えなのである。病気では無く、老化なのである。

 ということで私は一安心する。そういえば、一年くらい前から夜中1回は目が覚めるようになった。小便である。頻尿である。「よし、やはり老化だぜ。」と、老化であることの証拠をまた一つ見つけて、さらに安心度が増す。幸せな気分に浸る。
 「老化を喜ぶなんて変」と思う人もいるだろうが、これがたぶん、オキナワ的暢気な生き方ではないだろうか。歳取って歩くのがきつくなったり、物忘れが多くなったりしたとしても、生きてりゃあたいてい、いつも幸せということ。たとえ、入院手術なんて状況になったとしても、生きてりゃあ幸せと思えるような精神で、私はありたい。
 木工家のMさんは、病に倒れる前、「パソコン教えてくれー」と私のところにたびたび来ていた。彼は病室にパソコンを置いていた。病気の治療は大変そうであったが、彼はそんな中、パソコンを勉強していた。彼には明日があり、来年もあり、おそらく20年後も30年後も見えるのだろう。彼もまた、真っ当なウチナーンチュなのである。 
          

 記:2007.2.3 ガジ丸